第28話 部屋
翌日、アーヴィンがいなくなった店は、少し静かだった。別に、普段に戻っただけだ。もともとここにいるのはリゼットとユアンで、アーヴィンがいた数日間の方が例外だった。それなのに、
「……三十二、三十三……」
数えていた起動石の数が分からなくなる。リゼットは手を止めた。
「…………」
もう一度。
「一、二、三……」
「朝から三回目だね」
「!」
顔を上げると、カウンターの向こうからユアンがこちらを見ていた。
「何がですか」
「数え直すの」
「……」
「一回目、二十九個だったよ。二回目、三十一個」
「見てたんですか」
「見えるから」
ユアンは笑っている。昨日と同じ。いつもの笑顔だ。
「三十二個だよ、それ」
リゼットは、思わず顔を伏せ、急いで帳簿に三十二と書き込んだ。その数字を丸で囲んでから、ふと手が止まる。また、昨日のことが頭に浮かんできた。
『好きだからに決まってるだろ』
だめだ。考えない。今は仕事中だ。
『学院の頃から』
考えない。
『楽しかったぞ。お前といるのが』
「もう!」
「何?」
「何でもありません!」
リゼットは黙って起動石を箱へ戻した。ユアンが小さく笑う。
「そんなに気になる?」
「何がですか」
「昨日のこと」
ぴたり。手が止まった。
「……別に」
「そっか」
「……怒ってます?」
今度は、ユアンの手が止まった。
「僕が?」
「昨日、ちょっと変だったので」
「どのへんが?」
「分かりませんけど」
怖い顔をしていた気がした。そのあとも。
『あの人のこと、好き?』
いつものユアンなら、もう少し冗談っぽく聞いた気がする。ユアンは少し考えてから、笑った。
「怒ってないよ」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ何だったんですか」
「……ちょっと焦っただけ」
「焦った?」
聞き返すと、ユアンは帳簿へ視線を落とした。
「秘密」
「なんですか、それ」
「秘密は僕にもあるんでしょ?」
以前、自分が言ったことを返された。
「……まあ、そうですけど」
「じゃあお互い様」
そう言われると、それ以上聞けない。
◇
昼前になると、トーマが店へ顔を出した。
「石の話、聞いたぞ」
「やっぱりもう広まってる……」
リゼットが頭を抱える。
「マルタさん?」
「ああ」
即答だった。
「ですよね……」
「でな。似たような石、昔は他にもあった気がする」
リゼットの手が止まる。
「どこですか」
「昔の共同井戸の近くと、北の乾燥場の端。それから東門の外にも平たい石があった」
「筋は?」
「そこまでは覚えてねえよ」
「丸い窪みは?」
「だから知らんって」
「見に行きます」
「今?」
「はい」
「昼ごはんは?」
「…………」
背後からユアンの視線を感じる。リゼットは諦めた。
「まず食べてから、場所を整理します」
「よろしい」
なぜ店主に食事の許可を取らなければならないのか。納得はいがないが、リゼットは急いでご飯を食べる。
◇
昼食のあと、リゼットはトーマに聞いた場所を町の地図へ書き込んだ。共同井戸、北の乾燥場、東門の外。それぞれの横に、小さく疑問符を添える。
「全部、同じ石かな」
ユアンが隣から覗き込んだ。
「まだ分かりません。筋があるかどうかも、実際に見ないと」
「ただの石だったら?」
「それはそれで、印を消せます」
リゼットは、川向こうで描いた写しを地図の横へ置いた。丘の石にあって、こちらにはない丸い窪み。同じような材質なのに、なぜ形が違うのだろう。
「……見たい」
自然に声が出た。ユアンが横で笑う。
「楽しそう」
「楽しいです。すごく」
リゼットは地図につけた三つの印を見た。
ユアンは一瞬だけ目を細めた。
「そっか」
その顔を見ていると、なぜか、また今朝の「ちょっと焦っただけ」という言葉を思い出しそうになり、リゼットは慌てて地図へ目を戻した。
◇
その日の夕方。
作業台は完全に埋まっていた。場所を書き込んだ地図と、丘の写し。川向こうの石の図、銀葉、測定器、三基の試作品。
その横に、修理待ちのランプが二つ。さらにノーラに頼まれた温熱器。
「……狭い」
リゼットが呟く。
「ついに認めた」
「何をですか」
「棚増やした方がいいって」
「棚の問題じゃありません。机です」
「机増やす?」
「どこに置くんですか」
店内を見回す。もう無理だ。少なくとも客の邪魔になる。ユアンは少し考えるようにしてから、店の奥を指した。
「じゃあ、あそこ使う?」
「あそこ?」
「奥の物置」
リゼットが振り返る。店の裏には、小さな部屋がある。普段は季節外の商品や空き箱を置いているところだ。箱を片づければ、机が一つ入りそうだ。頭の中に、勝手に配置が浮かぶ。壁際へ棚。窓の下に作業台。測定器は右。部品は種類ごとに分けて。
