第21話 知らない時間
翌朝、リゼットが店へ着くと、ユアンはすでに店先の木箱を動かしていた。
「おはようございます」
「おはよう」
振り返った拍子に、シャツの襟元から細い革紐が覗いた。その先にあるものを思い出し、リゼットの視線が一瞬だけ止まる。
あの結界具。
まだ毎日つけているらしい。
気づいたユアンが笑った。
「ちゃんとあるよ」
「えっ」
「顔が聞いてた」
「そんな顔ありません」
「あるある」
笑いながら木箱を持ち上げる背中を見送り、リゼットは作業台へ向かった。昨日確かめた乾燥銀葉を小箱へ収め、測定記録をまとめる。
そういうことをしていれば、昨夜、家の前でユアンを呼び止めたことも、そのあとしばらく眠れなかったことも考えずに済む。
たぶん。
◇
昼前、入口のベルが鳴った。
「おはよう」
聞き慣れないようでいて、よく知っている声。
リゼットは顔を上げた。
「……今日も来た」
「昨日、来ると言った」
「そうでしたね」
「嫌そうだな」
「そこまでは言ってません」
「顔が言ってる」
「ユアンみたいなこと言わないでください」
カウンターの向こうでユアンが笑った。
「おはようございます、レイフォードさん」
「おはよう」
昨日より少しだけ普通に挨拶を交わしている二人が、逆に妙だった。アーヴィンは作業台まで来ると、置かれていた記録へ目を通した。
「まとめたのか」
「朝からやってたので」
自然な動作で紙をめくり、一か所を指す。
「ここ、昨日の条件も書いておけ」
「別の紙にあります」
「一緒にしておかないと、後で探すぞ」
「今やろうと思ってたんです」
「そうか」
「信じてないでしょう」
返しながら、リゼットは少しだけ笑っていた。
途中までの記録でも、アーヴィンには何をしていたのかすぐに伝わる。彼が引っかかった箇所を指せば、こちらも何を言いたいのか分かる。
二年近く離れていたはずなのに、そこだけは不思議なくらい変わらなかった。
「ユアン、それ取ってもらえます?」
棚の一番上に置いた小箱を指す。
「これ?」
「その右です」
ユアンが腕を伸ばした拍子にシャツの襟が引かれ、服の中に隠れていた小さな石板が胸元へ滑り出た。
アーヴィンの動きが止まる。
「どうしました?」
返事はない。視線はユアンの胸元に向いていた。
「それ」
「ああ、これ?」
ユアンが石板を指で持ち上げる。
「見せてもらっていいか」
声が少し変わった。
ユアンに目を向けられ、リゼットは何でもないふりをした。
「別にいいんじゃないですか?」
「じゃあ」
革紐を外して差し出すと、アーヴィンは受け取った石板へ目を落とした。薄い表面に刻まれた回路を追い、指先で縁をなぞる。
「……リゼット」
「何ですか」
「これ、お前が作ったのか」
「はい」
「いつ」
「少し前です」
返事をせず、もう一度石板を見る。
妙に真剣だった。
「何ですか」
「携帯結界だな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さく固まった。
自分で作ったものなのだから、分かっている。それでもアーヴィンの口から聞くと、急に王都の仕事場へ引き戻されたような気がした。
「……簡易です。数秒だけ、身体の前に出ます」
「避ける時間を作るためか」
「はい。耐えられない力がかかったら、無理に維持せず止まるようにしてます」
アーヴィンは回路の一端へ目を留めた。
「……相変わらずだな」
「何がですか」
「壊れたときのことまで考えるところ」
「壊れないものなんてありませんから」
考えるより先に答えていた。
アーヴィンが黙る。その顔を見た途端、リゼットの肩に力が入った。
いつからまた結界を。
どうして作った。
作れるなら、どうして戻らなかった。
そんなことを言われる気がした。
けれど、彼が口にしたのは別の言葉だった。
「……また結界を作れたんだな」
リゼットは顔を上げた。
「え?」
