第17話 アーヴィン
——翌朝。
アーヴィンは、さっきから同じ書類を三度読み直していた。
内容が難しいわけではない。文字を追っているはずなのに、気づけば視線が机の端へ戻ってしまう。
そこには、昨日から借りたままの雪景球が置かれていた。
青白い光は消え、透明な球体の底に白い粒が静かに積もっている。
「レイフォード卿」
呼ばれて顔を上げると、昨日それを持ってきた男が、呆れたようにこちらを見ていた。
「それ、今日こそ返してくださいよ。娘に朝から念を押されましたから」
「ああ」
「……まだ見てたんですか?」
「少しな」
「昨日も随分見てましたよね」
「確認していただけだ」
「何をです?」
アーヴィンは答えなかった。
男は肩をすくめ、自分の席へ戻りかける。
「待て」
「はい?」
「作った人間について、奥方は何か聞いていないのか」
男が振り返った。
「まだ気になるんですか?」
「確認したいだけだ」
「何を?」
「……それが分からないから確認する」
自分でも妙な答えだと思った。
男も同じだったらしく、少し首を傾げる。
「昨夜、妻には聞いてみましたよ」
アーヴィンの視線が上がった。
「何て?」
「町の雑貨屋で作ってもらったそうです。娘が、同じものを持っていた地元の子から教えてもらったとか」
「雑貨屋?」
「ええ。でも、店の商品じゃないみたいですね。そこで働いてる女性が作ったそうで」
アーヴィンの指先が止まった。
「……女性?」
「ええ。名前も聞いたような気がするって妻が言ってましたけど……何だったかな」
男が眉間に皺を寄せる。
アーヴィンは黙って待った。
ほんの数秒のはずなのに、妙に長い。
「リ……」
男が宙を見る。
「リゼット、とか」
その瞬間、周囲の音が遠くなった気がした。
「…………」
「レイフォード卿?」
「もう一度」
「え?」
「名前」
「リゼット、だったと思いますけど」
間違いない。
雪景球だけなら、まだ偶然だと言えた。
三つに分かれた流れも。
必要以上と思えるほど丁寧な作りも。
学院時代に一度だけ見た雪も。
似た考え方をする技師がいるのだと、そう言い張ることはできたかもしれない。
けれど。
リゼット。
名前まで重なった。
アーヴィンは椅子の背へ身体を預けた。
ルシェラ。
数日前に聞いた、北部の小さな町。
王都から乗合馬車で一泊二日。
遠い。だが、行こうと思えば行ける。
彼女が王都を離れてから、二年もの時間が経っていた。
学院を出たあとも、リゼットとは仕事で何度も顔を合わせた。
同じ会議室で資料を広げた。
同じ設計机を挟んだ。
同じ現場で、何度も言い合った。
効率が悪い。
安全率が高すぎる。
書類が雑。
理屈ばかり。
そんなことを言い合うのが、いつの間にか当たり前になっていた。
それが変わったのは、三年前の魔力嵐だった。
リゼットはあの日のあと、被害報告をまとめ、外縁部への供給を止めた判断経緯を書いた。復旧した設備を確認し、損傷箇所を調べ、その後の検証にも関わった。
会議にも出た。
聞き取りにも応じた。
同じことを何度問われても、同じように答えた。
あの状況では、外縁部への供給を続ければ、王都全体へ影響が広がる危険があったこと。限られた魔力を、避難路と治療所、人口の多い区域へ回したこと。判断を遅らせれば、もっと多くを失う可能性があったこと。
記録の上では、合理的な判断だった。
避難路と治療所を優先したことで、死者は出なかった。
何人もの人間がそう評価した。
アーヴィンも、そう思っていた。
そんな中、被害確認のため、外縁部へ出た日のこと。
崩れた家々の近くに設けられた臨時の治療所で、リゼットが記録を取っていたとき、小さな少女がこちらを見上げた。
『どうして私たちは守ってもらえなかったの?』
責めるような声ではなかった。泣き疲れた子どもが、ただ分からないことを尋ねるような声だった。
あのときのリゼットの顔を、アーヴィンは今でも覚えている。
何も言わなかった。
ただ、立っていた。
