第9話「世界地図にない場所」
第9話「世界地図にない場所」
朝。
ラインドルフを出る空は、雲ひとつないほど晴れていた。
サクオミは宿の前に立ち、背負ったバッグの紐を締め直す。
街は、ようやく動き始めたところだった。
店々が扉を開け、商人たちが荷車を押し、何人かの冒険者がすでに装備を整えてギルドから出ていく。
サクオミは一度だけ、振り返った。
ラインドルフ。
数日前までは、ただ人が多すぎる、見知らぬ街だった。
だが今では、商業地区の位置も、冒険者ギルドも、宿も、大通りも、そしてダレルの店まで分かる。
「……このまま長居したら、そのうち道を全部覚えそうだな」
サクオミは肩をすくめた。
この世界に来た目的は、街に住み着くことではない。
そもそも、最終的な目的地すらまだ決まっていない。
ただ、1つだけ分かっていることがある。
安全な場所が必要だ。
騒がしい場所から離れたところ。
そして、自分の家にできる場所。
そんな場所を見つけるためには、レスターとラインドルフを結ぶ道だけを知っていても意味がない。
もっと広い世界を知る必要がある。
サクオミは街を出た。
今日の目的地は――エルドラ。
北部方面へ向かう道沿いにある小さな村だ。
そこまでの道は、それほど険しくない。
だが、サクオミは急がなかった。
相変わらず、移動のほとんどは徒歩だ。
トヨタ・ランドクルーザー300は、まだアイテムボックスの中にある。
人通りが増え始めた街道で、あの車を気軽に出すわけにはいかない。
サクオミは、この世界に来た初日から1つのことを学んでいた。
呼び出せるからといって、必ず使う必要があるわけではない。
昼前になると、街道の景色が少しずつ変わり始めた。
家が減っていく。
建物の代わりに、小さな畑が目立つようになる。
しばらく歩くと、道端で作業をしている農民たちが見えた。
そのうちの1人が手を上げる。
「おーい! 旅の人!」
サクオミは足を止めた。
「どうした?」
「エルドラへ行くのか?」
「ああ」
「なら、東の道はやめておけ」
サクオミは前方の分岐路を見る。
「どうして?」
「数日前の雨で、道が崩れてな」
「どれくらい酷い?」
「空の荷車なら通れる。だが荷物を積んでいたら、車輪が泥に沈むぞ」
「北の道は?」
「少し遠回りになる」
男は左側の道を指差した。
「だが、安全だ」
サクオミは頷いた。
「ありがとう」
「エルドラで泊まるなら、古い井戸の近くにある宿を探せ」
「どうして?」
「水を手に入れやすいからな」
「分かった」
サクオミは再び歩き始めた。
そして、わずかに笑う。
こういう情報は、地図には決して載らない。
どの道が壊れているのか。
どこなら水を確保しやすいのか。
どの道を商人がよく使うのか。
どこなら安全に夜を越せるのか。
そんな情報を知っているのは、その土地で暮らしている人間だけだ。
そして、サクオミが必要としているのは、まさにそういう情報だった。
太陽が西へ傾き始める頃、エルドラが見えてきた。
ラインドルフよりも、ずっと小さい村だ。
石壁もない。
ところどころに木製の柵があり、簡素な家々、畑、倉庫、そして村の中心と街道を繋ぐ土の道がある。
サクオミは入口を通り抜けた。
すると、桶を持った子供が足を止め、サクオミを見つめた。
「冒険者?」
サクオミは自分を指差す。
「そう見えるか?」
子供は真剣な顔で頷いた。
「うん」
「どうして?」
「剣を持ってるから」
サクオミは腰に下げた短剣を見る。
「……なるほど」
子供は続けて尋ねた。
「魔物?」
「時々な」
「今まで何匹倒したの?」
サクオミは少し考えた。
「数日前から数えるなら?」
「うん」
「6匹」
子供の目が大きくなる。
「6匹!?」
「ああ」
「すごい!」
サクオミは思わず笑いそうになった。
「大きな声で言うな」
「なんで?」
「自慢してると思われるだろ」
子供には、その意味がよく分からないらしい。
それでも素直に頷いた。
「分かった!」
そう言うと、子供は走り去っていった。
サクオミはそのまま歩く。
やがて、先ほど農民から聞いた通り、古い井戸の近くに小さな宿を見つけた。
宿の主人は、ハーランという年配の男だった。
「部屋は1泊か?」
「ああ」
「2カッパーだ」
サクオミは金を取り出す。
ハーランは2カッパーを受け取り、鍵を渡した。
「夕食は?」
「何がある?」
「野菜のスープとパン。それから塩漬け肉だ」
「いくら?」
「3カッパー」
「それで」
ハーランは笑った。
「冒険者か?」
「ランクFだ」
「新人か?」
「そう見えるか?」
「少しな」
サクオミは窓際の椅子に座った。
やがて、ハーランがスープの入った器を運んでくる。
「北へ向かうなら気をつけろ」
「どうして?」
「山がある」
「ヴァルケイル山脈?」
ハーランが頷く。
「知っているのか?」
「聞いたことがある」
「あの山は、あまり人に優しくない」
「魔物か?」
「それもある」
ハーランは向かいの椅子に腰を下ろす。
「だが、もっと厄介なのは天気だ」
「天気?」
「麓は晴れていても、山の上では霧が出る。風向きもすぐ変わる」
サクオミは頷いた。
「道は?」
「古い道がある」
「まだ使われているのか?」
「狩人や薬草採りが時々通る」
「なら、通れるんだな」
「道を知っていればな」
サクオミはスープを口に運ぶ。
味は素朴だった。
ジャガイモに、いくつかの野菜。
そして少しの塩漬け肉。
特別な料理ではない。
それでも、温かい。
「ここからどれくらいだ?」
「山の麓までなら、半日くらいだ」
