第11話 隣町へ
ユアンが隣町へ仕入れに行く朝は、いつもより少し早かった。
リゼットが店へ着くと、店先に見慣れた二輪車が出されていた。
普段は店の裏に置かれている、配達用の魔導二輪車だ。町の中ではほとんど使わないが、隣町への仕入れや大きな荷物を運ぶときには時々出番がある。後ろの荷台には、空の木箱が二つ括りつけられていた。
「おはようございます」
「おはよう」
ユアンは荷紐を締めながら振り返った。
「早いね」
「いつもと同じ時間です」
「僕が早いのか」
「そうです」
リゼットは二輪車へ目を向けた。今日出掛けることは分かっていた。それでも、こうして荷造りを終えたユアンを見ると、本当に行くのか、と妙な気持ちになった。
「じゃあ、店お願いね」
「はい」
「夕方には戻るから」
「この前聞きましたよ」
ユアンが笑う。
「覚えてたんだ」
「店主の予定くらい覚えてます」
「そっか」
妙に嬉しそうにしながら、ユアンは二輪車へ跨がった。低い駆動音が、朝の通りに響く。
「行ってきます」
「……いってらっしゃい」
ユアンが片手を上げる。二輪車はゆっくり通りを進み、やがて角を曲がって見えなくなった。
リゼットはしばらくその方向を見ていた。
「……」
はっとして、店へ戻る。
ただの仕入れだ。
夕方には帰ってくる。
そう思いながら、いつもより少し強く扉を閉めた。
一人で店番をすること自体は珍しくない。ユアンが配達へ出ることもあれば、町の工房へ顔を出しに行くこともある。
だから、何も変わらない。
……はずだった。
「リゼット、小麦粉一袋」
「はい」
「あと石鹸も」
「はい」
客の品物を包み、代金を受け取り、空いた棚を補充する。
いつも通りだ。
なのに、入口のベルが鳴るたびに顔を上げてしまう。
客が途切れると、壁の魔導時計へ目が向く。
また、入り口のベルが鳴る。
「こんにちは」
入ってきたのはエダだった。
「……こんにちは」
「あら。誰か待ってたの?」
「いえ」
答えが少し早かった。
エダは気にした様子もなく、いつものように品物を選び始める。
「今日はユアンいないの?」
「隣町へ仕入れです」
「まあ、そう」
「夕方には戻るそうです」
言ってから、そこまで付け加える必要はなかったと気づく。
エダは小麦粉を抱えたまま、ちらりとこちらを見た。
「じゃあ今日は静かねえ」
「普段もそんなにうるさくないですよ」
「そう?」
「……多少はうるさいですけど」
「あらあら」
「何ですか」
「何でもないよ」
会計を終え、エダを見送る。
店内がまた静かになった。
リゼットはカウンターの向こうへ目を向けた。
いつもなら、そこにユアンがいる。帳簿を書いていたり、商品を並べていたり、ときどきどうでもいいことを話しかけてきたりする。なのに、今日は誰もいない。
同じ店なのに、妙に広く見えた。
魔導時計を見る。まだ昼過ぎだ。
「……待ってるわけじゃないし」
誰に言うでもなく呟いた。
——午後。
リゼットは作業台へ座った。
横に増えた三段棚には、少しずつ自分のものが増えている。三段目にも、最初に置いた魔力線だけではなく、使いかけの金具や図面が何枚か収まっていた。
『だって、この店はリゼットの場所でもあるでしょ』
ふと、ユアンの声を思い出した。
確かに、ここは自分の場所だと思う。
それなのに今日は、なぜか少し居心地が悪かった。
自分の道具に囲まれているのに、手を伸ばす先が定まらない。作業台に座っているのに、帰る場所を間違えたような気がする。
「……変なの」
リゼットは温熱器改良案用の図面を一枚取り出した。
もう少し部品を減らせないかと線を一本引く。消す。もう一度引く。
ふと時計を見る。
——三時。
しばらく考えて、もう一度見る。
——三時十三分。
「……十三分しか経ってない」
自分で呆れて、図面へ視線を戻した。けれど、線はさっきから一つも増えていなかった。紙の上に置いた鉛筆の先が、同じ場所で止まっている。
——四時。
——五時。
店の外が、少しずつ夕方の色に変わっていく。
青花祭を目前にした通りでは、軒先にルシェラを飾る人や、青い灯りを試す人の姿が増えていた。青い光が、店の窓に淡く映っている。
——五時半。
まだ帰ってこない。
通りを二輪車が走るたび、リゼットの身体が反応した。低い駆動音が聞こえるたび、椅子から立ち上がりかける。
けれど、どの二輪車も店の前を通り過ぎていった。
違う。また違う。
そのたびに、胸の奥で何かが小さく沈んだ。
リゼットは作業台の上の図面を片づけようとした。けれど、紙の端が揃わない。三段目の棚から金具を取ろうとして、別の部品を落とす。拾い上げたはずなのに、どこへ戻すつもりだったのか分からなくなる。
店の中にあるものは、全部いつも通りだった。なのに、どれも自分の手から少しずつ離れていくように感じた。
