第27話 見送り
翌朝、リゼットはいつもより少し早く店へ着いた。
「おはようございます」
「おはよう」
ユアンはすでに店を開ける準備をしていた。カウンターの上には帳簿が広げられ、入口近くの箱には今日出す商品がまとめられている。いつもと同じ朝だった。
昨日の帰り際に言ったことを思い出す。
『帰ってきます』
『待ってる』
あのときは何とも思わなかったのに、朝になって思い返すと、少しだけ恥ずかしい。
「……何?」
「何でもないです」
「レイフォードさん、もう行く時間じゃない?」
「あ」
時計を見る。まずい。
「行ってきます」
「うん」
慌てて上着を着る。扉に手をかけたところで、ユアンに呼び止められた。
「リゼット」
「はい?」
振り返る。ユアンはいつも通りの顔をしていた。
「いってらっしゃい」
「はい。いってきます」
◇
アーヴィンが乗る乗合馬車は、町の入口から出る。着いたときには、すでに荷物の積み込みが始まっていた。人の向こうに、深い藍色の髪が見える。
「アーヴィン!」
呼ぶと、彼が振り返った。一瞬だけ目を見開いて、すぐにいつもの顔になる。
「来たのか」
「まあ、さすがに来ますよ」
近づくと、アーヴィンの足元には大きくない旅行鞄が一つだけ置かれていた。
「荷物、それだけですか」
「数日の滞在なら、これで十分だ」
「休暇なのに、毎日店に来てましたね」
「誰のせいだと思ってる」
「私?」
「他に誰がいる」
あっさり認められると、それはそれで調子が狂う。アーヴィンは上着の内側から紙束を取り出した。この数日で写した、丘と川向こうの石の図だった。
「これは借りる」
「なくさないでくださいね」
「子どもじゃない」
「大事な資料なので、折らないように」
「お前は俺を何だと思ってるんだ」
「学院時代、私の図面の上に本置いた人」
「一回だけだろ」
「覚えてるじゃないですか」
「お前が三日怒ってたからな」
「当然です」
話しているうちに、二年前までこうして毎日のように言い合っていたことを思い出す。あまりにも普通で、だからこそ不思議だった。二年以上、一度も会わなかった。それなのに、数日一緒にいれば、昔の続きみたいに話せてしまう。
「……変ですね」
「何が」
「アーヴィンとこうやって話してるの」
「今さら?」
「だって、二年以上会ってなかったんですよ」
「ああ」
「その間、私がどこにいるかも知らなかったでしょう」
アーヴィンが少し黙った。
「探さなかったからな」
「……そうなんですか」
「探せなかったわけじゃない」
その言葉に、リゼットは顔を上げた。アーヴィンなら、確かに。家の名前も、学院の人脈も、今の立場もある。本気で探せば、見つけられたのかもしれない。
「お前、見つけてほしそうじゃなかっただろ」
「…………」
「だから探さなかった」
淡々と言う。責めるでもなく、恩を着せるでもなく、ただそうしたというだけの声だった。
「じゃあ」
リゼットは少し迷ってから聞いた。
「今は、どうして来たんですか」
「雪景球を見つけたから」
「それは分かってます」
「じゃあ何だ」
「……わざわざ休暇取ってまで来たでしょう」
アーヴィンが眉を上げる。
「そうだな」
「図面だけなら、誰かに確認させることだってできたんじゃないですか」
「できた」
「じゃあ何で」
アーヴィンはリゼットを見た。何を今さら、という顔だった。そして、本当に何でもないことのように言った。
「好きだからに決まってるだろ」
馬車の車輪の音がした。遠くで誰かが荷物を呼ぶ声もする。リゼットは瞬きをした。一回。二回。
「……好き?……好きって、誰を?」
「お前を」
「…………」
「何だその顔」
「え!??いつから!?」
思ったより大きな声が出た。近くにいた人がちらりとこちらを見る。アーヴィンは全く気にしていない。
「学院の頃から」
「学院!?」
「ああ」
「何を今さらみたいな顔しないでください!」
「何を今さら」
「言った!」
「だから、学院の頃からだ」
