第2話 冷却箱
——翌朝。
「リゼット、それ置いといて」
「持てますけど」
「いいの」
リゼットが持ち上げようとした木箱を、ユアンが横からひょいと取った。中には瓶詰めの蜂蜜がぎっしり詰まっている。
「僕の方が力あるから」
「二つ下のくせに」
「年齢と腕力は関係ないでしょう?」
笑いながら木箱を店の奥へ運んでいくユアンを見送り、リゼットは空いた棚に値札を並べた。
昨日の青い鳥のことを、ユアンはそれ以上何も聞いてこなかった。それはありがたかった。
ありがたかった、のだが。
ぶうん。
店の隅から、低い作動音が響く。リゼットは、気づかないふりをして、値札に数字を書き込んでいた。
ぶうん。ぶうん。……がた。
ペン先が止まる。
ぶうん。……がた。
リゼットは眉間を押さえた。
気にしない。
あれは店の冷却箱だ。肉や乳製品を保存するために、ユアンが王都から取り寄せたもの。この町では、壊れた魔道具は王都へ送る。それが普通だ。
ぶうん。……がた。
「ユアン」
「んー?」
店の奥から返事がある。
「冷却箱、いつからあの音してます?」
少し間があった。
「三日くらい?」
リゼットは振り返った。
「三日?」
ユアンは、木箱を床へ置いた。
「最初はもうちょっと小さかったけど」
「どうしてそのまま使ってるんですか」
「まだ冷えるから」
「そういう問題じゃ――」
そこまで言って、リゼットは口を閉じた。
ユアンがこちらを見ていた。
「何ですか」
「いや?」
「その顔やめてください」
「普通の顔だけど」
リゼットは冷却箱から目を逸らした。
「修理屋を呼んだらどうですか」
「もう頼んでるよ」
「……え?」
「十日後に来る」
思わず瞬きをした。
「ちゃんと頼んでたんですね」
「僕の信用、低くない?」
「普段の行いです」
「傷つくなあ」
まったく傷ついていない顔で、ユアンは帳簿を開いた。
十日。
十日待てばいいだけだ。
リゼットには関係ない。
ぶうん。……がた。
値札を書く。
ぶうん。……がた。
「…………」
気にしない。
そう思っていたのに、ふと手元を見ると、同じ場所へペン先を押しつけ続けていたらしく、値札に小さな穴が開いていた。
リゼットは無言で丸めて捨てる。
ユアンがちらりとこちらを見た。
「何ですか」
「何も」
笑っている。
リゼットは眉間に皺を寄せた。
——昼過ぎ、近所のパン屋の女主人が牛乳を買いに来た。
「ユアン、三本ちょうだい」
「はいよ」
ユアンが冷却箱を開ける。
ぶうん。……がた。
女主人の眉が上がった。
「これ、前より音ひどくなってない?」
「そう?」
「そうよ。大丈夫なの?」
「十日後に修理の人が来るから」
「十日?」
女主人は冷却箱と、その中の牛乳を交互に見た。
「それまで持つの?」
「たぶん」
リゼットは思わず顔を上げた。
「たぶんで食料を保管しないでください」
二人がこちらを見る。
しまった。
「リゼットちゃんまで心配してるじゃない」
「してません」
「してるねえ」
ユアンまで乗ってくる。
「してません」
「二回言った」
パン屋の女主人は楽しそうに笑い、牛乳を抱えて帰っていった。入口のベルが軽く鳴り、また低い作動音だけが耳に残る。
ぶうん。……がた。
リゼットは大きく息を吐いた。
「……工具」
ユアンが帳簿から顔を上げた。
「ん?」
「昨日の工具箱、貸してください」
青い目が、ほんの少しだけ丸くなった。
「見るだけです」
「何も言ってないよ」
「その顔が言ってます」
「じゃあ、見るだけね」
妙に素直に差し出された工具箱を受け取り、リゼットは冷却箱の前へしゃがんだ。
起動を止めて裏側の蓋を外すと、昨日の青い鳥よりずっと大きな回路が現れる。魔石から冷却部、循環路へと視線を走らせていくうちに、原因はすぐ見つかった。
「……ここか」
循環部を留める固定具が緩み、振動でずれた部品が外装へ当たっている。
「壊れてはいません」
「よかった」
「まだ、です。このまま使ってたら、いずれ別のところにも負荷がかかります」
「なるほど」
リゼットは固定具を締め直し、ずれていた位置をわずかに調整してから起動する。
ぶうん。
低い作動音だけが、一定に続いた。
「静かになった」
ユアンが感心したように言う。
「応急処置です」
「十分じゃない?」
「十分じゃありません。修理屋には予定通り見てもらってください」
「分かった」
やけに素直だ。
リゼットは工具を片づけた。
「それに、私は――」
言葉が止まる。
私は、何だろう。
「……何でもありません」
「そっか」
ユアンは先を促さず、それだけ言って帳簿へ戻っていった。
リゼットも工具箱の蓋を閉じる。
