第26話 窪みのない石
翌朝は、店の定休日だった。
リゼットは、いつもと同じ時間に店へ来た。
「おはようございます」
「おはよう。」
作業台の脇には、昨日まとめておいた道具鞄がある。今日、川向こうの石を見に行くためのものだ。
リゼットが留め具を開き、中身を確かめていると、アーヴィンも来た。
「おはよう」
「今日はちゃんと朝ですね」
「昨日も朝だった」
「昼前でした」
「細かいな」
「時間は大事です」
「学院の頃、提出締切ぎりぎりまで図面直してたやつが言うな」
「完成度の方が大事だったんです!」
ユアンがカウンターの向こうで笑う。もう完全に見慣れた光景になっているらしい。
「揃ったし、そろそろ行こうか」
ユアンに言われ、リゼットは写しを鞄へ入れた。
「はい。今日は全部写してきたいので」
「見て帰るだけって昨日言ってなかった?」
「…………」
言った。言った気はする。アーヴィンが笑った。
「結果的に予定が変わっただけです!」
「はいはい」
◇
三人で店を出た。川向こうまでは、本当に二十分ほどだった。
町の中央を抜け、小さな橋を渡る。川幅はそれほど広くない。雪解けの頃には増水するらしいが、今は水量も穏やかで、浅い水面に空が揺れている。橋を越えたところで、ユアンが当然のようにリゼットの道具鞄を持った。今日はもう取り返さなかった。
それを見たアーヴィンが言う。
「諦めたのか」
「何がですか」
「鞄」
「毎回言い合うのも面倒なので」
「進歩だな」
「何で上からなんですか」
「でも楽でしょ?」
ユアンが横から聞く。
「……まあ」
「ほら」
「だからって毎回持たなくてもいいです」
「嫌?」
「嫌ではないですけど」
ユアンが笑った。何となく、その「嫌ではない」を聞いたときの顔が、妙に嬉しそうだった。昔の共同倉庫は、川沿いの道から少し外れたところにあった。
今はほとんど使われていないらしく、石造りの壁には蔦が這っている。その裏手へ回ると、マルタが言っていた通り、大きな平たい石が地面に半分埋まっていた。
「これですね」
リゼットはしゃがみ込み、ユアンから受け取った布で土を払った。淡い緑を含んだ灰色。滑らかな表面に、薄い光沢が残っている。
「同じ石ですよね」
「たぶんな」
アーヴィンも隣へしゃがんだ。一本の浅い溝と、その周囲の細い刻線。けれど、中央を見たリゼットの手が止まる。
「……窪みがない」
丘の石にあった、花を収める丸い窪みがどこにもない。浅い溝は途中で窪みに入らず、反対側の縁まで続いていた。ユアンが覗き込む。
「花、どこに置くの?」
「それが、分からないんです」
傷や欠けで失われたようには見えなかった。写しを並べると、似ているところと、明らかに違うところがある。リゼットは溝に銀葉を沿わせ、ごく弱い試験魔力を流した。結界は出ない。接点を確かめ直しても、丘で見た膜は現れなかった。
「壊れてる?」
ユアンが聞く。
「その可能性もあります。でも、もともと別の使い方をする石なのかもしれません」
リゼットは魔力を止め、石の写しへ結果を書き添えた。
「こっちは、何をするんでしょう」
「分からない」
「……気になります」
「顔を見れば分かる」
リゼットが睨むと、アーヴィンはわずかに笑った。
「丘の写し、貸せ」
「はい。この刻線も見てください」
「ここか」
指すより先に、彼の目がその箇所へ向いていた。二人で図を寄せ、線を一つずつ見比べる。風に浮いた紙を、横からユアンが押さえた。
「ありがとうございます」
「うん」
ユアンは二人の手元を見て、少し笑った。
「二人とも、こういう話になると夢中だね」
「……あ」
いつもの笑顔だった。リゼットはアーヴィンとの間に寄せていた紙を少しユアン側へずらす。
「すみません」
「謝らなくていいよ。楽しそうだし」
その言い方が少しだけ胸に引っかかった。けれどユアンは、紙が飛ばないよう押さえたまま、石へ目を戻していた。使い道の答えは出なかった。それでも、石の形と刻線を見落とさずに写そうとすると、思っていたより時間がかかった。
ユアンに促されて昼食を挟んでも、写しはまだ終わらなかった。
◇
「見て帰るだけだったな」
帰り道。アーヴィンが言う。
「見ましたよ」
「ずいぶん長く見たな」
「時間は関係ありません」
「時間は大事なんじゃなかったか?」
「…………」
朝の自分が余計なことを言っていた。橋へ差しかかったところで、川沿いの石に足を取られた。
「あ」
身体が傾く。腕を掴まれた。アーヴィンだった。
「危ない」
「……ありがとうございます」
「下見て歩け」
「図を見てたので」