「そんなの一回も聞いてません!」
「言ってないからな」
「分かるわけないでしょう!!」
アーヴィンが少し眉を寄せた。
「態度で分かると思ってた」
「どの態度ですか!!」
「……お前の設計に毎回付き合ってただろ」
「仕事です!!」
「課題終わっても付き合ってた」
「議論したかっただけかと!」
「夜中まで?」
「あなたも楽しかったんでしょう!」
「楽しかったぞ。お前といるのが」
「…………」
そこで初めて、言葉が止まった。ずるい。後からそんな説明をされても、全部意味が変わってしまう。学院の実習室。図書室。提出前の夜。雪。喧嘩みたいな議論。毎回こちらの設計に文句を言いながら、最後まで付き合っていた男。
「……分かりませんよ、そんなの」
「そうみたいだな」
「そうみたいだな、じゃないです!」
アーヴィンは少し笑った。腹が立つ。なのに、顔が熱い。絶対に赤くなっている。
「じゃあ、何で今まで言わなかったんですか」
「言う必要がなかった」
「必要ありますよ!」
「お前、あの頃は魔道具と結界しか見てなかっただろ」
「そんなこと」
否定しかける。否定できない。
「それに」
アーヴィンの声が少しだけ低くなった。
「あの日のあとに言うことじゃなかった」
リゼットは黙った。空気が、少し変わる。
「お前が王都を離れたとき、追いかけて『好きだ』なんて言って、何になる」
「……」
「戻ってこいって意味にしか聞こえないだろ」
リゼットは答えられなかった。たぶん、あの頃の自分なら、そう受け取った。
「だから探さなかったんですか」
「ああ」
「……ずっと?」
「そうだ」
初めて、アーヴィンの声に、ほんの少しだけ別のものが混じった。寂しかったのかもしれない。そんなことを考えた瞬間、また胸が落ち着かなくなる。
「でも、雪景球で見つけた」
「……はい」
「だから来た」
「……その……好き……だから?」
「そう言ってるだろ」
本当に、朝から何をしているんだろう。出発を知らせる声がした。アーヴィンが馬車へ目をやる。
「そろそろだな」
「……はい」
アーヴィンが鞄を持つ。
「リゼット」
「何ですか」
「一応言っておく」
「返事はいらない」
「……え」
「別に今日、告白するつもりで来たわけじゃない。聞かれたから答えただけだ」
「それと」
アーヴィンは構わず続ける。
「王都に来るかどうかを、今の話で決めるな」
リゼットが止まる。
「来たければ来い。調べたいなら手伝う。嫌なら来なくていい」
「……」
「俺がお前を好きなのと、お前がどこで何をするかは別の話だ」
胸の奥が、少しだけ痛くなる。優しいからではない。アーヴィンは昔から、こういうところが妙に真っ直ぐだった。
「……分かりました」
「ならいい」
「でも」
「何だ」
「もうちょっと言い方ってものがあると思います」
「まだ言うのか」
「一生言います」
「じゃあまた聞くことになるな」
一瞬、意味が分からなかった。分かって、リゼットは少しだけ笑った。
「……また来る気ですね」
「必要ならな」
「必要じゃなくても来そう」
「そうかもな」
馬車へ乗る。窓際の席から、アーヴィンがこちらを見る。
「じゃあな」
「はい」
「資料、送る」
「待ってます」
馬車が動き始める。数歩だけ追う。
「アーヴィン!」
窓から顔が向く。何を言うのか、自分でも決めていなかった。
「……気をつけて!」
結局、そんな普通の言葉しか出なかった。アーヴィンが少し笑う。片手を上げる。馬車はそのまま、町の外へ向かっていった。見えなくなるまで待って、リゼットは大きく息を吐いた。
それから、両手で顔を覆った。
「何なの……」
学院の頃から。
好き。
ずっと。
知らなかった。全然、本当に、一度も。
「分かるわけないでしょう……」
誰もいない道で呟いて、店へ戻った。
◇
扉を開ける。ベルが鳴る。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
