第20話 新たな日常
翌朝。
リゼットは店へ向かう途中で、昨日のことを何度も思い返していた。
アーヴィンが来た。
雪景球一つを手がかりに、王都から一泊二日かけて。
しかも数日はいると言った。
「……数日」
改めて口にすると、やっぱり落ち着かない。
この二年、自分の今と昔はきれいに離れていた。王都も、学院も、結界も、ずっと遠い場所に置いてきたはずだった。
そこへ突然、アーヴィンが歩いてきて、何の断りもなく今の自分の前に立っている。昔とほとんど変わらない顔で。
『お前かもしれないと思ったからな』
思い出して、リゼットは少しだけ歩調を速めた。
「……何なんですか、もう」
誰にともなく呟き、店の扉を開ける。
ベルが鳴った。
「おはようござい――」
途中で止まった。
「おはよう」
ユアンがいつものカウンターの内側から言う。
その向かいでは、アーヴィンが普通に茶を飲んでいた。
「……なんでいるんですか」
アーヴィンが眉を寄せる。
「昨日、明日も来ると言っただろう」
「朝からとは聞いてません」
「店が開いてた」
「僕が開けたからね」
ユアンが何でもないように補足する。
「入れたんですか?」
「客でしょ?」
「……客ですけど」
「じゃあ入れるでしょ」
正論だった。
リゼットは上着を脱ぎながら、二人を見比べる。
「何話してたんですか」
「特に何も」
ユアンが答え、アーヴィンも頷いた。
「茶をもらってただけだ」
本当だろうか。
昨日まで互いの名前すら知らなかった二人が、朝から向かい合って茶を飲んでいる光景が妙に落ち着かない。
「それより」
アーヴィンがカップを置いた。
「昨日の銀葉、続きやるんだろ」
「朝一番でそれですか。休暇中ですよね?」
「ああ」
「休む気あります?」
「これが休暇だ」
「そういうところ、昔から変わりませんね」
「お前に言われたくない」
ユアンが笑った。
「そこは似てると思う」
「似てません」
そう言って、リゼットは作業台へ向かった。
昨日までに、銀葉が長い経路で魔力の流れを安定させ、方向を整えることまでは確かめている。今日知りたいのは、その性質が乾燥しても残るかどうかだった。
アーヴィンが隣へ来る。
リゼットが何も言わず記録紙を差し出すと、彼も当然のように受け取った。
「乾燥葉はこれか」
「はい。条件は揃えてあります」
「ちゃんとやったな」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「俺のおかげか」
「そういう意味じゃありません」
リゼットは呆れながらも、少しだけ笑った。
二人で数値を見比べる。乾燥前と乾燥後で、大きな差はなかった。銀葉の性質は、乾燥させてもほとんど失われていないらしい。
「なら保存もできるな」
「はい。これなら必要なときに使えます」
記録を書き足していると、アーヴィンが銀葉を持ち上げた。
「ルシェラの実物は、この辺りにあるのか」
「ありますよ。町の外れに畑があります」
「俺は加工されたものしか見たことがない」
リゼットが顔を上げる。
「見に行きます?」
「いいのか」
「トーマさんのところなら、多分。あ、でも店が」
カウンターからユアンが口を挟んだ。
「行ってきたら?」
二人が振り返る。
「店は、僕がいるから大丈夫」
「……じゃあ、少しだけ」
「うん」
「昼までには戻ります」
「じゃあお昼用意しとくね」
当たり前のように言われて、リゼットも自然に頷いた。
「お願いします」
上着を取る。
当然のようにアーヴィンも立ち上がった。
二人で店を出ようとすると、背中からユアンの声が飛んできた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