「……」
「もう考えてる」
「違います!」
「そう?」
ユアンが笑った。
「使えば?リゼットの物、どんどん増えてるし、置く場所あった方がいいでしょ」
「……それは、助かりますけど」
「それとも、王都に持ってく?」
何気ない声だった。リゼットが顔を上げる。ユアンは笑っていた。普通に。だから、本当に何となく聞いただけなのだと思った。
「持っていきませんよ」
「そう?」
「仮に資料を見に行くとしても、全部持っていく必要ないでしょう」
ユアンの笑顔が、ほんの少し止まった。
「……行くかもしれないんだ」
「あくまで必要なら、です」
「そっか」
「あの」
「ん?」
「別に、行ったらそのまま王都に住むとかじゃないですよ」
なぜそんな説明をしているのか。自分でも分からない。でも、言っておいた方がいい気がした。
「こっちに家もありますし。仕事もありますし」
「……うん」
「それに」
店の中を見る。三段目の棚。使い慣れた作業台。カウンター。毎日開ける扉。
「作りかけのものも、いっぱいありますから」
ユアンが何も言わない。
「だから、行くとしても調べたら帰ってきますよ」
その瞬間、ユアンの表情が、少しだけ変わった。本当にわずかに。
「帰ってくる?」
「帰ってきますよ」
「ここに?」
「他にどこへ帰るんですか」
言ってから、リゼット自身が少し驚いた。でも、考えてみれば、当然だった。王都には、もう家はない。今の自分の家は、この町にある。仕事も、知っている人たちも、好きな場所も、ここにある。
「……そっか」
ユアンが笑った。今度の笑顔は、妙に嬉しそうだった。
「何ですか」
「嬉しいだけ」
「何がですか」
「帰ってくるって言ったから」
「…………」
リゼットは少しだけ目を逸らした。最近、ユアンはこういうことを、冗談にしない。
結局、物置を片付けることになった。使わない箱を出して、古い棚を動かして、埃を払う。
「それ持ちます」
「重いからいいよ」
「二人なら持てます」
「じゃあそっち」
大きな木箱を二人で運ぶ。途中で手が触れた。前ならすぐ離していた。今日は、一瞬だけ、そのままだった。
気づいたのは、たぶん二人とも。
「……」
「……」
先に目を逸らしたのはリゼットだった。
「こ、こっち置きますよ」
「うん」
ユアンの声が少し笑っている。腹が立つ。でも、嫌ではなかった。一時間ほどで、部屋は驚くほど広くなった。古い机を窓の下へ置く。そこへ、リゼットの測定器を一つだけ置いてみる。
「……」
すごくいい。光も入る。店の中より静かだ。図面も広げられる。
「どう?」
ユアンが聞く。リゼットは机を触った。
「……いいです」
「じゃあ決まり」
「本当に、私、こんなに場所もらっていいんですか」
ユアンは不思議そうな顔をした。
「今さら?」
「今さらって」
「棚一段どころじゃなくなったね」
笑いながら、空になった壁際を見た。
「棚、もう一つ置けるな」
「なんでそんなに増やしたいんですか」
ユアンがこちらを見る。ほんの少し、間があった。
「……リゼットが使うから」
「…………」
その答えは、何でもないはずなのに、なぜか胸に残った。
◇
閉店後。
新しい作業部屋の机に、今日使った地図を置いていく。明日また見るから。測定器も、銀葉も、試作品も。少しずつ、この部屋に自分のものが増えていく。
「忘れ物ない?」
「大丈夫です」
店を出ると、ユアンが隣に並んだ。
家の前に着く。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
扉へ手をかけて、リゼットは振り返った。
「あ」
「何?」
「部屋、ありがとうございます」
「うん」
「大事に使います」
ユアンは少し笑った。
「いっぱい使って」
「そのうち本当に店乗っ取っちゃいますよ」
冗談で言った。ユアンも笑うと思った。けれど、
「それでもいいよ」
「……え」
リゼットは少しだけ眉を寄せる。
「なんてね。早く寝てね」
「またそれ!」
笑いながら家へ入る。扉が閉まる。
◇
ユアンは、今日もリゼットの部屋に灯りがつくまで外で待っていた。
店には、リゼットの図面がある。道具がある。試作品がある。明日続きをする仕事がある。そして今日。とうとう、部屋までできた。
ユアンは小さく息を吐く。
『帰ってきますよ』
思い出す。あれで十分なはずだった。ここに帰ると言った。それなのに、
『こっちに家もありますし。仕事もありますし』
そこに。
自分は入っていなかった。
「…………」
贅沢だ。分かっている。それでも、いつか、家でも、仕事でも、作りかけの魔道具でもなく、自分がいるから帰るのだと、そう言わせたいと思った。




