第23話 聖女の石
眠れなかった。正確には、寝ようとはした。けれど目を閉じるたび、丘で見た石の刻線が浮かんだ。中央の丸い窪み。そこへ続く一本の浅い溝。何のために、わざわざ形を変えてあるのだろう。リゼットは布団の中で目を開けた。寝なければ。明日も店がある。
そう思ってもう一度目を閉じたものの、しばらくして諦めて起き上がった。机の灯りをつけ、丘で写した図を広げる。ただ眺めるだけでは分からない。けれど、確かめたいことはもうあった。
「……明日」
呟いても、眠気は戻ってこなかった。
◇
翌朝。
リゼットは店の扉を開けるなり言った。
「ユアン」
「おはよう」
「昨日の石、試したいことがあります」
「うん。まずおはよう」
「おはようございます」
ユアンはパンを並べながら、じっとリゼットを見る。
「で?」
「試したいんです」
「二回目だね」
リゼットは作業台へ一直線に向かい、持ってきた紙を広げた。
「これ見てください」
「その前に」
「はい?」
「寝た?」
手が止まる。
「……寝ました」
「何時間?」
「…………」
「リゼット」
「三時間くらいです」
ユアンが目を閉じた。
「夢中になると、他のこと全部忘れるやつ」
「忘れてません」
「朝ごはんは?」
「……あとで」
パンが目の前へ置かれた。
「今」
「これ説明してから――」
「食べながらでいいよ」
「子どもじゃないんですけど」
「毎回同じことするからね」
言い返せず、リゼットはパンを一口かじった。それを確認してから、ユアンがようやく図へ目を向ける。
「それで?」
「昨日の窪み、何かを収めるための形に見えるんです」
リゼットは図の中央を指した。
「何かって?」
「まだ決めつけられませんけど……大きさを、もう一度確かめたくて」
そこまで言ったところで、入口のベルが鳴った。
「おはよう」
アーヴィンだった。リゼットは即座に振り返る。
「ちょうどよかった!」
アーヴィンが一歩止まった。
「……怖いな」
「早く来てください」
「昨日まで帰れと言ってなかったか?」
「今日は来ていいです」
「随分勝手だな」
「いいから!」
呆れながらも作業台まで来たアーヴィンが、リゼットの手にあるパンを見る。
「……食いながら?」
「ユアンが食べろって」
アーヴィンがユアンを見る。ユアンが笑った。
「放っておくと食べないから」
「なるほど」
「何ですか、その納得した顔」
今はそれどころではない。
「これです」
図を差し出すと、アーヴィンの表情からすぐに笑いが消えた。リゼットは、窪みと浅い溝の形が気になっていることを説明した。アーヴィンは図をしばらく見てから言う。
「何を使うつもりだ」
「青花と銀葉です。材料を置く場所だったのかもしれないので」
「入るかどうかだけで、用途は決まらないぞ」
「分かってます。だから、石の方の反応も見たいんです」
昨日は見て、写すだけだった。今日は、ごく弱い魔力を流してみたい。アーヴィンは少し考えてから頷いた。
「やるなら最低出力だ」
「もちろんです」
「石そのものに無理な負荷はかけるな」
「分かってます」
「異常が出たらすぐ止めろ」
「分かってますって!」
リゼットの口から思わず漏れた。
「保護者が二人になったみたい」
アーヴィンが眉を寄せる。
「俺をこいつと一緒にするな」
ユアンは笑顔のまま答えた。
「僕も別に一緒じゃなくていいですよ」
「…………」
「…………」
妙な間が落ちた。リゼットは二人を見比べる。
「何ですか?」
「別に」
「何でもない」
声が揃った。
リゼットが道具を鞄へ詰め始めると、ユアンが言った。
「今日は僕、店にいるね。昨日、早く閉めちゃったから」
手が少し止まった。
「……そうですね」
昨日も、自分に付き合ってもらったのだ。
「すみません。私だけ抜けて」
「いいよ。修理の方、急ぎのは終わってるんでしょ?」
「はい」
「じゃあ、行っておいで」
ユアンはいつものように笑った。
◇
昼過ぎ。
リゼットとアーヴィンは再び丘へ上がった。昨日写した図を石の脇へ広げ、リゼットは石のそばに咲く青花を一輪摘んだ。鮮やかな花を中央の丸い窪みへ置くと、花の大きさが驚くほどよく収まった。
「……ぴったり」
アーヴィンも、窪みへ目を落とす。
「試すか」
「はい」
石の端へ試験用の魔力線をつなぐ。アーヴィンと目を合わせてから、ごく弱い魔力を流した。
刻線が光った。
青白い光が細い線を走り、次の瞬間、石の上に薄い膜が浮かぶ。
小さな、緩やかな半球。
リゼットが魔力を止めると、光は静かに消えた。
二人ともすぐには動かなかった。
さっきまで膜があった場所を、リゼットは見つめる。
見間違えるはずがない。
何度も作り、何度も見てきたものだった。
「……結界」
声が震えた。アーヴィンも石を見たまま答える。
「ああ」
一拍。
「今のは結界だ」
胸の奥が大きく鳴った。
リゼットは中央に置いた青花を見る。鮮やかな花びらは、何も変わらずそこにあった。そのすぐ脇に、浅い溝が伸びている。
「……こっちは?」
鞄から銀葉を一枚取り出し、溝に沿わせる。細い葉が、花へ向かって横たわった。
「同じ出力で試します」
アーヴィンが頷いた。
もう一度、魔力を送る。刻線に光が走り、小さな膜が浮かんだ。
リゼットは、その縁を見つめる。
「……見た目は変わりませんね」
「ああ」
大きさも、光り方も、目で分かるほどの違いはない。
魔力を止め、短く結果を書き留めた。銀葉はよく収まっている。けれど、収まることと、ここで使われていたことは同じではない。
リゼットは溝の端へ目をやった。
窪みとは別に、わざわざ作られた形。
何か、理由があるのだろうか。
「本来は、どのくらいの範囲を守れたんでしょうね」
消えた光の輪郭を目で辿りながら言った。
「今の出力じゃ分からないな」
「……ですよね」
動くことは分かった。けれど、どこまで魔力を流せるのかも、どれだけの間、結界を保てるのかも分からない。
この石を、どう使っていたのだろう。
誰が、ここに花を置いたのだろう。
もっと知りたい。
疑問が増えていくたびに、心が弾む。
「リゼット」
呼ばれて顔を上げる。
アーヴィンがこちらを見ていた。
「何ですか」
「いや」
「何ですか、その顔」
「楽しそうだと思って」
リゼットは、少しだけ黙った。
石へ目を戻す。丸い窪みに置いた青花が、風にかすかに揺れていた。
「……楽しいです」
口にしてから、ほんの少し驚いた。
結界を前にして、分からないことを前にして。
そう思えている。
アーヴィンは何も言わなかった。ただ、小さく頷いた。
さっきの結界は、確かにここに浮かんだ。
遠い伝承だと思っていたものが、今は手の届くところにあるように感じた。




