第1話 青い鳥
「リゼットー。石鹸、棚にあと六個出しといて」
店の奥から、のんびりした声が飛んできた。
「はいはい」
「返事が雑」
「店主への敬意なら三か月前に使い切りました」
「早いなあ。補充できない?」
「入荷予定はありません」
リゼットは、木箱から薄い紙に包まれた石鹸を六つ取り出し、順に棚へ並べていく。身を屈めた拍子に、深い赤のリボンでまとめた栗色の髪が肩へ滑ってくる。
「右から二番目、ちょっと曲がってる」
「自分で直してください」
「店員が冷たい」
「店主が細かいんです」
背後から、くすくすと笑う声がした。
振り返らなくても分かる。
柔らかな金髪に、人懐っこい笑顔。黙っていれば妙に育ちがよさそうに見える、この町の雑貨店主。リゼットより二つ年下のユアンだ。
「これでいいですか」
石鹸をきっちり揃えて一歩下がると、ユアンは満足そうに頷いた。
「うん、完璧!細かいところまでちゃんとやってくれるから、つい頼りたくなるんだよね」
「うまい言い方ですね」
「褒めたのに」
ユアンの店には、食料品から布地、石鹸、食器、農具まで、町で必要になりそうなものなら大抵置いてある。本人曰く、「何でもある店って便利でしょ?」とのことだった。
棚の一角には王都から仕入れた生活魔道具もいくつか並んでいる。火を使わずに湯を温める器や、暗くなると淡く光る室内灯、夏になるとよく売れる小型の冷却箱など、どれも起動石に触れるだけで使える簡単なものばかりだった。
リゼットがこの町へ来て、もう二年近くになる。
最初は、ほんの少し滞在するだけのつもりだった。けれど、たまたま通りかかったこの店で《店員募集》の札を見つけたとき、なぜか足が止まった。
『字は読める?』
『読めます』
『計算は?』
『できます』
『接客は?』
『……たぶん』
ユアンは少し考えてから、
『じゃあ、まあいいか』
と言った。
気づけば、市場を歩けば顔見知りに声をかけられ、近所のパン屋では好みまで覚えられている。いつの間にか、この町での暮らしにも馴染んでいた。
そのとき、入口のベルが鳴った。
「こんにちは」
若い母親が、小さな女の子の手を引いて入ってくる。
女の子は泣いていた。
胸には、掌ほどの青い鳥の玩具を大事そうに抱えている。
「ユアンさん、これ……直せますか?」
母親から差し出された鳥を、ユアンが受け取る。
青い硝子と薄い金属で作られた、小さな魔法玩具だった。本来なら背中の起動石に触れると翼を広げ、持ち主の周りをくるくると飛ぶはずなのに、今は翼を閉じたまま、ぴくりとも動かない。
「これ、王都の店で売ってるやつだよね」
「ええ。去年、夫が買ってきてくれて」
女の子がしゃくり上げた。
「とりさん、とばないの……」
「困ったなあ」
ユアンは鳥を裏返してしばらく眺めたあと、申し訳なさそうに首を振った。
「僕じゃ直せないね。王都に送るしかないかな」
この町には、魔道具を専門に扱う店も、複雑な修理ができる職人もいない。壊れれば王都へ送り、欲しいものがなければ取り寄せる。時間はかかるが、この町ではそれが普通だった。
「どのくらいかかります?」
「今だと一か月……混んでたら二か月くらい」
「にかげつ……?」
女の子の顔がくしゃりと歪んだ。
「やだぁ……!」
リゼットは黙って棚の商品を整えた。
石鹸の包み紙を揃える。
一つ、二つ。
「ほら、ミナ。ちゃんと直してもらえば、また遊べるから」
母親が宥めるが、ミナは青い鳥を抱きしめたまま首を振った。
「きょうがいい……」
「今日?」
ユアンが首を傾げると、母親が困ったように笑った。
「今日、この子の誕生日なんです。朝からずっと、これで遊ぶのを楽しみにしていて」
「なるほど。それはついてなかったなあ」
