第13話 携帯結界具
——翌朝。
リゼットは、いつもより少しだけ寝不足だった。
原因は分かっている。
青い灯り。
繋いだ手。
『離したくなかった』
「…………」
思い出すのはやめよう。
昨日の祭りは終わった。
今日は普通の日だ。
いつも通り店へ行って、いつも通り働く。
それだけ。そう決めて店の扉を開ける。
「おはようございます」
「おはよう」
カウンターの向こうから、いつも通りユアンが顔を上げた。
いつも通りのシャツ。
いつも通りの金色の髪。
いつも通りの笑顔。
それなのに、リゼットの視線は一瞬だけ、ユアンの手へ落ちた。
昨日、ずっと繋いでいた手。
「……」
慌てて目を逸らす。
「どうしたの?」
「何も」
「そう?」
ユアンが笑う。
本当に、いつも通りだ。
自分だけが変なのが腹立たしい。
「そうだ」
ユアンが店の奥を指さした。
「この前の仕入れ、まだちゃんと見てなかったでしょ」
「あ」
事故騒ぎで、それどころではなかった。
作業台の横には、隣町から持ち帰った小箱がいくつか積まれている。
「開けていいんですか?」
言いながら、リゼットはもう箱の前へ座っていた。
ユアンがそれを見て笑う。
「嬉しそう」
「確認する必要があるだけです」
「はいはい」
一つ目の箱には、太さの違う魔力線。
二つ目には小型の起動石。
三つ目には留め具や接続部品が細かく分けられている。
「……これ」
一本の魔力線を取る。
いつも使っているものより細い。
「こういうの欲しかったんです」
「やっぱり?」
「小さい魔道具だと、今あるのは少し太いので」
その隣には、いつもより薄い石板もあった。
手のひらに収まる程度で、魔力を通すための溝を刻める厚みはあるが、持ち歩いても邪魔にはならなそうだ。
リゼットは早速一枚手に取る。
「これは?」
「使えそうかなと思って。リゼット、薄いやつ探してたでしょ」
手が止まった。
「……見てたんですか」
「見てた」
即答だった。
「結構前ですよ、それ」
「そうだっけ」
そう言いながら、ユアンは何でもない顔で次の箱を開けている。
リゼットは薄い石板を手の中で裏返した。
まただ。
自分が何を使って、何が足りなくて、何を探していたか。
自分よりユアンの方が覚えている気がする。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
少しだけ顔が熱くなって、リゼットは石板を箱へ戻した。
——昼前。
店の裏へ荷物を運びに行ったリゼットは、壁際に置かれた二輪車を見て足を止めた。
泥はもう大半落としてあるが、車輪の隙間にはまだ乾いた土が残っている。側面には枝に擦った跡もあった。
「……」
しゃがみ込んで見る。
古い。
店の配達用なのだから当然だが、改めて見るとそれなりに年季が入っている。
「何してるの?」
後ろから声がした。
「……これ」
「二輪車?」
「また乗るんですか」
ユアンがきょとんとする。
「乗るけど」
「この前あんなことがあったのに?」
「事故ったの、僕じゃないよ?」
「そうですけど」
「壊れてもないし」
ユアンは二輪車の側面を軽く叩いた。
「まだ使えるよ」
「そういう問題じゃなくて」
リゼットは眉を寄せる。
二輪車そのものに故障はない。
でも、
もしあの日、横転した荷車がユアンのすぐそばだったら。
もし避けきれなかったら。
もし転んでいたら。
「……」
また嫌な想像をしてしまう。
「リゼット」
「何ですか」
「心配?」
リゼットは一度だけ二輪車を見て、それからユアンを見た。
「はい」
素直に答えた。
ユアンが瞬く。
「……そっか」
「あんなことがあったんだから、当たり前でしょう」
「うん」
なぜか嬉しそうだ。
「何で笑うんですか」
「笑ってないよ」
「笑ってます」
「うん」
「……もういいです」
リゼットは立ち上がり、店内へ戻った。
——午後。
客が途切れ、リゼットは作業台へ座る。