アーヴィンは、まだ手の中の石板を見ていた。
「王都を出たあと、もう結界には触らないのかと思ってた」
「……」
「だから」
そこでようやく、こちらを見る。
「よかった」
それだけだった。
なぜ作ったのかとも、どうして戻らなかったのかとも聞かない。ただ、よかったと。
リゼットはしばらく何も言えなかった。
「……大したものじゃありませんよ。数秒しか持ちませんし」
「時間の話はしてない」
顔を上げると、目が合った。
「作れたんだろ」
それ以上、アーヴィンは何も言わなかった。
もう一度だけ石板を見てから、ユアンへ返す。
「悪かった。大事なものを」
「別にいいですよ」
ユアンは受け取り、革紐を首へかけ直した。
服の中へ戻そうとしたところで、アーヴィンが聞く。
「それで、なんでこれを彼に?」
やっぱりそこは聞くのか。
リゼットが口を開く前に、ユアンが答えた。
「僕が心配だから」
「ちょっと」
「違う?」
「違わないですけど」
アーヴィンの視線が戻ってくる。
なぜか、ものすごく説明しにくかった。
「ユアンが隣町から帰る途中で、道が塞がって帰りが遅くなったことがあって。魔導二輪車も泥だらけだったので、また何かあったら困ると思って」
「心配してくれたんだよね」
「ユアン」
「かなり」
「余計なこと言わないでください」
ユアンは楽しそうだ。
アーヴィンは少し黙り、彼の胸元へ戻った結界具を見る。
「……それで結界を作ったのか」
「簡易です」
「そこはもう分かった」
「じゃあ何ですか」
アーヴィンは少し考えてから言った。
「今回は、性能を決めるより先に、作る理由が決まってたんだな」
「理由?」
彼の視線が、もう一度ユアンの胸元へ向く。
「先に、守りたい相手がいた」
リゼットの顔が熱くなった。
「ちが――」
違わない。
帰ってこないのが怖かった。怪我をしてほしくなかった。また何かあったら困ると思った。
だから作った。
そこだけは、否定できない。
ユアンは服の上から、結界具のある場所へそっと触れた。
「……そうだったら嬉しいけど」
静かな声だった。
無理だ。
リゼットは逃げるように作業台へ向き直った。
「作業します!」
「顔赤いよ」
「うるさいです」
ユアンが笑い、少し遅れてアーヴィンも笑った。
「アーヴィンまで笑わないでください」
「悪い」
絶対に悪いと思っていない。
◇
昼過ぎ。
リゼットは、トーマから頼まれていた乾燥器の調子を見に行くことになった。
「すぐ戻ります」
「僕行こうか?」
「店どうするんですか」
「じゃあ留守番してる」
「当たり前です」
横でアーヴィンも立ち上がりかけた。
「俺も――」
「ちょっと調子を見るだけです」
「まだ何も言ってない」
「来るつもりだったでしょう」
「まあ」
「待っててください」
「分かった」
珍しく素直だった。
◇
扉が閉まり、店に男が二人残る。
しばらくは、ユアンが帳簿を書く音だけがしていた。
アーヴィンは作業台の記録を見ていたが、やがて口を開いた。
「二年か」
ユアンの手が止まる。
「何が?」
「リゼットがここへ来てから」
「ああ。もうそれくらいだね」
「ずっとこの店に?」
「ほとんどね」
ユアンはまた帳簿へ目を落とした。
「魔道具を触るようになったのは、最近なのか」
「うん。最初は触ろうともしなかったよ。壊れたものを見ても、自分には分からないって顔してた」
「……そうか」
「まあ、本当に分からないふりだったのかは知らないけど」
少しだけ笑い、作業台を見る。
「子どもの玩具を直して、古いランプを直して、温熱器を作って。気づいたら、こんな感じ」
アーヴィンも作業台へ目を向けた。
紙と工具と、使いかけの部品。彼女が手を止めたまま置いていったものが、いくつも並んでいる。
「昔のこと、レイフォードさんは知ってるんですね」
「……ああ」
「全部?」
「全部かどうかは知らない」
「そっか」
ユアンはそれ以上聞かなかった。
アーヴィンが少し眉を寄せる。