「同じものを買い直した方が早いでしょうか」
「この辺じゃ売ってないんだよね。取り寄せても結局――」
「とりさん……」
小さな声に、リゼットの手が止まった。
見なければいい。
自分には関係ない。
そう思ったのに、気づけば女の子を見ていた。
涙の溜まった目が、動かない青い鳥をじっと見つめている。
「……見せてもらってもいい?」
女の子がぱっと顔を上げた。
「なおせる?」
「分からないわ。見るだけ」
「リゼット、こういうの分かるの?」
ユアンが聞く。
「分かりません。だから見るだけです」
そう答えて青い鳥を受け取ると、掌にごく微かな振動が伝わった。その瞬間、指先がほんの少し強張る。
リゼットは何でもないふりをして、鳥を作業台へ置いた。
「小さい工具、あります?」
「右の一番下」
ユアンが答える。
引き出しを開けると、小さな工具箱が入っていた。蓋を上げれば、細いドライバーに、魔力線をつまむための鉗子、簡易測定針が整然と収まっている。
どれも、見慣れた形だった。
ほんの一瞬だけ、手が止まる。
「リゼット?」
「……なんでもないです」
鳥を裏返し、腹部の留め具を外す。
小さな魔力回路が姿を見せた途端、考えるより先に視線がその上を走った。起動石から伸びる線、翼へ繋がる回路、細かな接続部を追っていくと、一本の魔力線がわずかに浮いている。
「これかな」
鉗子で魔力線をつまんで元の位置へ戻し、ずれていた小さな部品も整える。手は迷わなかった。
「……直りそう?」
横からユアンが聞く。
「……たぶん。無責任なことは言えません」
数分後、リゼットは腹部の蓋を閉じて、青い鳥をミナへ返した。
「背中の石に触ってみて」
ミナが恐る恐る、小さな白い起動石へ指を乗せる。
淡い光が走り、閉じていた翼がゆっくりと開いた。
一度、二度と羽ばたいて、小さな青い鳥がふわりと浮かび上がる。
「わあ……!」
鳥はミナの頭の周りをくるりと一周し、差し出した両手の上へ戻ってきた。
女の子の顔がぱっと明るくなる。
「お母さん、見て! とんだ!」
「本当。よかったねえ」
「ありがとう、お姉ちゃん!」
その笑顔につられて、リゼットも少しだけ笑った。
「……どういたしまして」
ミナは大事そうに青い鳥を胸へ抱き、母親は修理代を払おうと財布を取り出した。
「本当に、いくらお支払いすれば?」
「いりません。すぐ直ったので」
「でも――」
「誕生日なんでしょう?」
そう言うと、母親は少し迷ったあと、深く頭を下げた。ミナも真似をして、ぺこりと小さな頭を下げる。
「ありがとうございます」
「ありがとう!」
二人が店を出ていき、扉のベルが鳴る。
店内が静かになると、リゼットは使った工具を一つずつ元の場所へ戻した。その向こうで、ユアンがこちらを見ている。
「何ですか」
「いや。ずいぶん手慣れてるなと思って」
リゼットは工具箱の蓋を閉じた。
「昔、ちょっとだけ」
「ちょっとだけ、ねえ?」
「何ですか」
「ううん。別に」
ユアンは笑っただけで、それ以上は聞かなかった。
こういうときだけは、妙に察しがいい。気づいているくせに、リゼットが話そうとしないことには踏み込んでこない。それがありがたいと、口にしたことはないけれど。
リゼットは棚へ戻り、石鹸を一つ手に取ると、ほんの少しずれていた向きを直した。
それから、ふと自分の指先を見る。小さな工具を握った感触。細い魔力線の張り。接続がぴたりとはまった瞬間の、わずかな手応え。
ずいぶん久しぶりだった。
もう、忘れたと思っていたのに、嫌ではなかった。
そのことが、なぜか少しだけ怖かった。
リゼットは指を握り込み、また棚へ向き直る。
ほんの少し、直しただけだ。
子どもが泣いていたから。
それだけ。
――そのはずだった。