ユアンの声。いつもの声。その瞬間、なぜか少しだけほっとした。
「早かったね」
「そうですか?」
「うん。もう少しかかるかと思ってた」
「馬車が出るまでいただけなので」
ユアンがこちらを見る。そして、少し首を傾げた。
「……何かあった?」
「何も」
「顔赤いけど」
「寒かったんです」
「今日そんな寒くないよ」
「走ったので」
「どこを?」
「…………」
逃げ道がない。ユアンはカウンターに肘をついて、じっとこちらを見ている。
「何言われたの?」
「何で言われた前提なんですか」
「その顔で帰ってきたから?」
「普通です」
「全然普通じゃない」
困った。言いたくない。というより、どう言えばいいのか分からない。
『アーヴィンが学院の頃から私を好きだったらしいです』
何だそれは。言葉にしたら、ますます現実味が増す。
「リゼット?」
「……」
「そんなに言いたくないなら聞かないけど」
その言葉に、リゼットは顔を上げた。本当に、ユアンは聞かない。昔からそうだった。聞きたいことがあっても、こちらが嫌そうなら引く。ずっと、そうだった。
だから、気づけばこちらから話すようになった。
「……好きだって」
ユアンの動きが止まった。
「え?」
言ってしまった。
「アーヴィンに、学院の頃から、私のこと好きだったって言われました」
沈黙。ほんの一瞬だった。それなのに、妙に長く感じた。
「……へえ。そうなんだ」
ユアンが笑った。
「びっくりしますよね!?」
「うん」
「全然知らなかったんですよ!」
「うん」
「態度で分かると思ってたとか言うんですよ!」
「……それは分からないね」
「ですよね!」
味方を見つけた気がして、リゼットは勢いづく。
「課題に夜中まで付き合ってたのが、そうだったらしいです」
「夜中まで?」
声が、ほんの少しだけ変わった。リゼットは気づかず頷く。
「しかも返事はいらないって。そのまま帰りました」
「……返事、してないんだ」
「する暇ないですよ!」
「…………」
ユアンは一度、視線を落とした。
「ユアン?」
「ん?」
「何か怖い顔してませんでした?」
一瞬、ユアンは黙った。それから、にこりと笑う。
「気のせい」
「……そうですか?」
「うん」
そして、何気なく続けた。
「それで、リゼットは?」
「何がですか」
「あの人のこと、好き?」
「…………」
今度は、リゼットが止まった。
「え」
「聞くだけ」
笑っている。いつものユアンだ。なのに、なぜかすぐに答えなければいけないような気がした。
「わ、分かりません」
「分からない?」
「だって今までそんなふうに考えたことなかったので!」
「……そっか」
ユアンは帳簿へ視線を戻した。けれど、ページは一枚もめくられなかった。しばらくして、ユアンが、ふと口を開く。
「リゼット」
「はい?」
「今日も送るから」
「毎日でしょう」
「うん」
当たり前のように答える。
「毎日」
リゼットは呆れたように笑った。
「もう一人で帰れます」
「それも知ってる」
「じゃあ何で」
ユアンは一瞬だけ、答えを迷った。そして、笑った。
「僕が一緒に帰りたいから」
「…………」
今までなら、冗談っぽく続けたかもしれない。
『なーんてね』と。
けれど、今日は言わなかった。リゼットの頬が、ほんの少しだけ赤くなる。
◇
ユアンはそれを黙って見ていた。さっきも、店へ戻ってきたとき、同じ顔をしていた。アーヴィンに何かを言われて、あの男のことを考えて、あんなふうに頬を赤くしていた。
「…………」
気に入らない。
あの男は、昔を知っているだけの相手ではなかった。今もリゼットが好きで、それを本人に伝えた。
まだ分からない、と彼女は言った。
その答えにほっとした自分がいた。けれど、明日も同じ答えだとは限らない。
ユアンは、静かに息を吐いた。
「ユアン?」
「ん?」
呼ばれて顔を上げる。いつものように笑う。
「何でもないよ」
リゼットは少し怪訝そうな顔をしたあと、また作業台へ戻っていった。