「聞かないのか」
「何を?」
「何があったか」
「本人が話したくなったら聞くよ」
何でもないことのように言った。
「僕も、自分のこと全部話してるわけじゃないし」
アーヴィンの目がわずかに細くなる。
「……そうか」
「人には色々あるでしょ」
それきり帳簿へ目を戻したユアンが、少しして自分から口を開いた。
「一つだけ」
「何だ」
「昔のリゼットを知ってるのは、ちょっと羨ましいです」
アーヴィンの目が動いた。
「羨ましい?」
「うん。僕は知らないから。学院にいた頃とか、王都で仕事してた頃とか。魔道具を作るのが当たり前だった頃のリゼット」
ユアンは作業台へ視線を移す。
「あなたと話してるとき、僕の知らない顔するから」
アーヴィンは何も言わなかった。
昨夜、自分も同じようなことを考えたばかりだった。
「でも」
ユアンが続ける。
「あなたも知らないでしょ。ここへ来てからのリゼット」
視線が合った。
ユアンは笑っている。けれど、その言葉だけは妙にまっすぐだった。
「最初の頃、ほとんど笑わなかったことも。ごはんを用意しても、困ったように笑って食べなかったことも」
食べられなかったことは、昨日リゼットからも聞いた。
けれど、そのとき彼女がどんな顔をしていたのかは知らない。
「店に来ても何もしないで、ずっと座ってた日もあったよ」
「……」
「それから少しずつ話すようになって。最近になって、子どもの玩具を初めて自分から触って」
ユアンの視線が、作業台を辿る。
「作ったものが売れて、こっそり嬉しそうにしてた日も」
そして、胸元の結界具へ触れた。
「これ作ってくれた日も」
アーヴィンは何も言わなかった。
ユアンが少しだけ笑う。
「だから、たぶん、お互い様ですね」
「……何がだ」
「知らないリゼットがいるの」
そのとき、入口のベルが鳴った。
「ただいま」
「おかえり」
ユアンがすぐに答える。
何事もなかったように、いつもの声で続けた。
「直った?」
「はい。魔力線が一本ずれてただけでした」
「早かったね」
「すぐ戻るって言ったでしょう」
道具箱を置いたリゼットが、二人を見比べる。
「……何か話してました?」
「リゼットのこと」
「私?」
「最近、作業台がずいぶん賑やかになったなって」
リゼットは机の上を見る。
紙も工具も広げたままだった。
「……あとで片づけます」
「散らかってるって話じゃないよ」
ユアンが笑う。その向こうで、アーヴィンもわずかに口元を緩めていた。リゼットはもう一度、二人を見比べた。
「……仲良くなりました?」
「なってない」
アーヴィンが即答する。
ユアンは笑った。
「どうだろうね」
「何ですか、それ」
怪しんでみても、二人ともそれ以上教える気はないらしかった。
◇
その夜、宿へ戻ったアーヴィンは一人で窓辺に立っていた。
二年。
自分が知らなかった時間は、思っていたよりずっと長かった。
頭に残っているのは、今日見た小さな石板だった。
数秒しか持たない、たった一人を守るための結界。
『また結界を作れたんだな』
あれは本心だった。
けれど、そのあと自分で口にした言葉も、妙に残っている。
『先に、守りたい相手がいた』
アーヴィンは目を閉じた。
それが自分ではなかったことに、何も思わないわけではない。
自分の知らない二年間を、あの男が知っていることも。悔しくないと言えば、嘘になる。
けれど、誰かがそばにいたのなら。
あの頃のリゼットが、一人きりではなかったのなら。
それを嫌だとは思えなかった。
窓の外では、町の灯りがぽつぽつと夜の中に浮かんでいる。
自分が知っているリゼットも、知らないリゼットも、どちらも同じリゼットだ。
知らない時間があるなら、これから知ればいい。
今の彼女が何を作るのか。
何を面白いと思うのか。
何を選ぶのか。
それを、今度はちゃんと見ればいい。
アーヴィンは窓を閉めた。
まだ、帰るつもりはなかった。