答えて外へ出た。
◇
しばらく歩いてから、アーヴィンが言う。
「毎日ああなのか」
「何がですか」
「飯」
リゼットが顔を向ける。
「店で一緒に食べることは多いですよ」
「用意するのもあいつが?」
「ユアン、料理するので」
「ふうん」
「何ですか」
「別に」
「言いたいことがあるなら言ってください」
「昔のお前なら、昼飯そのものを忘れてたなと思っただけだ」
「……」
否定できない。
王都にいた頃は、作業を始めると食事も水も忘れた。あとで誰かに怒られて、ようやく気づくことも珍しくなかった。
「今は食べてます。ちゃんと」
「ああ。見れば分かる」
リゼットが眉を寄せる。
「何でですか」
アーヴィンは前を向いたまま言った。
「前より顔色がいい」
「……」
「だから、ちゃんと食ってるんだろ」
リゼットは少し黙った。
「……最初は」
「ん?」
「食べてなかったみたいです」
「みたい?」
リゼットは足元へ視線を落とす。
「私、この町に来た頃のこと、あんまり覚えてなくて」
眠って、起きて。
食べたかどうかも曖昧な日があった。
店へ来ても何もせず、ただ座って帰った日もある。
気づけば何か食べるものが置かれていた。
マルタが持ってきたものだったり。
ダリオの林檎だったり。
エダの焼き菓子だったり。
ユアンが作ったものだったり。
「でも、この町の人、勝手に食べ物くれるんですよ」
リゼットが言うと、アーヴィンがこちらを見る。
「勝手に?」
「余ったとか、傷物だとか、作りすぎただとか言って」
「それ、本当に全部そうだったのか?」
「……最近は違う気もしてます」
アーヴィンが小さく笑った。
「随分好かれてるな」
「そうですか?」
「昨日見れば分かる」
言われると、少し照れくさい。
「……もう二年いますから」
「二年、か」
「何ですか」
「長いなと思っただけだ」
リゼットも少しだけ考えた。
この町で働いて、暮らして。
いつの間にか、知っている顔の方が増えた。
二年は、確かに短くなかった。
町の外れへ着くと、トーマがちょうど荷を運んでいた。
「おう、リゼット」
「こんにちは」
「なんだ、もう葉っぱ足りなくなったか?」
「今日は違います。この人がルシェラの実物を見たことがないそうなので」
「そっちの兄ちゃんか」
「アーヴィンです」
「王都から来たんだって?」
リゼットが振り返った。
「なんで知ってるんですか」
トーマは何を今さらという顔をする。
「昨日のうちにマルタが知ってたぞ」
「早すぎません?」
「この町だぞ?」
それで説明がついてしまう。
横でアーヴィンが笑った。
畑の脇には、収穫を終えたルシェラがまだ少しだけ残っていた。
青い花。細い銀の葉。
アーヴィンが足を止める。
「これがルシェラか」
トーマが茎ごと一本切って渡してくれる。
アーヴィンはしばらく、青い花とそこから伸びる細い銀葉を眺めていた。その隣で、リゼットの目は自然と銀葉へ向く。
「綺麗ですね」
アーヴィンが聞いた。
「葉が?」
「はい」
「花じゃなく?」
「花も綺麗ですけど。こっちも」
アーヴィンが少し黙る。
「……何ですか」
「昔から変わってないと思っただけだ」
「またですか」
「人があまり見ないところばっかり見る」
「悪いですか」
「悪いとは言ってない」
アーヴィンは少し笑った。
「お前らしい」
「…………」
リゼットは銀葉へ目を戻した。
なぜか、胸の奥が少しだけざわつく。
アーヴィンの言葉は、忘れていた昔の自分を勝手に連れてくる。
それが少し怖くて。
少しだけ、嬉しかった。
◇
店へ戻ったのは昼を少し過ぎた頃だった。
ベルを鳴らして入る。
「ただいま」
「おかえり」