三段目から紙を一枚取り、線を引く。
止まる。
朝見た、薄い石板。
小型の起動石。
細い魔力線。
頭の中では、もう形ができ始めている。
「……」
二輪車を直す必要はない。
故障していないのだから。
なら、乗っている人を守ればいい。
リゼットは新しい線を引いた。
起動石。
細い魔力線。
薄い石板。
その中に組み込む、小さな防護回路。
「……結界」
小さく呟く。
手が止まった。
結界。
ほんの少し前まで、その言葉を口にすることさえ避けていた。
けれど、今作ろうとしているのは、町を守るような大きなものではない。手のひらに収まる、小さな結界具。
起動すれば、数秒だけ身体の前に薄い結界を張る。
危険から離れるための、ほんの一瞬。
一人を守るためだけのもの。
リゼットはもう一度線を引いた。
広げすぎない。
長く保たせない。
少ない魔力で、必要な数秒だけ。
何度か描き直すうちに、紙の上に形ができていく。
「……これなら」
できる。たぶん。
「リゼット」
「っ!」
顔を上げる。
ユアンがカウンターの向こうからこちらを見ている。
「何ですか」
「呼んでも返事しないから」
「呼びました?」
「三回」
「……すみません」
「また夢中になってたね」
ユアンが作業台へ近づいてくる。
リゼットは反射的に紙を伏せた。
「見ないでください」
「何で?」
「まだです」
「何が?」
「まだなんです」
「?」
ユアンが首を傾げる。
「まあいいけど」
珍しく素直に引いた。
「お茶置いとくね」
「ありがとうございます」
ユアンが離れていく。
リゼットは伏せた紙を、もう一度表へ返した。
なぜ隠したのだろう。
別に秘密にする必要はない。
ただ、完成してから渡したかった。
——閉店後。
リゼットはまだ作業台に残っていた。
「先に休んでください」
「送るけど」
「まだ終わらないので」
「待つよ」
「いつ終わるか分かりません」
「じゃあ手伝う?」
「ユアンにできることはありません」
「ひどいなあ」
結局、ユアンは奥で帳簿を整理し始めた。
リゼットも、もう何も言わなかった。
薄い石板へ溝を刻み、魔力線と起動石を組み込む。
一度、起動する。淡い青白い膜が広がったが、手のひら二枚分ほどで消えた。
「……小さい」
少しだけ調整して、もう一度。
今度は、人の上半身を覆える程度まで広がった。
数秒保って、消える。
リゼットは作業台にあった小さな木片を手に取り、もう一度結界を起動した。少し離れたところから投げる。薄い膜がわずかに揺れ、木片を弾いた。
「……よし」
リゼットは小さく息を吐いた。
こんなふうに、自分の手で結界の回路を最後まで組んだのは久しぶりだった。
胸の奥に、ほんの少し重いものは残っている。
でも、嫌ではなかった。
「できた?」
いつの間にか、ユアンがすぐそばにいた。
「……はい」
「何作ってたの?」
リゼットは少し迷ってから、小さな装置を差し出した。
細長い石板を革紐で吊るしただけの、簡素なものだ。
「これ」
「僕に?」
「はい」
ユアンが受け取る。
「携帯用の簡易結界具です」
一瞬、ユアンの指が止まった。
「……結界?」
「はい」
けれど、リゼットはそのわずかな間に気づかなかった。
「起動石に触ると、数秒だけ前に結界が出ます」
ユアンは手の中の装置を見る。
「この前みたいに、道で何かあったときに使ってください。荷物が落ちてきたり、枝や石が飛んできたりしても、大きな衝撃は無理ですけど、避ける時間くらいは作れると思います」
「…………」
「ただ、試作品なので。使ったあとは一応私に――」
「リゼット」
「何ですか」
「これ、僕のために作ったの?」
「……この前のことがあったので」
「うん」
「また何かあったら困るし」
「うん」
「店主が怪我すると困るので」
ユアンが少し笑う。
「店が?」
「……」
リゼットは黙った。
「……店も」
小さく答えた。
ユアンの笑みが止まった。
