第19話 学院時代
「久しぶりだな、リゼット」
約二年ぶりに、アーヴィンは彼女の前に立っていた。
リゼットは、すぐには何も言えなかった。
学院の頃から何度も見た、深い藍色の髪。少し冷たく見える目元も、人の図面を見るとすぐに眉を寄せる癖も、ほとんど変わっていない。
ただ、そこにいることだけが現実味を欠いていた。
「……なんで」
ようやく出た声に、アーヴィンが片眉を上げる。
「第一声がそれか?」
「だって、なんでここにいるの」
「来たから」
「見れば分かります」
反射的に返すと、アーヴィンの目がわずかに細くなった。
「変わってないな」
「…………」
少し腹が立つ。
約二年ぶりだというのに、なぜこの男は驚くほど平然としているのか。
自分だけが声も出なくなったみたいで、なんとなく悔しい。
「そっちこそ、相変わらずですね」
「何が」
「そういうところです」
「分からん」
「分からなくていいです」
そこで、ふと店内が静かなことに気づいた。
リゼットはゆっくり横を見る。
作業台の向こうで、ユアンがこちらを見ていた。
目が合う。
ユアンがにこりと笑った。
「仲いいね」
「よくありません」
リゼットが即答する。
すると、隣でアーヴィンがわずかに眉を上げた。
「学院からの付き合いだろ」
「付き合いが長いことと、仲がいいことは別です」
「俺はそこまで悪くなかったと思ってるが」
「…………」
リゼットが言葉に詰まる。
ユアンの笑みが少し深くなった。
「へえ」
「何ですか」
「いや。仲いいんだなと思って」
「だから違います!」
ユアンが楽しそうに笑う。
「とりあえず、入口で話すなら扉閉めようか。寒いし」
「あ」
そういえば開けっぱなしだった。
リゼットは慌てて入口へ向かい、扉を閉める。ちりん、とベルが鳴り、その音でようやく少しだけ現実へ戻った。
本当に、アーヴィンがここにいる。
振り返ると、彼は店内を見回していた。
日用品が並ぶ棚。壁に掛けられた鍋や道具。店の奥の作業台と、その脇に置かれた三段の棚。魔力線や起動石、小さな部品。
そして、そこに立っているリゼット。
「……本当にここで働いてるんだな」
胸の奥が、ほんの少しだけ強張った。
「悪いですか」
「悪いとは言ってない」
アーヴィンはもう一度店を見回し、それからリゼットへ視線を戻した。
「……悪くないと思っただけだ」
「何がですか」
少し間があった。
「ここにいるお前が」
思っていなかった答えに、リゼットは一瞬言葉を失った。
アーヴィンは、やはり平然としている。
それがまた少し腹立たしくて、リゼットは腕を組んだ。
「それで。どうしてここが分かったんですか」
「お前が作った雪景球を見た」
「……え?」
「王都で」
頭に浮かんだのは、数日前に雪景球を買っていった母娘だった。
『王都へ戻っても、大切にしますね』
「……なんで」
「同僚の娘のものだった」
「そんな偶然あります?」
「俺もそう思った」
アーヴィンの口元がわずかに動く。
「最初はただの雪景球だと思った」
「ただの雪景球ですけど」
「玩具に三系統入れる人間が何人いる」
「……」
「流れと光と封じを分けて、しかも雪まで降らせてる」
アーヴィンはリゼットを見た。
「見覚えがありすぎた」
昔の記憶が、一瞬で蘇った。
学院の机と、その上に置いた小さな密閉容器。
『玩具一つに三重結界?』
呆れた声まで、妙にはっきり覚えていた。
「……覚えてたんですか」
思わず聞くと、アーヴィンの眉が寄る。
「忘れると思うか?」
「昔の課題でしょう」
「七日保てばいい課題を、勝手に八日目以降まで考えて、必要もない雪まで降らせたやつだぞ」
「必要でした」
「課題には書いてなかった」
「でも綺麗だったでしょう」
口にしてから、二人とも止まった。
ほんの一瞬だけ。
学院の机を挟んで話していた頃へ戻ったような気がした。
アーヴィンが、ふっと笑う。
「……それも変わってないな」
その顔を見たら、なぜか今度は腹が立たなかった。
むしろ、少しだけ懐かしい。
けれど。
それでも一つ、まだ分からない。
「……それで」
「何だ」
「雪景球一つで、わざわざ王都からここまで来たんですか」
「ああ」
あまりにも普通に返された。
「それだけで?」
アーヴィンは、何を当たり前のことを聞くのかという顔をした。
「お前かもしれないと思ったからな」
「……それで来たんですか」
「ああ」
「二日もかけて?」
「ああ」
「……変なの」
「そうか」
「そうです」
アーヴィンは何でもないように頷いた。
「俺は行くけどな」
胸の奥が、変な鳴り方をした。
リゼットは少しだけ視線を逸らした。
「……なるほど」
ユアンの声で、我に返る。