ユアンが顔を上げる。
カウンターには皿が並んでいた。
三人分。
「……三つ?」
「一人だけ食べさせないのも変でしょ」
ユアンがアーヴィンを見る。
「食べます?」
「いいのか」
「もちろん」
「ありがとう」
あまりにも普通に話が進み、リゼットだけが妙に落ち着かない。
三人で昼食。
昨日までは想像もしなかった光景だった。
「リゼット」
ユアンが言う。
「何ですか」
「パン取って」
渡すと、ユアンの視線がそのままリゼットの皿へ落ちた。
「それだけ?」
「十分です」
「少ない」
「朝食べました」
「もう一個」
当然のようにパンを追加される。
「食べるでしょ」
「……食べますけど」
「じゃあどうぞ」
仕方なく受け取ると、向かい側が妙に静かだった。
顔を上げると、アーヴィンがこちらを見ていた。
「何ですか」
「いや……本当に食わせてもらってるんだなと思って」
「言い方!」
ユアンが笑った。
「放っておくと減らすから」
「減らしてません」
「昨日の昼も半分残した」
「作業してたからです!」
「ほら」
「ほらじゃないです」
アーヴィンが俯いた。
肩が少し揺れている。
「笑ってます?」
「笑ってない」
「絶対笑ってるでしょう」
顔を上げたアーヴィンの口元は、どう見ても笑っていた。
最悪だ。
けれど、リゼットも少しだけ笑った。
◇
午後になると店が混み始めた。
リゼットは客に呼ばれれば作業台を離れ、ユアンはいつも通り店を回す。アーヴィンは記録を整理しながら、ときどき二人のやり取りを眺めていた。
妙な光景だった。
昔と今が、同じ店の中に並んでいる。
それでも、時間は不思議なくらい普通に流れていった。
◇
夕方にはマルタまでやって来た。
「あら」
店内のアーヴィンを見つけた途端、目を輝かせる。
「あなたが王都から来たっていう人?」
「……マルタさんが町に広めてたんですよね?」
「人聞き悪いわね。聞かれたから答えただけよ」
リゼットが額を押さえた。
「アーヴィン・レイフォードです」
「まあ、ご丁寧に。マルタよ」
二人が挨拶を交わす間に、マルタの視線がアーヴィン、リゼット、ユアンの順番に動く。嫌な予感しかしない。
「なるほどねえ」
「何がですか」
「リゼットの昔のお友達?」
「友達というか、学院の同期です」
「そのあとも同じところで働いてました」
「アーヴィン、余計な情報を足さないでください」
「事実だろ」
「そうだけど」
マルタが楽しそうに笑った。
「昔もこんな感じだったの?」
「だいたい」
「アーヴィン!」
「よかったわねえ、リゼット」
「何がですか」
「なんでも」
買い物をすませ、機嫌よく帰っていくマルタを見送り、リゼットは小さく息を吐いた。
◇
閉店後。
リゼットが上着を取ると、アーヴィンも立ち上がった。
「俺は宿へ戻る」
「あ、はい」
「明日も来る」
昨日と同じことを言う。
「宣言しなくてもいいです」
「嫌なら来ないが」
「……」
言葉に詰まった。
嫌かと聞かれれば、そうではない。
その沈黙だけで十分だったらしい。
アーヴィンが少し笑う。
「じゃあ明日」
「……はい」
扉へ向かう途中で、ユアンが声をかけた。
「レイフォードさん」
アーヴィンが振り返る。
「宿、中央広場のところ?」
「ああ」
「なら途中まで一緒だね」
「?」
ユアンは自分の上着を取った。
「リゼット送るから」
一瞬、静かになった。
リゼットが先に反応する。
「送らなくていいって毎日言ってるんですけど」
「毎日送ってるけどね」
「それは言わなくていいです」
アーヴィンがリゼットを見る。
「毎日?」
「うん」
答えたのはユアンだった。
「家、遠いのか」
「徒歩五分くらい」
「近いな」