リゼットは、次の日も仕事に来た。
その次の日も。
最初のうちは、設計について意見を求めれば、いつものように言い返してきた。やがて返事が短くなった。
図面を開いたまま、長い時間手を止めていることが増えた。
それでも、アーヴィンはどこかで思っていたのだ。
いつか戻る。以前のようにまた腹の立つことを言い、こちらの図面へ勝手に赤を入れてくる。
そんな日が来るのだと。
けれど、あの日から、一年近くが過ぎた頃。
ある朝、リゼットの机は片づけられていた。
私物も。
使いかけの筆記具も。
机の端にいつも積まれていた資料もない。
辞職したのだと聞いた。
アーヴィンに、別れの挨拶はなかった。
行き先も知らなかった。
調べようと思えば、できた。
レイフォードの名を使えば、もっと早く見つけられたかもしれない。
それでも、しなかった。去ることを選んだ人間を、こちらの都合で追いかけるべきではないと思ったからだ。
自分に何も告げずに去ったのなら。
追わない方がいいのだろう、と。
探さないと決めたからといって、気にならなくなったわけではない。
ただ、
少なくとも、あのときは。
それが正しいと思っていた。
「……随分、怖い顔してますけど」
男の声に、アーヴィンは現実へ戻った。
「知り合いなんですか、その人」
少しだけ間が空く。
「昔の同僚だ」
嘘ではない。
男が目を丸くする。
「へえ。なんでまたルシェラに?」
「俺が聞きたい」
アーヴィンは雪景球へ視線を落とした。
彼女が作った。
二年間、何をしているのかも知らなかったが。
地方の小さな雑貨屋で、子どものために雪を降らせていた。
「……」
少しだけ。
口元が緩みそうになった。
「これ、返しておいてくれ」
雪景球を差し出す。
男が受け取りながら言った。
「会いに行くんですか?」
「まだ何も言っていない」
「顔に書いてありますよ」
「お前は仕事をしろ」
「はいはい」
男は笑いながら離れていった。
アーヴィンは机の書類へ戻る。
一枚目。
二枚目。
今日中に片づけるものを終わらせる。
引き継ぎの必要な書類には担当者の名を書き添えた。
返答の必要なものも先に処理する。
気づけば昼を過ぎていた。
それでも手は止めなかった。
——夕方。
最後の書類を閉じてから、アーヴィンは一枚の用紙を取り出した。上司の机へ置く。
「休暇?」
「はい」
上司が眼鏡越しに顔を上げる。
「珍しいな」
「そうですか」
「お前が自分から取るのはな」
書類へ視線を戻し、日付を確認する。
「長いな」
「はい」
「急じゃないか」
「今日の分は終わっています。残りの引き継ぎも置いてきました」
「そういうところだけは抜け目がないな」
上司はもう一度書類を見る。
「どこへ行く」
ほんの少しだけ間を置いて。
アーヴィンは答えた。
「ルシェラです」
「……何があるんだ、そんなところに」
頭に浮かんだのは。
青白い光。
静かに降る雪。
何年経っても変わらない、呆れるほど細かな作り。
そして。
それを作った女の名前だった。
「確認したいことがあります」
「仕事か?」
「私用です」
上司の眉が上がった。
「ますます珍しいな」
それ以上は聞かれなかった。
許可印が落ちる。
アーヴィンは申請書を受け取り、折って上着の内ポケットへ入れた。
二年間、探さなかった。
探さない方がいいと思っていた。
だから今回も。
行かないという選択はできた。
できたはずだった。
だが、雪景球を見てしまった。
彼女がまた何かを作っていると知ってしまった。
それを何もなかったことには、もうできない。
明日の朝、王都を出る。
乗合馬車で一泊二日。
その先に、リゼットがいる。
「……待ってろとは言わないけどな」
小さく呟く。
あいつが待っているはずもない。
むしろ、会った瞬間、嫌な顔をされる可能性の方が高い。
『何しに来たんですか』
そのくらいは言いそうだった。
想像すると、少しだけ笑えた。
それでも行く。
見つけてしまったのだから。