ずっといた。
当たり前なのに、忘れていた。
ユアンは作業台にもたれながら、アーヴィンを見ている。口元はいつもの笑みなのに、目だけが少し違う気がした。
「昔の知り合いなんだ?」
「学院の同期です」
リゼットが答える。
「その後も仕事で一緒だった」
アーヴィンが付け足した。
「そこまで言わなくても」
「事実だろ」
「そうですけど」
ユアンが小さく頷く。
「へえ」
それだけなのに、なんとなく落ち着かない。
今度はアーヴィンがユアンを見る。
「そちらは?」
リゼットが口を開くより早く、ユアンが笑った。
「ユアンです。この店の店主」
「アーヴィン・レイフォード」
「知ってます。さっきリゼットが呼んでたから」
ユアンが差し出した手を、アーヴィンが握る。
「リゼットがお世話になってます」
「ちょっと待ってください」
すぐに割って入った。
「なんでユアンがそれ言うんですか」
「店主だから?」
「絶対違うでしょう」
「じゃあ何ならいい?」
「何も言わなくていいです」
アーヴィンの視線が、二人の間を静かに行き来した。
「……随分、馴染んでるな」
その一言に、なぜか少しだけ身構える。
「もう二年近いですから」
アーヴィンが黙った。
自分がここで過ごした時間を、彼は知らない。
当然だ。
「そうか」
彼は、それ以上何も言わなかった。
ユアンが奥から椅子を一つ出してくる。
「まあ、立ち話もなんだし。座ります?」
「いいのか」
「客だからね」
「客扱いするんですか」
リゼットが言うと、ユアンが首を傾げた。
「違うの?」
「……客ですけど」
「じゃあいいじゃん」
アーヴィンは椅子へ腰掛けると、すぐに作業台へ目を向けた。
「で」
嫌な予感がした。
「今は何を試してる」
「……何でもいいでしょう」
「銀の葉?」
「見れば分かるでしょう」
「何に使う」
「それを調べてるところです」
「性質は?」
「昨日、だいたい分かりました」
アーヴィンの視線が銀葉へ落ちる。
「ルシェラの葉だな?花は魔道具や術式の効果を強める性質があるが……」
「そうです。これ、ルシェラの銀葉は、長い経路で魔力の流れを安定させるみたいです。それと、方向を整える」
アーヴィンの目が変わる。
技術の話になったときだけする、よく知っている顔だった。
「再現は?」
「今朝しました。条件を変えても同じです」
「短い経路は?」
「ほとんど差が出ませんでした」
「なるほど」
アーヴィンは銀葉を見る。
「乾燥させたものは?」
「まだです」
「なら次はそこだな」
「……今やろうと思ってました」
「そうか」
たったそれだけのやり取りなのに、昔の仕事場で隣の机に座っていた頃の感覚が、あまりにも自然に戻ってくる。
それが少し怖くて。
同時に、少しだけ嬉しかった。
なぜだか頬が緩みそうになって、慌てて眉をひそめる。
それからしばらく、アーヴィンは店にいた。
客が来れば店の隅へ下がり、リゼットが対応している間は、何も言わずその様子を眺めている。
子どもが壊れた玩具を持ってくれば、「また落としたでしょう」と言いながら直す。エダが温熱器のお礼を言いに来れば、「もう何も持ってこなくていいですから」と念を押し、ダリオが顔を出せば、林檎を腐らせていないかと確認される。
そんな町の人たちとのやり取りを、アーヴィンはずっと見ていた。その視線が気にはなった。
何を考えているのか、昔から分かりにくい男だ。
けれど、不思議と責められているようには感じなかった。
やがて客足が途切れた頃だった。
「リゼット」
「何ですか」
「少し、外で話せるか」
胸の奥が強張る。
来た。
今までは、昔の知り合いがふらりと店へ来ただけのように話していた。けれど、本当に聞きたいのは、別のことだ。
「……はい」
上着を取る。
そのとき、ユアンが言った。
「暗くなる前に戻ってきてね」
リゼットが振り返る。
「子どもじゃないんですけど」
「知ってる」
「じゃあ」
「一緒に帰るでしょ?」
あまりにも自然な口調だった。
最近は毎晩そうしている。
だから、いつもなら何もおかしくないのに、今この場で言われると妙に意味があるように聞こえた。
「……はい」
ユアンが笑う。
「うん。待ってる」
その言葉を聞くと、不思議と少しだけ肩の力が抜けた。
◇
店を出ると、外はもう薄暗かった。祭りの飾りはほとんど片づけられているが、ところどころ軒先にまだ青い花が残っている。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
昔なら、沈黙なんて気にならなかった。会えば仕事の話をして、図面を広げて、違うと思えばその場で言い合って、それで終わりだった。今は、何を話せばいいのか少しだけ分からない。