ほんの一瞬だけ。
それから、柔らかく笑う。
「そっか」
「何ですか」
「嬉しい」
あまりにもまっすぐ言われて、今度はリゼットの方が困った。
「……ただの試作品です」
「でも僕のために作ったんでしょ?」
「そうですけど」
「じゃあ嬉しいよ」
ユアンは革紐を持ち上げた。
「これ、首から下げるの?」
「そのつもりです。服の上でも起動石に触れやすいので」
「じゃあ、つけて」
「自分でできますよね?」
「できるけど」
「じゃあ自分でしてください」
「作った人につけてもらった方が効きそう」
「そんな機能ありません」
「お守りってそういうものでしょ」
「魔道具です」
「僕にはお守り」
「…………」
本当に。
こういうことばかり言う。
ユアンは革紐を差し出した。
「つけてくれるんでしょ?」
「もう……」
断っても面倒そうだ。
リゼットは革紐を受け取った。
「少し屈んでください」
「はい」
ユアンが素直に頭を下げる。
金色の髪が近づく。
リゼットはできるだけ意識しないように、革紐をユアンの首へ回した。指が髪に触れる。
「……」
近い。
首筋まで見える。
なんでこんな形にしたんだろう。
腰に下げる形でもよかったのでは。
今さら気づく。
「リゼット?」
「動かないでください」
「動いてないよ」
「喋らないでください」
「それ関係ある?」
「あります」
「そっか」
笑っている気配がする。
紐を留める。
「はい」
すぐ離れようとした。
その前に、ユアンが顔を上げる。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
ユアンは胸元の小さな結界具を指でつまんだ。
「毎日つけるね」
「そこまでしなくていいです」
「なんで?」
「二輪車に乗るときだけで十分です」
「でも、せっかくリゼットが作ってくれたし」
「壊しますよ」
「壊れたら直してくれる?」
「……まあ」
「じゃあ大丈夫」
「そういう問題じゃ――」
「それに」
ユアンが少し笑う。
「ちゃんと帰ってきてって言われたから。これ、持ってた方がいいでしょ」
「…………」
リゼットの手から、危うく工具が落ちそうになった。
「それは……そういう意味で言ったんじゃありません!」
「違うの?」
「……違わないですけど」
言ってから、しまったと思った。
ユアンの笑みが深くなる。
「じゃあ持っとく」
「もう……」
また遊ばれている。
けれど、胸元に結界具を下げたユアンを見ると、不思議と少しだけ安心した。
——その夜。
リゼットを家まで送り、店へ戻ったユアンは、一人で戸締まりを済ませた。最後の灯りを落とす前に、胸元の結界具を持ち上げる。
「……携帯結界、ねえ」
起動石へ触れた。
淡い青白い膜が、一瞬で目の前に広がる。
数秒。それだけで消える。
ユアンはもう一度、手の中の小さな装置を見た。
さっきまでの笑顔はなかった。
結界そのものは珍しくない。
王都にも、大きな施設にも使われている。
けれど、こんな小さな道具から、一瞬で結界が広がるのをユアンは見たことがなかった。
少なくとも、これまで店で扱ってきた生活魔道具とはまるで違う。
「…………」
青い鳥を直したときから、腕がいいとは思っていた。
室内灯も、温熱器も、乾燥器も。
けれど。
「……まさか、結界まで作るとはね」
リゼットは何者なのか。
どこで、この技術を身につけたのか。
なぜ、それを捨てるようにしてこの町へ来たのか。
聞こうと思えば、聞ける。
でも、聞かない。
彼女自身が話したくなるまでは。
ユアンは結界具を胸元へ戻した。
それから、もう一度指先で触れる。
自分が無事に帰るために、リゼットが作ったもの。
それだけで、十分だった。
自分のために作られた、小さなお守り。
口元が、少しだけ緩む。
「何者だったとしても…今さら手放せるわけないだろ」
誰もいない店で呟いて、ユアンは最後の灯りを消した。