「だからだ」
手を離される。ただ、それだけ。なのに、一歩後ろにいたユアンが、黙ってこちらを見ていた。
「ユアン?」
呼ぶと、すぐに笑う。
「何?」
「……いえ」
気のせいだと思う。次の瞬間、ユアンがリゼットの手から紙の束を抜き取った。
「ちょっと」
「持つ」
「鞄も持ってるでしょう」
「転ぶよりいいでしょ」
「……」
言い返せない。ユアンが紙を持ったまま歩き出す。アーヴィンが隣で小さく笑った。
「過保護だな」
ユアンが振り返る。
「そうですか?」
「かなり」
「リゼットが危なっかしいから」
「それは否定しない」
「アーヴィン!」
ユアンは笑っていた。いつも通りに。でも、リゼットが前を向いたあと、一瞬だけ、その笑みが消えた。
◇
店へ戻ったのは夕方だった。
マルタがすでに待っていた。
「遅い!」
「なんでいるんですか!?」
「どうだったのよ、石!」
結局、石のことを簡単に説明する羽目になった。
「じゃあ、聖女様の石って本当に魔道具だったの?」
マルタが目を丸くする。
「丘の石は、結界を作る設備でした。今日の石は、使い道がまだ分かりません」
「丘の方は、結界が出たんでしょう?」
「小さいのが一瞬です!」
「結界は結界じゃない」
「そうですけど……」
マルタは、何やら嬉しそうに頷いている。明日には町中へ広まると覚悟しておいた方がいいかもしれない。
持ち帰った写しを整理しているうちに、外は薄暗くなっていた。
◇
アーヴィンが荷物をまとめた。
「明日の朝、発つ」
分かっていた。それでも、改めて聞くと、少しだけ変な感じがした。
「早いですね」
「もう少しいろってことか?」
「仕事あるんでしょう」
「ああ」
「じゃあ帰ってください」
「お前さっき早いって言っただろ」
「事実を言っただけです」
「相変わらずだな」
アーヴィンが笑う。そして、少しだけ声を落とした。
「向こうで調べる」
「はい」
「分かったことがあれば送る」
「お願いします」
「必要なら、また来る」
リゼットが顔を上げる。
「また?」
「来たら悪いか」
「悪くないですけど」
「じゃあ来る」
勝手だ。昔から。
「今度は仕事で来るかもしれない」
「……この件で?」
「ああ。国の古い結界技術が絡むなら、俺一人の興味で終わらない可能性がある」
少しだけ、空気が変わる。王都。公的な調査。国の結界。遠かったものが、少しずつ、こちらへ近づいてくる。
「怖いか」
アーヴィンが聞いた。リゼットは考えた。
「……少し」
正直に答える。
「でも」
作業台を見る。三基の試作品と銀葉、丘の図、今日の石の写しが並んでいる。
「知りたいです」
アーヴィンが頷く。
「なら、それでいい」
それから、何でもないことのように言った。
「無理になったら、やめればいい」
リゼットが瞬く。
「……それ」
「何だ」
「ユアンみたいなこと言いますね」
少し離れたところで、帳簿を閉じていたユアンの手が止まった。アーヴィンは眉を寄せる。
「そうなのか?」
「はい。嫌ならやめればいいって、よく」
「……そうか」
アーヴィンがユアンを見る。ほんの短い視線。
「いいこと言うな」
「どうも」
ユアンは笑った。けれど、リゼットにはなぜか、その笑顔がいつもより少しだけ薄く見えた。アーヴィンが帰ったあと、二人で道具を片づける。
「明日、朝早いんですよね」
「みたいだね」
「見送りくらい行った方がいいかな」
何気なく言った。ユアンの手が止まる。本当に、一瞬だけ。
「行きたい?」
「え?」
「見送り」
声は普通だった。リゼットは少し考える。
「……まあ」
何日も一緒に調べた。二年近く会っていなかった。またいつ会えるかも、まだ分からない。
「行こうかなとは思ってます」
「そっか」
ユアンは笑った。
「じゃあ行っておいで」
あまりにも普通だったから、リゼットは気づかなかった。その言葉を口にするまで、彼が、ほんの一瞬だけ、息を止めていたことに。
「ユアンは?」
「僕?」
「行かないんですか」
一拍。
「店開ける人いなくなるでしょ」
「ああ、そっか」
「僕はここにいるよ」
いつもの店。いつもの場所。ユアンは何でもないことのように続けた。
「帰ってきたら、開いてるから」
胸が温かくなる。リゼットは笑った。
「はい。帰ってきます」
その言葉に、ユアンの目がほんの少しだけ細くなった。
「うん、待ってる。」
やっと、いつもの笑顔に戻る。
リゼットには、その言葉が、ただ優しく聞こえた。けれど、ユアンの中では、
『帰ってきます』
その一言が、思っていた以上に深く、静かに沈んでいた。