——六時。
リゼットは入口を見る。
誰も来ない。
夕方には戻る。
そう言った。
もちろん、予定がずれることはある。仕入れ先で時間がかかることも、道が混むこともあるだろう。
別に、おかしくない。
そう思おうとするたび、胸の奥に小さな棘が刺さった。
——その時、入口のベルが鳴った。
リゼットは勢いよく顔を上げる。
「ユ――」
入ってきたのはダリオだった。
慌てて口を閉じる。
「……いらっしゃいませ」
ダリオが眉を上げた。
「ユアン、まだ戻ってねえのか」
「……まだですけど」
ダリオは持っていた野菜籠をカウンターへ置いた。
「東の道で荷車がひっくり返ったらしいぞ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……どこですか」
「隣町から戻ってくる途中の坂だ」
「誰の荷車ですか」
「そこまでは知らん」
「怪我人は?」
「分からん。通ってきた奴から聞いただけだ」
手にしていた鉛筆が落ちた。
からん、と床を転がる音が、やけに大きく響いた。
「何時ごろですか」
「夕方前だと」
夕方前。
ユアンが帰ってくると言っていた時間だ。
「……見に行きます」
「おい」
リゼットはすでに上着を取っていた。
「店、閉めます」
「待て。事故ったのがユアンだと決まったわけじゃ――」
「分かってます」
「分かってる顔じゃねえぞ」
「分かってます!」
思った以上に強い声が出た。
ダリオが黙る。
リゼット自身も驚いた。
「……すみません」
鍵を取ろうとして、一度落とす。
金属音がして、鍵が床を滑った。拾おうと屈んだが、指先が震えてうまく掴めない。
ダリオが眉間に皺を寄せた。
「俺がベルン呼んでくる。お前一人で先まで行くな」
「でも」
「暗くなる。いいから待て」
「……はい」
返事はした。
したけれど。
ダリオが店を出たあと、じっと待っていることなんてできなかった。
リゼットは店を閉め、携帯灯を掴んだ。
外へ出る。
祭りの青い灯りは、町の端で途切れていた。
その先には、夜の道が伸びている。
隣町へ向かう道が、薄暗がりの中へ沈んでいた。
「……ユアン」
声に出してみる。
返事はない。
少し先へ進む。
待てと言われた。
分かっている。
でも、足が止まらない。
荷車が横転した。頭の中に、見てもいない光景が次々浮かぶ。
「違う」
事故に遭ったのがユアンだと決まったわけじゃない。
分かっている。
分かっているのに、想像は止まらなかった。
もし、帰ってこなかったら。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥を強く掴まれたようになった。
店のカウンターに、誰もいなくなる。
入口のベルが鳴っても、あの声は聞こえない。
作業台の向こうから、どうでもいい話を投げてくる人もいない。
そんな光景を想像しただけで、身体の内側が冷え切っていく。
「違う……」
声が震えた。
リゼットは携帯灯を握り直した。
手のひらに爪が食い込む。
「ユアン!」
今度は大きな声で呼んだ。
喉が痛くなるほど叫ぶ。
返事はない。
もう一度呼ぼうと息を吸った、そのときだった。
道の向こうに、小さな光が見えた。
人影が一つ。
その隣に、二輪車らしき影。
乗っているのではない。
押して歩いている。
リゼットは携帯灯を高く掲げ、目を凝らした。
暗がりの中で、影が少しずつ近づいてくる。
光を受けて、髪が金色に輝く。
息が止まる。
「ユアン!」
叫んでいた。
人影が顔を上げる。
「リゼット?」
その声を聞いた瞬間、リゼットは走った。
「え、ちょっと――」
近づく。
泥だらけの二輪車。ユアンの靴にも、裾にも泥が跳ねている。
でも、立っている。ちゃんと、自分の目の前にいる。
その事実を理解した途端、張りつめていたものが一気に崩れそうになった。
「どうしたの、その顔」
「どうしたのじゃないです!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
ユアンが目を丸くする。
「荷車が事故に遭ったって聞いて、帰ってこないし……!」
「ああ」
「夕方には戻るって言ったのに!」
「ごめん。坂のところで荷車が横転して道を塞いでてさ、迂回したら道がぬかるんでて、これじゃ乗れなくなって」
二輪車を軽く叩く。
「だから押して帰ってきた」
「怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
「うん」
リゼットはユアンの腕を掴んだ。
右。左。
袖に泥はついている。
けれど血はない。破れてもいない。
「リゼット?」
「……ほんとに、どこも?」
「どこも」
「頭は?」
「打ってないよ」
「転んでない?」