「でも送る」
ユアンが、ごく普通に言う。
アーヴィンが一度だけ彼を見る。
「そうか」
それだけだった。
けれど、リゼットにはなぜか妙に落ち着かない一言だった。
「ほら、行きますよ」
先に扉を開ける。
夜道を三人で歩く。
最初は真ん中にいたリゼットだったが、道が少し広くなると、自然にユアンが片側、アーヴィンが反対側へ並んだ。
何だ、この状況。
考えると余計に意識してしまうので、考えないことにした。
やがて、広場へ続く角へ着く。
アーヴィンの宿は右。
リゼットの家はまっすぐ。
「じゃあ、また明日」
アーヴィンが足を止める。
「はい」
「リゼット」
呼ばれて顔を上げる。
アーヴィンは何か言いかけて、一瞬だけ黙った。
「……いや」
「何ですか」
「明日でいい」
「またそれですか」
「おやすみ、リゼット」
「……おやすみなさい」
アーヴィンは広場の方へ歩いていった。
二人になる。
さっきまで騒がしかったのに、急に静かになった。
ユアンは何も言わず、いつもの歩幅で隣を歩いている。
なんとなく、リゼットは隣を見られなかった。
「……何ですか」
「何も言ってないよ」
「言いそうだったので」
「僕、そんなに分かりやすい?」
「最近ちょっと」
「そっか」
少し笑う声を聞くと、なぜかほっとした。
家の前へ着く。
「じゃあ、おやすみ」
リゼットが扉へ向かおうとすると、ユアンに呼び止められた。
「リゼット」
「はい?」
振り返る。
ユアンはいつもの笑顔ではなく、穏やかで少しだけ真面目な顔をしていた。
「昔のリゼットって、どんなだった?」
思っていなかった質問だった。
「どんなって……そんなに変わりませんよ」
「そう?」
「たぶん」
仕事ばかりで。
魔道具ばかりで。
今よりずっと、自分の腕を信じていた。
何でも作れると思っていたし。
守れるとも思っていた。
「今日見てたら」
ユアンが少し笑う。
「僕の知らないリゼットが、いっぱい出てきたから」
胸の奥が、小さく揺れる。
「……そんなに違いませんよ」
「違うっていうより」
ユアンは少し考えた。
「楽しそうだった」
リゼットが顔を上げる。
「レイフォードさんと魔道具の話してるとき」
「……」
胸がざわつく。
「昔から、あんな感じだったんでしょ?」
「まあ……そうですね」
「そっか」
ユアンは笑った。
穏やかに。
「よかった」
「何がですか」
「昔の話してるリゼットが、そんなに嫌そうじゃなかったから」
言葉が出なかった。
ユアンは何も知らない。
何があったのかも。
どうして王都を出たのかも。
それなのに、聞いてほしくないところには踏み込まず、こういうところだけ妙に察する。
「じゃあ、おやすみ」
「……はい」
ユアンが数歩離れる。
その背中を見て。
「ユアン」
気づけば呼んでいた。
ユアンが振り返る。
「何?」
何を言いたかったのか、自分でも分からない。
ただ、もう少しだけここにいてほしいと、一瞬思った。
「……」
言葉が出てこない。
ユアンは急かさず、そこに立っている。
「……何でもないです」
「そっか」
ユアンが、ふっと笑った。
「じゃあ、おやすみ。リゼット」
「……おやすみなさい」
リゼットは、ユアンが角を曲がるまで、その背中を見ていた。
◇
少し離れた角で、アーヴィンは足を止めた。
店へ忘れ物をしたことに気づき、戻ろうとしただけだった。
声までは聞こえない。
けれど、家の前でリゼットがユアンを呼び止めるのが見えた。
ユアンが振り返る。
何かを話して、リゼットが少しだけ笑う。
アーヴィンはしばらくその光景を見ていた。
やがて踵を返す。
忘れ物は、明日でいい。
「……二年は、長いな」
小さく呟いて、宿へ向かった。