胸の奥には、昨日と同じような落ち着かなさが残っていた。
——その日の夕方、店じまいを始めようとしたころ、入口のベルが勢いよく鳴った。
「ユアン、まだいい?」
「マルタさん。どうしたの」
入ってきたのは、近所で仕立て屋を営むマルタだった。
腕には、古びた室内灯を抱えている。
五十を少し過ぎた、いつも明るく声の大きな人だ。リゼットもよく知っている人だった。
この町へ来たばかりで、ユアンの店と借りた部屋を往復するだけだったリゼットに、『あんた、ちゃんと食べてる?』と最初に声をかけてきた一人だ。
一度熱を出して店を休んだときには、頼んでもいないのに鍋いっぱいのスープを持ってきた。『若い子が一人で寝込んでるなんて、心配でねえ。』とそれだけ。どこから来たのかも、どうしてこの町へ来たのかも聞かなかった。
「これね、急に点かなくなっちゃったの」
マルタが室内灯をカウンターへ置く。
「王都に送ろうと思ってたんだけど、さっきミナのお母さんに会ってね。ここで玩具を直してもらったって聞いたものだから」
リゼットの頬がわずかに引きつった。
もう話が回っている。この町は、こういうことだけ妙に早い。
ユアンが室内灯を持ち上げる。
「ずいぶん古いね」
「二十年くらいかしら。母が使ってたものなのよ」
マルタは少し照れたように笑った。
「新しいのを買えばいいんだけどね。でも、なんだか捨てられなくて」
リゼットは黙って室内灯を見る。
乳白色の覆いは少しくすみ、縁の塗装もところどころ剥げている。高価なものではなく、王都へ送って修理するくらいなら、新しいものを買った方がおそらく安い。
「まあ、無理ならいいのよ」
マルタはあっさり言って、室内灯を抱え直した。
「しばらくは蝋燭で過ごすわ。昔はみんなそうしてたんだもの」
その手を見た瞬間、リゼットの頭に湯気の立つスープが浮かんだ。熱を出して寝込んでいた自分に差し出されたもの。
『味は保証しないよ』そう言いながら置いていったくせに、翌日、『美味しかったです』と返したら、『でしょう? 保証しないって言っただけで、不味いとは言ってないよ』と笑っていた。
あのときは、その距離の近さに少し戸惑って。
でも、それ以上にありがたかった。
「……置いていってください」
マルタが瞬きをした。
「いいの?」
「見るだけです。直せるとは言ってません」
「それで十分よ」
ぱっと笑った顔を見て、リゼットは少しだけ視線を逸らした。
「期待しないでくださいね」
「はいはい。ありがとう、リゼット」
マルタはそれ以上何も言わず、軽い足取りで店を出ていった。見送るように、入口のベルがちりんと鳴る。
作業台の上には、古びた室内灯が残された。
ユアンは入り口の札を《閉店》に返し、窓の外を見た。
「もうこんな時間か」
リゼットもつられて外を見る。
いつの間にか、通りには夕暮れの色が落ちていた。
「今日は遅くなっちゃったし、夕食食べてかない?」
「え?」
「肉が安く入ったんだ。煮込みにしようと思って」
リゼットは少しだけ迷ってから、頷いた。
「じゃあ……お言葉に甘えます」
「うん。そうして」
ユアンは嬉しそうに笑って、店の奥へ消えていった。
リゼットは一人、作業台に残された室内灯を見る。
昨日は、泣いている子どもがいたから。
今日は、店の冷却箱がうるさかったから。
そして今度は、マルタの大切なもの。
理由は、毎回ちゃんとある。
だから別に、魔道具をまた始めたいわけではない。
ただ、見るだけだ。
リゼットは、古びた室内灯へ手を伸ばしかけ――そこで、店の奥から漂ってきた香りに顔を上げた。
「リゼットー。味見して」
「今行きます」
結局、室内灯には触れないまま夕食になった。
店を出る頃にはすっかり暗くなっていて、リゼットが自分の家へ向かおうとすると、当然のようにユアンも隣へ並んだ。
「一人で帰れますよ」
「知ってる」
「家まで五分ですよ」
「それでも、送りたいの」
いつものように言われて、リゼットは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……好きにしてください」
「うん。そうする」
静かな通りを、二人で歩く。
いつからだったか、店を閉めたあとユアンが家まで送るのが当たり前になった。たった五分の道を、彼は雨の日も寒い日も、リゼットと一緒に歩いた。
家の前へ着くと、ユアンはいつものように足を止めた。
「おやすみ、リゼット」
「おやすみなさい」
扉を開ける前、リゼットはふと店の方角を振り返った。
作業台には、マルタの室内灯が置かれている。
明日になったら。
少しだけ、中を見てみよう。
直すかどうかは、それから決めればいい。




