第24話 結界
青白い膜は、もう消えていた。それでもリゼットは、さっきまで光が浮かんでいた場所から目を離せなかった。
六百年前の石。中央に置いた青花。そして、ほんの一瞬だけ現れた結界。
「……もう一回」
道具へ手を伸ばす。けれど、その前にアーヴィンの声が飛んだ。
「待て」
「条件を揃えます。今度は測定器も――」
「待て、リゼット」
さっきより強い声だった。リゼットの手が止まる。
「何ですか」
「手」
「……手?」
言われて、ようやく気づいた。細い魔力線を持った指が、わずかに震えている。リゼットは反射的に手を握り込んだ。
「別に。大丈夫です」
「そうは見えない」
「でも、今のうちに――」
「明日も調べられる。今日はここまでだ」
アーヴィンはしゃがみ、石につないだ魔力線を外した。
「まだ終わってません」
「記録は残しただろ」
「そういう話じゃなくて」
小さな部品へ手を伸ばす。けれど、うまくつまめなかった。指先から滑ったそれを、アーヴィンが拾う。
「…………」
彼は何も言わず、部品を鞄へ戻した。
リゼットは手を引く。
悔しい。
怖いわけではない。
たぶん。
ただ、頭の中がひどくうるさかった。
さっき見た結界。あれが、本当に国を守った技術の一部だったのなら。もし、あのとき、自分も知っていたら。
「……もし」
声が漏れた。アーヴィンがこちらを見る。リゼットは石から目を離せなかった。
「もし、あのとき、これを調べていたら――」
「やめろ」
即座だった。リゼットが顔を上げる。アーヴィンの表情は、さっきまでとは違っていた。
「何で」
「それを今のお前が考えるな」
「でも」
「なかった」
低い声が、はっきりと言い切る。
「あの日、俺たちはこの石のことを知らなかった」
「でも、六百年前には――」
「今日知ったんだろ」
言葉を塞がれる。アーヴィンは石を指した。
「結界が出ると分かっただけだ。どこまで守れるのかも、どれだけ持つのかも、まだ分からない」
「……分かってます」
「だったら」
一歩、アーヴィンが近づく。
「今日見つけたものを持って、過去に戻るな」
リゼットは黙った。
「お前があの日持ってたのは、あの設備と、残ってた魔力と、その時点で分かってた情報だけだ」
胸の奥が痛んだ。赤い警告灯。減っていく数値。守れない区域。決めなければならなかった時間。そして——
『どうして私たちは守ってもらえなかったの?』
アーヴィンの声が落ちる。
「今の知識を足して、昔のお前を責めるな」
「責めてません」
反射的に答えた。アーヴィンが黙る。リゼットも、自分の言葉に黙った。
責めていない。
本当に?
ずっと、何年も。
「……分かりません」
声が小さくなる。
「今でも、もっと何かできたんじゃないかって思うことはあります」
アーヴィンは否定しなかった。
「そうだろうな。だが、今日この石が見つかったことと、あの日の判断が正しかったかどうかは別だ」
風が吹き、石の上の銀葉を揺らした。
リゼットは何も答えられなかった。
ずっと後悔している。だから、間違えたのだと思っていた。その二つを、同じものみたいに。
「……アーヴィンって」
ようやく声を出す。
「何だ」
「たまにまともなこと言いますね」
「お前な」
「だって、急に真面目なこと言われると反応に困るんです」
「俺はずっと真面目だ」
「学院のとき、私の図面に『過保護』って書きましたよね」
「事実だった」
「ほら!」
言い返すと、少しだけ呼吸が楽になった。
アーヴィンは残った道具をしまい、鞄を閉じた。
「帰るぞ」
今度はリゼットも逆らわなかった。
「……はい」
◇
丘を下りながらも、頭の中ではさっきの小さな光が消えなかった。
十分な魔力を流せば、もっと広がるのかもしれない。あの石が本来どこまで守れたのかは、まだ分からない。
それでも、石の上に浮かんだ小さな結界が、妙に心に残っていた。
ふと、リゼットは自分の手を見た。
このところ、その手で作ってきたものを思い出す。
温熱器。乾燥器。祭りの灯り。雪景球。
そして、ユアンの胸元にある小さな結界具。
どれも、王都で扱っていた設備とは比べものにならないほど小さく、誰か一人の暮らしのすぐそばに置くものだった。
丘を振り返って、足が止まった。
「……あの石、一つだけだったんでしょうか」
隣を歩いていたアーヴィンも止まる。
「他にもあると思うのか」
「分かりません。でも、一つの石で全部を守っていたとは限りませんよね」
アーヴィンも丘を見上げた。
「そうだな。ただ、まだあの一基しか見てない」
「はい」
リゼットは自分の手へ目を戻した。
ふと、祭りの灯りを直した日のことを思い出した。
一本の魔力線が切れただけで、半分の灯りが消えてしまった。
あのときは、三つに分けた。
一つが消えても、残りは灯り続けるように。
あれと同じ考え方を、結界にも使えないだろうか。
「私なら……一つで全部を守ろうとはしないかもしれません」