「転んでないって」
ようやく息ができた。身体から一気に力が抜けそうになる。膝が震え、立っていられなくなりそうで、掴んだ腕に無意識に力がこもった。
「ごめん、心配させたね」
その言葉に、不安だった気持ちが言葉になって一気に口から溢れてくる。
「帰ってこないし、事故だって聞くし、怪我人がいるかも分からないって言われるし……何も分からないし」
声が少し震えた。
「本当に、心配したんだから」
ユアンが黙った。
リゼットはまだ、彼の袖を掴んでいる。
離そうと思ったのに、指が動かなかった。
『だって、この店はリゼットの場所でもあるでしょ』
ユアンの言葉が蘇る。
この町へ来たばかりの自分には、何一つなかったのに、いつの間にか、名前を呼んでくれる人が増えた。毎朝向かう場所ができた。帰り道も見慣れたものになった。
そして、そのどれを思い返しても、始まりにはいつもユアンがいた。
「……あの店」
ユアンが首を傾げる。
「店?」
「私の場所でもあるって、言ったじゃないですか」
ユアンが瞬いた。
それから、静かに頷く。
「言ったね」
「だったら……」
リゼットは一度息を吸った。
「ちゃんと帰ってきてください」
ユアンの目が、少しだけ見開かれた。
「ユアンがいないと、あそこ……なんか違うんです」
「違う?」
「いつもの店じゃないみたいで。落ち着かないし、時計ばっかり見ちゃうし……」
そこまで言って、急に恥ずかしくなった。
「とにかく」
リゼットは俯いた。
「だから、帰ってきてください」
しばらく返事がなかった。
恐る恐る顔を上げると、ユアンはいつもの笑顔とは少し違う顔でこちらを見ていた。嬉しそうで。けれど、それをあまり表に出さないようにしているような。
「うん。ちゃんと帰るよ。」
静かな声だった。
「……」
「僕も、早く帰りたかったし」
「え?」
一拍置いて、ユアンが続ける。
「リゼットがいるから」
「…………」
今度は、リゼットの方が黙る番だった。
そのとき、後ろから二つの灯りが近づいてきた。
「リゼット!」
ダリオとベルンだった。
「いたか!」
ダリオはリゼットの隣にいるユアンを見て、大きく息を吐いた。
「すみません」
ユアンが頭を下げた。
「事故はお前じゃねえのか」
「違います。荷車が道を塞いでたので、迂回してました」
「それで遅れたのか」
「はい」
ベルンは二輪車を見る。
「動くのか」
「たぶん。でも、迂回路が泥だらけで、乗るのは諦めました」
ベルンが短く頷く。ダリオはユアンを上から下まで見て、怪我がないのを確認したらしい。
「ったく。こいつ、店を飛び出してきたぞ」
「ダリオさん!」
「本当だろ」
ユアンがリゼットを見て、優しく笑う。
「探しに来てくれたんだ」
「……その顔やめてください」
ダリオが呆れたように鼻を鳴らした。
「帰るぞ。今度はお前らが夜道で何かあったら笑えねえ」
誰も反論しなかった。
帰り道、ダリオとベルンが少し前を歩く。
リゼットとユアンは、その後ろで二輪車を押して歩いた。
隣を歩く足音がする。
二輪車の車輪が、土を踏む音がする。
そのことが、リゼットをひどく安心させた。
店へ着いたあと、ダリオとベルンは「もう出歩くなよ」と言い残して、それぞれ帰っていった。
ユアンが二輪車を店の脇へ寄せる。
「荷物、明日でいいよ」
「生ものは?」
「それだけ中に入れようかな」
二人で荷台の箱を下ろす。
一つ。二つ。
最後の小箱を持ち上げたところで、ユアンが思い出したように声を上げた。
「あ、そうだ」
「何ですか?」
荷物の間から、小さな紙袋を取り出す。
「これ」
「……何ですか?」
「お土産」
「私に?」
「うん」
開くと、砂糖をまぶした小さな焼き菓子がいくつか入っていた。
「隣町で人気なんだって」
「何でわざわざ」
「見たとき、リゼット好きそうだなって思って」
「…………」
「だから買った」
「……仕入れに行ったんですよね?」
「うん」
「ちゃんと仕事してください」
「したよ」
ユアンは何でもない顔で言う。
「ついでにリゼットのこと考えてただけ」
「…………」
また、こういうことを。さっきまで心配でどうにかなりそうだったのに、今度は別の意味で胸がうるさくなる。
「……何ですか」
「いや、顔赤いなって」
「誰のせいですか!」
紙袋を抱え、逃げるように店へ入る。
後ろから、ユアンの笑う声が聞こえた。
リゼットは店の中で足を止めた。
朝と何一つ変わっていないのに。
さっきまで知らない店のように感じていた場所が、今はちゃんと、いつもの店に見えた。
リゼットは紙袋を胸元へ引き寄せた。
後ろからユアンが入ってくる。
「何してるの?」
「何でもありません」
リゼットは紙袋を抱え直した。
「……帰ってきてよかった」
ユアンに聞こえないように、小さく呟いた。




