第25話 あと二日
「起きよう」
リゼットは布団の中でそう呟いて、目を開けた。枕元の時計を見る。六時間半。
「……よし」
誰に報告するわけでもないのに、小さく頷く。これなら文句はないだろう。昨夜は、本当に図面を開かなかった。開きたかったし、丘で見た結界のことも銀葉のことも、考えたいことはいくらでもあった。
そこまで考えてから、昨夜のもう一つの言葉まで蘇る。
『ずっと持ってる』
「…………」
リゼットは無言で布団を頭まで引き上げた。朝から思い出すものではない。数秒だけそのままでいてから、勢いよく布団を剥ぐ。
「……起きる!」
今度こそベッドを出た。
◇
店の扉を開けると、いつものベルが鳴った。
「おはようございます」
「おはよう」
リゼットは上着を脱ぎながら、ついユアンの胸元へ目をやった。今日は革紐すら見えない。その視線に気づいたらしい。
「あるよ」
ユアンが襟元を少し引くと、服の下から小さな結界具が覗いた。
「ずっと持ってるって言ったでしょ」
「…………」
せっかく朝、布団の中へ置いてきたはずの言葉が戻ってきた。
「確認しただけです」
「うん」
「魔道具の管理状態を」
「うんうん」
絶対に信じていない。
「もういいです」
リゼットは作業台へ向かった。鞄から、昨夜は広げなかった石の写しを取り出す。丘の石と、昨日ほんの一瞬だけ現れた小さな結界。六百年前の設備を、そのまま再現する必要はない。今確かめたいのは一つだけだった。
小さな結界を別々に動かし、その一つを止めたとき、残りが本当に動き続けるのか。分かるところだけ、今の部品で作ればいい。
「……三つ」
リゼットは呟きながら、紙の上に小さな円を三つ描いた。
「三つ作るの?」
いつの間にか隣へ来ていたユアンが覗き込む。
「試験用です」
「また増えるね」
ユアンが三段目の棚を見る。
「棚は増やしません」
「まだ何も言ってないよ」
「顔が言ってます」
返しながら、リゼットは必要な部品を集め始めた。
◇
昼前。
入口のベルが鳴った。
「来たぞ」
顔を上げなくても分かる。アーヴィンだった。
「何してる」
「昨日言ったでしょう。作って確かめるんです」
その一言で、足音が少し速くなる。アーヴィンは作業台へ来ると、三つ並んだ小さな石板を見た。
「三基か」
「はい。今はこれで十分です」
三基には、それぞれ別の小型魔力核をつないである。丘の石の刻線を写したものではなく、リゼットが今の部品で組んだ試作品だった。一基ずつは、人一人すら守れないほど小さい。同じ条件で起動すると、作業台の上に青白い膜が三つ浮かんだ。
「中央を止めます」
真ん中の膜だけが消えた。左右の二つは、最初から何も起きなかったように残っている。リゼットはしばらく、その形を見つめた。
「……これなら」
予想していた通りだった。それでも、頭の中にしかなかった形が目の前で動いているのを見ると、胸が高鳴った。
アーヴィンも二つの結界を見て、静かに頷いた。
「リゼット」
ユアンに呼ばれて振り返る。
「すごい顔してる」
「え?」
「嬉しそう」
頬に触れてみる。確かに笑っていたらしい。
「……嬉しいですよ」
リゼットは、残っている二つの結界へ目を戻した。
「考えていた通りに動いてくれたので」
「次は?」
アーヴィンが聞く。
「三つとも動かしたまま、少し様子を見ます」
止めていた中央の一基へ手を伸ばす。まだ、試したいことがたくさんあった。
◇
昼。
三人で食事をしていると、アーヴィンが何気なく言った。
「俺、明後日には王都へ戻る」
リゼットの手が止まった。
「あ」
そうだった。休暇で来ているのだから、ずっとこの町にいるわけではない。
「もうですか」
口から出てから、自分でも少し驚いた。アーヴィンがこちらを見る。
「もう、って何だ」
「……別に」
「寂しいのか?」
「違います!」
即答すると、アーヴィンが笑った。
「照会は出したが、返事が来る頃には俺も向こうだろう。戻ったら直接当たる。記録が出たら写しを送る」
「お願いします」
「それと」
アーヴィンがパンを置いた。
「探す範囲が広くなったら、王都で直接見た方が早い資料もある」
リゼットの手が、わずかに止まる。
「……そうでしょうね」
「閲覧の手配ならできる」
王都。その言葉が、昨日までと少し違って聞こえた。行けば、もっと分かる。六百年前の記録も、昔の結界も。調べたい。そう思う一方で、胸の奥の別の場所がほんの少し固くなる。アーヴィンはそれを見たらしい。
「今すぐ来いって意味じゃない。必要になったら、だ」
リゼットが顔を上げる。
「行きたくないなら、資料だけできる範囲で送る」
「そんなことできるんですか」
「機密でなければな」
昔なら、行くと即答したかもしれない。知りたいなら現物を見る。必要なら、そこへ行く。迷う理由なんてなかった。今は。
「少し考えます」
「それでいい」
アーヴィンは、それ以上何も言わなかった。向かいに座るユアンも静かだった。何となく視線を向けると、普通に食事をしている。目が合った。
「何?」
「……いえ」
「王都、行きたい?」
不意に聞かれた。リゼットは少し考える。
「調べたいとは思います。でも……今すぐではないです」
「そっか」
返事が、少しだけ早かった。
「……?」
いつも通り笑っている。だから、気のせいだと思った。
◇
午後。
マルタが店へ来るなり言った。
「聞いたわよ」
「何をですか」
「あんた、昨日丘で銀の葉使って何かやってたんですって?」
リゼットの手が止まった。
「……誰からですか」
「子どもたち」
「いたんですか!?」
「いたみたいよ。『リゼット姉ちゃんが聖女様の石で銀の葉使って遊んでた』って、朝から話してたわ」
夢中で、まったく気づかなかった。
マルタが楽しそうに笑った。
「もう結構広まってるわよ。何してたんだって、みんな、銀の葉に使い道があるのか気になるみたい」
「まだ調べてる途中なのに……」
「分かってるわよ」
リゼットは、昨日ユアンと話したことを思い出した。
「マルタさん、丘の石に似たものって、他にもありませんか?」
「似たもの?」
「平たくて、表面に細い筋が刻まれている石です」
マルタは少し考えた。
「そういえば、川向こうの古い共同倉庫にも、変な筋のある石があったわね」
リゼットは顔を上げた。
「川向こう?」
「裏手よ。昔、あそこで転びかけたから覚えてるの」
「明日、見てきます」
答えると、横でユアンが笑った。
「即決だね」
「まず見てくるだけです」
「明日は店も休みだし、朝から行こうか」
「……1人でも大丈夫ですよ」
「案内するよ。共同倉庫の場所、分かる?」
「川向こうですよね」
「川向こう、広いよ」
作業台の向こうからアーヴィンが口を挟んだ。
「俺も行く」
「そう言うと思いました」
「じゃあ、朝ここに集合ね」
ユアンが言った。
◇
閉店後。
アーヴィンが宿へ戻る準備をする。
「じゃあ明日」
「はい」
「寝坊するなよ」
「しません。そっちこそ遅れないでください」
「丸一日いられるのは、明日だけだからな。遅れるか」
扉へ向かう背中に、ユアンが不意に声をかけた。
「レイフォードさん」
「何だ」
「明後日帰るんですよね」
「ああ」
「そっか」
ユアンは笑った。
「よかった」
リゼットが振り返る。アーヴィンも足を止めた。
「……何がだ?」
ほんの一瞬、ユアンが黙る。けれど次の瞬間には、いつもの笑顔だった。