「山の尾根まで行くなら?」
ハーランが眉を上げる。
「何のために?」
「周辺を見てみたい」
「見る?」
「ああ」
「お前は冒険者なのか、それとも探検家なのか?」
サクオミはスプーンを持ち上げた。
「……まだ分からない」
ハーランは笑った。
「変な答えだな」
「そうかもな」
サクオミはスープを飲み干した。
その夜、サクオミは早めに眠った。
明日はラスクヴェイルへ向かう。
――翌朝。
エルドラの畑には、薄い霧が漂っていた。
朝食を終えたサクオミは、村を出る。
道は次第に細くなっていく。
家が消える。
畑も少なくなる。
代わりに、木々が密集し始めた。
ラスクヴェイルの森。
ヴェルセラで生き始めた初日に、すでに一度通った場所だ。
だが、今回は違う。
あの時よりも、サクオミははるかに多くのことを知っている。
あの頃は、ただ生き残ることだけを考えていた。
今は、世界そのものを見るようになっている。
サクオミは大きな木の前で足を止めた。
幹には、何かに引っかかれたような傷跡が残っている。
指先で、その跡に触れる。
「……魔物か」
周囲を見回す。
音はない。
聞こえるのは風だけ。
葉が静かに揺れる。
1羽の鳥が枝から飛び立った。
サクオミは、脅威がないことを確認するまで動かなかった。
前の人生で身につけた習慣。
周囲を確認する。
それは、恐れているからではない。
不用意に動くことが、問題を引き起こす最も早い方法だと知っているからだ。
数分後、サクオミは再び歩き始めた。
ラスクヴェイルの森を奥へ進むほど、人間の痕跡は少なくなる。
道は土の小道へ変わった。
そして、その道さえ、やがて消えかけていく。
サクオミはラインドルフで買った簡素な地図を取り出した。
手書きの地図だ。
決して悪くない。
街の名前。
村。
川。
主要街道。
いくつかの山脈。
だが、見れば見るほど違和感が強くなる。
「縮尺が分からないな……」
サクオミは石の上に地図を広げる。
「それに、この辺り……」
指が北側を示す。
「……空白だ」
何もないという意味ではない。
情報がないという意味の空白だ。
ヴァルケイル山脈は描かれている。
だが、その先には曖昧な線があるだけ。
地域名もない。
道もない。
村もない。
川さえ、はっきり描かれていない。
サクオミは首を傾げた。
「つまり、ここの人たちも知らないのか?」
地図をバッグに戻す。
しばらく進むと、木々が次第にまばらになっていった。
地面は岩が増え、空気が冷たくなる。
ヴァルケイル山脈が見えてきた。
遠くに見える山頂には、薄い霧がかかっている。
サクオミは足を止めた。
「……悪くないな」
特別に感動したわけではない。
だが、その景色が美しいことは認めざるを得なかった。
背後には緑豊かな森。
前方には、空へ向かって伸びる巨大な山々。
建物はない。
城壁もない。
塔もない。
人の声すら聞こえない。
あるのは、自然だけ。
サクオミは、こういう場所が嫌いではなかった。
「こんな場所に家があったら……」
そこで言葉を止める。
「……静かに暮らせそうだな」
そして、小さく息を吐いた。
まだだ。
先のことを考えすぎるな。
この地域の外について、まだ何も知らない。
サクオミは岩の多い道を登り始めた。
――午後。
日が傾き始める頃、サクオミはヴァルケイル山脈の斜面にある高台へ到着した。
それほど高い場所ではない。
だが、周囲を広く見渡すには十分だった。
サクオミは大きな岩の上に腰を下ろす。
水筒を取り出す。
一口飲む。
そして、遠くを眺めた。
その景色を見て、再び地図を取り出す。
手元の地図と、目の前に広がる景色を照らし合わせる。
山。
森。
川。
どれも地図に描かれている。
だが、1つだけ一致しないものがあった。
遠く。
山と森を越えた先。
そこに、あまりにも遠すぎて確信できない青い線が見える。
海……?
サクオミは目を細める。
「……まさかな」
距離がありすぎる。
肉眼だけでは判断できない。
サクオミはワールド・サモン・システムを起動した。
薄い画面が目の前に現れる。
音はない。
派手な演出もない。
ただ、情報だけが表示される。
【ワールド・サモン・システム】
【ユーザー:サカキバラ・サクオミ】
【現在地域:エルダリン――南西部】
【既知地図データ:限定的】
サクオミはゆっくり読み上げる。
「……限定的、か」
地図の部分に触れる。
システムが周辺情報を拡大した。
線が少しずつ浮かび上がる。
川。
山脈。
森。
これまで歩いてきた道。
さらに表示範囲を広げる。
もっと遠くへ。
さらに遠くへ。
サクオミの眉が寄る。
「……ちょっと待て」
自分が持っている人間の地図は、そのずっと手前で終わっている。
だが、システム上のデータは、その先へ進んでいく。
ヴァルケイル山脈。
森林。
平原。
海。
そして――。
何かが表示された。
名前ではない。
王国でもない。
都市でもない。
既知の地域名でもない。
ただ、1つの表示。
【未登録陸地】
サクオミは黙った。
表示を拡大する。
その陸地は、現在地からかなり遠い。
これまで知っていた地域をはるかに越えた先。
交易路はない。
都市もない。
記録された王国もない。
名前すら存在しない。
サクオミは、しばらくその画面を見つめた。
「……陸地?」
さらに拡大する。
システムが追加情報を表示した。
【地図上の状態:未登録】
【既知文明データ:なし】
【現在地からの距離:極端に遠い】
サクオミは息を吐く。
「……これは、面白いな」
だが、すