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王都から逃げた元結界技師は辺境で聖女の技術を解明する  作者: 水瀬める


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第29話 鍵


翌朝、店の奥にできたばかりの作業部屋へ入って、リゼットはしばらく無言で立っていた。昨日まで物置だった場所だ。


窓際には古い机。壁際には棚が一つ。まだ何も置かれていない場所の方が多いのに、机の上にはすでに昨日の地図と測定器、それから銀葉を入れた小箱が並んでいる。


「……いい」


思わず声に出た。店の作業台と違って、違う作業をするたびに図面を片付けなくていい。修理待ちの品物と試作品が混ざることもない。何より、広い。


リゼットは椅子へ座り、昨日の地図を広げた。共同倉庫。共同井戸。北の乾燥場。東門の外。丘。


トーマに聞いた場所には、すでに印をつけてある。今日は、まだ確認していない三か所を見に行くつもりだった。


「気に入ってるね」


入口から声がして、リゼットは振り返った。ユアンが壁に寄りかかっている。


「……まあ」

「昨日は『こんなに場所もらっていいんですか』って言ってたのに」

「使っていいと言ったのはユアンでしょう」

「うん。だから使って」


ユアンは部屋へ入ると、机の隅に小さなものを置いた。金属音がする。


「何ですか?」

見る。鍵だった。


「裏口の鍵」

「……なんで?」

「ここの鍵も同じ」


ユアンが作業部屋の扉を指す。

「朝、僕が店にいなくても入れるように」

「いますよね、普通」

「仕入れで早く出る日もあるし」

「待ちますけど」

「待たなくていいよ」


あまりにも当然のように言われて、リゼットは鍵とユアンを交互に見た。


「店の鍵ですよ?」

「そうだね」

「渡していいんですか」

「リゼットになら」

「…………」


最近、こういうことを、平然と言う。そして本人は何とも思っていないような顔をしている。リゼットは鍵を手に取った。小さい。何の変哲もない鉄の鍵だった。


「……なくしたらどうします?」

「作り直す」

「不用心」

「なくす予定なの?」

「そうじゃないですけど」

「じゃあ大丈夫」


適当だ。そう思いながらも、鍵を返す気にはならなかった。


「持ってて」


ユアンが言う。


「はい。ありがとうございます」


鍵をポケットへ入れた。少しだけくすぐったかった。


◇


午後の早い時間に店を閉めたあと、二人は古い共同井戸へ向かった。近所の人が掃除をしているらしく、井戸の周りはきれいだった。


「石ってどれでしょう」

「トーマは北側って言ってたよ」


草の間を探し、先にユアンが見つけた。

「これじゃない?」


地面から出た平たい石には、淡い緑を含む灰色の表面が見えていた。土を払うと、中央に丸い窪みが一つ、その縁へ続く浅い溝が現れる。


「これは、丘の石に似てます」

リゼットはしゃがみ、形と刻線を写した。北の乾燥場では、別の石が小屋の裏口の踏み石になっていた。


「……毎日踏んでるんですか」


近くにいた年配の男が、不思議そうに頷く。


「俺が子どもの頃から階段だぞ」

「昔の設備かもしれないのに……」

「誰も知らなかったんだから、仕方ないよ」


ユアンに言われて、リゼットは息を吐いた。

「少し、表面を見てもいいですか」

「持っていかなきゃいいぞ」


許しをもらい、汚れを払う。こちらは一本の浅い溝が横切り、丸い窪みはなかった。細い刻線も、川向こうで見たものに似ている。


「二種類あるんだね」

「ええ。同じ設備に使われていたとしても、役割は違いそうです」


青花を置く窪みがある石と、ない石。今分かった違いを、写しの横に書き留めた。


「今日は動かさないの?」

「踏み石に試験道具をつないだら、出入りできなくなりますから」


ユアンが笑う。リゼットも少し笑ってから、石へ目を戻した。

「祖父なら、面白がったでしょうね」


口にして、自分でも少し驚いた。昔の話が、身構えるより先に出てきた。


「おじいさん?」

「はい」

「どんな人だったの?」

「変な人でした」

「リゼットのおじいさんだから?」

「どういう意味ですか」

「褒めてる」

「絶対違いますよね?」


言い返してから、鉛筆を持ち直す。


「でも、すごい人でした」


ユアンは、それ以上聞かなかった。東門の外で教えられた石は、土に埋まった部分が多かった。材質は似ていたが、窪みがあるかどうかは見えない。リゼットは無理に決めず、地図の疑問符をそのまま残した。


◇


店へ戻ったのは夕方だった。

裏口へ回り、ポケットから鍵を出す。朝もらったばかりの鍵。差し込む。回す。小さな音がして、扉が開いた。


「……」


妙な感じがする。ユアンは隣で何も言わない。リゼットは扉を開けて、中へ入った。


「ただいま」


自然に出た。一歩後ろで、ユアンが少しだけ目を細めた。


「おかえり」


新しい作業部屋へ入り、今日の写しを机に並べる。明日も、ここで続きを考えられる。リゼットはポケットの上から鍵を押さえた。隣でユアンが棚を空けてくれているのを見て、もう一度、小さく「ありがとうございます」と言った。


◇


アーヴィンから手紙が届いたのは、それから一週間ほど後だった。表の店から呼ばれ、リゼットは鉛筆を置いた。


「リゼット、手紙」


ユアンが差し出した封筒を裏返す。アーヴィン・レイフォード。見覚えのある字を見つけただけで、少し胸が鳴った。


「……届いたんですね」

「今、持ってきてくれたよ」


封を開けると、手紙と、細かく書き込まれた紙が入っていた。王都へは無事に戻ったこと。仕事の合間に、照会しておいた記録を調べていること。同封されていた石の写しには、アーヴィンからの質問が書き込まれていた。


薄くて読み取れなかった刻線。土に隠れていた縁の形。窪みのない石については、まだ似た図が見つからないらしい。


「……ここ、やっぱり気になりますよね」


つい、返事が口に出た。ユアンが隣から見る。


「何か分かった?」

「まだです。でも、同じところを気にしてました」


自分の写しを取りに戻り、二枚を並べる。


「この線、途中で切れてるのか、土で見えないだけなのか。私も、もう一度見たいと思ってたんです」

「うん」

「井戸の石のことも、知らせないと」


話しながら、自分でも分かった。手紙を読んでいるのに、あの作業台で続きを話しているようだった。


顔を上げると、ユアンがこちらを見ている。


「……何ですか?」

「返事、長くなりそうだね」

「そうですね。聞きたいこともありますし、こっちで分かったことも、早く知らせたいです」


リゼットは机の端から便箋を一枚引き寄せた。書き始める前に、もう一度手紙へ目を戻す。


最後には、追記があった。


『もう少し記録を当たる。

まだ探していない資料もある。

直接見たくなったら、閲覧の手配はする。

来るかどうかは、お前が決めろ。』


その下に、少し間を空けて。


『あと、見送りのときに言ったことは変わらない。返事はいらない。』


「…………」

リゼットは無言で手紙を伏せた。


「どうしたの?」

「何でもありません」

「顔赤いよ」

「赤くないです!」

「そう?」

「資料の話です!」

「まだ何も聞いてないけど」

「…………」


何日もたったのに、またこれだ。リゼットは手紙を折り直した。そのとき、ポケットの中で、小さな金属が指先に触れた。ユアンにもらった裏口の鍵。何となく、握る。


「王都」


ユアンが言った。リゼットが顔を上げる。


「行くことになりそう?」


声は普通だった。昨日までと同じ。リゼットは手紙を見る。行けば、もっと分かるかもしれない。見たい。知りたい。その気持ちは、確かにある。


「……まだ分かりません」


正直に答えた。


「でも、必要なら行くと思います」


一瞬、ユアンの目が止まる。それでも、笑った。


「そっか」


リゼットは少し考えてから続けた。


「行っても、帰ってきますけど」

「……」

「この前も言ったでしょう」

「うん」

「資料を見るだけです。ここで試したいこともありますし」


作業部屋を見る。書き込みの増えた地図に、銀葉、三基の試作品。まだ、何一つ終わっていない。


「それに」


ポケットの中で、鍵を握ったまま。


「鍵も預かっちゃいましたし」


冗談のつもりだった。だから、少し笑った。ユアンは、何も言わなかった。ほんの数秒。それから、いつものように笑った。


「なくさないでね」

「なくしませんよ」

「ずっと持ってて」

「店の鍵でしょう?」

「うん」


リゼットは少しだけ笑う。


「分かりました」


また、その言葉だった。

ずっと。


リゼットは手紙と石の写しを持って、作業部屋へ入っていく。


◇


ユアンはその背中を見送った。


遠い王都から届いた一枚の紙が、彼女を笑わせ、頬を染めた。

けれど、手紙を読んだあとも、リゼットはここへ帰ってくると言った。


ユアンは裏口へ目を向けた。

鍵をもらった日に、彼女は自分で扉を開けて入ってきた。


『ただいま』


あの声に、自分が「おかえり」と返した。


王都へ、あの男のところへなんて行ってほしくない。でも、もし王都へ行っても、絶対にまた「ただいま」と帰ってきてくれるよね。そのときは、自分が「おかえり」と迎えるから。


 

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