「店、ちょっと狭かったから」
アーヴィンが眉を上げる。
「そうか」
「うん」
「明日までは我慢してくれ」
「仕方ないですね」
何だこれ。
「店主と客が喧嘩しないでください」
「してないよ」
「してない」
二人の声が揃った。アーヴィンが帰ったあとも、ユアンはいつも通りだった。
「これ三段目でいい?」
「はい」
「明日の鞄、用意しとく?」
「自分でやります」
「持つのは僕だけどね」
「また言ってる」
何も変わらない。だから、さっきの「よかった」も、本当に店が狭かっただけなのだと思った。
◇
帰り道。リゼットが言う。
「明後日、アーヴィン帰るんですね」
「うん」
「なんか、早かったです。来たときはいつまでいるのと思ったのに」
「そう?」
「昔の人が急に来るって、変ですね。二年前まで毎日のように会ってたのに」
「うん」
「今は、王都に帰るって聞くと……また遠くなる感じがする」
ユアンの歩みが、ほんの一瞬だけ遅くなった。
「寂しい?」
リゼットは少し迷ってから、正直に答えた。
「……少しは」
ユアンは笑った。
「そっか」
それだけ。声は、いつもと同じだった。
家の前に着く。
「おやすみ、リゼット」
「おやすみなさい」
◇
少しすると、窓に灯りがついた。いつもなら、それを確認したところで帰る。けれど今日は、ユアンの足は動かなかった。
『……少しは』
寂しい。
たったそれだけの言葉が、思っていたよりずっと気に入らなかった。学院時代からの付き合いがある相手が王都へ帰るのだ。少しくらい寂しいと思うのは当然だと分かっている。分かっているのに、胸の奥に、黒いものが沈んでいる。王都。アーヴィン。
自分の知らない頃のリゼット。学院にいた頃も、魔道具に夢中だった頃も、王都で働いていた頃も、あの男は知っている。それだけじゃない。アーヴィンなら、リゼットが一度離れた場所へ、彼女の隣で手を伸ばせる。
昼間の返事を思い出す。
『今すぐではないです』
そう答えたリゼットを見て、自分が安心したのがはっきり分かった。
「……参ったなあ」
いつものように笑おうとして、やめた。誰も見ていないのだから、笑う必要なんてない。もし、リゼットが王都へ行きたいと言ったら。自分は笑って送り出せるだろうか。
「行っておいで」と。
いつもみたいに、好きにすればいいよ、と。
「…………」
少し考えて、やめた。そんなこと、今さら考えるまでもない。だって、ここまで来るのに、どれだけ時間をかけたと思っている。最初の頃のリゼットは、何を聞いても笑って誤魔化した。少し踏み込めば、すぐに引いた。いつでも、どこかへ消えてしまいそうだった。
だから聞かなかった。追わなかった。無理に触れなかった。逃げ出したくならないように。ここにいても大丈夫だと思えるように。大事に、大事に扱ってきた。急がずに、少しずつ。
そうして積み重ねた毎日が、彼女をここにつなぎとめるものになっていてほしかった。
「…………」
今さら、手放せるか。ユアンは胸元へ手をやった。服の下には、リゼットが作った小さな結界具がある。
『ずっと持っててくださいね』
指先で、その形をなぞる。
「ずっと、か」
だったら、リゼットだって、ずっとここにいればいい。この町で。この店で。自分の隣で。窓の向こうには、まだ灯りがついている。今日もいる。ここに。明日もきっと店へ来る。自分が扉を開ければ、「おはようございます」と言う。
そう思うと、さっきまで胸の奥に溜まっていたものが少しだけ静まった。ユアンは灯りのついた窓を見上げた。
「……王都へ行きたいなんて、言わないでね。リゼット」
その声は誰にも届かない。
ユアンは笑っていなかった。