アーヴィンの目が変わった。
「小さい結界を、必要な場所にいくつも置くんです。それぞれ、別々に動くようにして」
口にしながら、少しずつ形を考える。
一つずつなら、自分の手で作り、使い方に合わせて直していける。
「一つが止まっても、他は動いていられるようにしたいです」
ぼんやりしていた形が、少し近づいた。
古代の人がどうしていたかは、まだ分からない。けれど、今の自分なら何を作りたいかは分かる。
アーヴィンが少しだけ口元を上げる。
「なら、作って確かめろ」
「簡単に言いますね」
「やりたいんだろ」
リゼットは一瞬黙ってから、頷いた。
「……やりたいです」
その言葉が、自分の口から出たことが嬉しかった。
今日の発見も、この町で作ってきたものも、あの日の自分には渡せない。
でも、今から作ることはできる。
「明日、まず小さい結界を作ってみます」
リゼットが言うと、アーヴィンが横目で見る。
「今日は?」
「……寝ます」
「よし」
「何ですか、その満足そうな顔」
◇
町へ戻る頃には、通りの店先に灯りがつき始めていた。
ユアンの店の扉を開けると、いつものベルが鳴った。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
カウンターから顔を上げたユアンが、二人を見比べる。
「どうだった?」
リゼットは道具鞄を置いた。
「あの石、結界が出ました」
ユアンの手が止まる。
「……本当に?」
「はい。小さいのが、少しだけですけど」
写しを広げ、光った刻線を指す。
「ここに青花を置いて、魔力を流したら。この辺りに、膜が浮かんだんです」
「へえ……」
ユアンが紙を覗き込む。
「じゃあ、本当に魔道具だったんだ」
「結界を作る設備なのは確かです。どう使っていたのかは、まだ分かりませんけど」
言いながら、またあの光を思い出す。
ユアンが顔を上げた。
「見たかったな」
「……また調べに行くので」
言ってから、少しだけ迷った。
「今度は、一緒に」
ユアンが笑う。
「うん。次はね」
リゼットは写しへ目を戻した。
「他にも似た石がないか、探したいんです」
「それなら、町の年寄り連中に聞いてみようか。変な石の場所とか、妙に覚えてるし」
「……確かに」
「昔の祭りのことも聞けるかもしれないね」
「じゃあ明日、マルタさんにも聞いてみます」
アーヴィンが横から言った。
「王都の記録も当たる。こっちはこっちで探す」
「お願いします」
町に残る記憶と、王都に残る記録。
両方から辿れば、もう少し何かが見えるかもしれない。
◇
閉店の時間になり、ユアンが店先の札を裏返した。
アーヴィンも帰り支度をする。
「俺は宿へ戻る」
「はい」
「明日は王都へ照会の手紙を出してから来る。昼には着く」
「分かりました」
「じゃあな」
アーヴィンは宿の方へ歩いていった。
片づけを終えて店を出ると、ユアンはいつものようにリゼットの家までついてくる。
しばらく歩いたところで、ふいにこちらを覗き込んだ。
「……何ですか」
「ちょっと目の下」
指が伸びてくる。リゼットは動けなかった。
ユアンの指先が、リゼットの目元に触れる直前で止まる。
「触っていい?」
「…………」
聞かれると、余計に意識する。
「……少しなら」
自分で答えて、自分で驚いた。
ユアンの指先が、そっと目の下へ触れる。本当に、一瞬だけ。
「やっぱ寝不足」
「触らなくても分かるでしょう」
「うん」
「じゃあ何で触ったんですか」
「触りたかったから」
「…………」
さらっと言って、ユアンは家の方を向いた。
「帰ろっか」
「……はい」
目元だけが妙に熱い。
家の前に着く。
「じゃあ、今日はちゃんと寝てね」
「分かってます」
「図面開かない」
「……はい」
ユアンが笑う。
「おやすみ、リゼット」
「おやすみなさい」
扉を開け、一歩入ったところで、また振り返った。
「ユアン」
また呼び止めてしまった。
「何?」
リゼットは少し迷った。
「……結界具」
「うん?」
「ちゃんと毎日持っててくださいね」
ユアンが胸元へ触れる。服の下には、リゼットが作ったあの小さな石板がある。
「持ってるよ」
「出かけるときも」
「うん」
「店にいるときも」
「うん」
「……ずっと」
ユアンが、少しだけ目を見開く。
「うん」
ユアンが笑う。からかうような笑い方ではなかった。
「ずっと持ってる」
それだけ。
リゼットは何も言えなくなった。
「じゃあ、おやすみ」
「……おやすみなさい」
扉を閉め、背中を預ける。
今日、六百年前の結界を見た。あの日のことも思い出した。そして、昔の自分と今の自分が、少しだけ繋がった気がした。
考えることはいくらでもある。
なのに、最後に頭へ残っているのは。
『ずっと持ってる』
その声だった。
「……本当に」
リゼットは両手で顔を覆った。
「今日はもう、考えること多すぎ……」