風が吹き、髪が一筋頬へかかる。
リゼットが手を上げるより先に、視界の端でアーヴィンの手が動いた。
こちらへ伸びかけて。
止まる。
「……?」
リゼットが見ると、アーヴィンはその手を下ろした。
「髪」
「髪?」
「顔にかかってる」
リゼットは自分で髪を耳へかける。
アーヴィンは一度だけリゼットを見た。
「今のお前との距離が、まだ分からない」
思いがけない言葉だった。
リゼットは何も言えなくなる。
アーヴィンは、もうこちらを見ていなかった。
「……元気そうだな」
少し前を向いたまま言う。
「……元気ですよ」
「そうか」
短い返事のあと、わずかに間が空いた。
「よかった」
胸の奥が、また妙な鳴り方をした。
さっきから何なのだろう。
二年ぶりに現れて。
平然としているくせに。
たまに、こういうことだけ言う。
けれど、さっきまでよりはずっと静かな気持ちで、リゼットは隣を歩いた。
しばらくしてから、口を開く。
「あの」
「何だ」
「王都に戻れとか、言いに来たんじゃないんですか」
「違う」
即答だった。
リゼットが瞬く。
「……違うんですか」
「なんで俺がお前の住む場所を決める」
「でも」
「仕事へ戻れとも言わない」
思わず足が止まりかけた。
アーヴィンも数歩先で立ち止まり、振り返る。
「じゃあ、何を聞きたかったんですか」
彼は少しだけ黙った。
それから。
「今、楽しいか」
「……え?」
「ここで」
まったく想像していなかった。
リゼットは思わず店の方を振り返る。
窓から灯りが漏れている。
その向こうにはユアンがいて、自分の作業台があって、三段目まで少しずつ物が増えてきた棚がある。
温熱器を作った。
雪を降らせた。
銀葉を調べている。
町の人たちは壊れたものを持ってきて、時々まだ存在しないものまで欲しがる。
楽しい。
そう口にするのは、まだほんの少しだけ怖い。
それでも。
「……たぶん」
リゼットは答えた。
「楽しいです」
アーヴィンは黙って聞いていた。
そして、少しだけ笑った。
「そうか」
その顔を見て、リゼットはふと思う。
昔、この人はこんな顔をしていただろうか。
分からない。
もしかすると、自分が見ていなかっただけなのかもしれない。
「今日はそれでいい」
「今日は?」
「宿を取った」
リゼットは瞬いた。
「明日も来るんですか?」
「休暇は取ってある。数日はこっちにいる。嫌か?」
「そういう聞き方、ずるいです」
「……」
「銀葉の続きが気になる」
「結局それですか」
アーヴィンは少しだけ笑った。
「それもある」
「……それも?」
「戻るか」
「ちょっと」
アーヴィンはそれ以上答えず、店の方へ歩き出した。
◇
二人で店へ戻り、リゼットが扉を開ける。
ちりん、とベルが鳴る。
「ただいま」
何の意識もなく口から出た言葉に驚き、リゼットは止まった。
カウンターの奥で、ユアンが顔を上げる。
「おかえり」
いつもの声で笑う。
それを聞いた瞬間、張っていたものがふっとほどける。
ユアンの視線が、リゼットの後ろにいるアーヴィンへ一瞬移る。
「お話、終わった?」
「はい」
「そっか」
それから再びリゼットを見る。
「帰ろっか」
いつもと同じ。
それだけだった。
「……はい」
リゼットも、いつものように答えた。
◇
そのやり取りを、アーヴィンは黙って見ていた。
店へ戻った瞬間、リゼットの肩から力が抜けたのが分かった。
二年前には、知らなかった顔だ。
ここで過ごした時間を、自分は知らない。
本当は、もっとまともなことを言うつもりだった。
元気だったか。
どうしてここにいる。
魔道具を、また作っているのか。
王都から一泊二日の馬車の中で、聞きたいことはいくつも考えていた。
それなのに、店へ入ってリゼットの姿を見つけた瞬間。
考えていたことは、全部飛んだ。
声をかけて、顔を上げた彼女を見たら。
ちゃんと生きていた。
目の前にいた。
それだけで、一瞬何も考えられなくなった。
だから、ようやく口から出てきたのが、
『客の顔くらい見て挨拶しろ』
だった。
我ながら、もう少し何かなかったのかとは思う。
「何ですか」
不意に、リゼットがこちらを振り返った。
「何が」
「こっち見てたでしょう」
「見てたな」
リゼットが少しだけ眉を寄せる。
その顔は、よく知っている。何に腹を立てるかも、どんな設計を嫌うかも、作業に夢中になると食事を忘れることも。けれど、その向こうには、まだ知らない二年がある。
アーヴィンはわずかに目を細めた。
変わっていないところは、たくさんある。
変わったところは、まだ、何も知らない。




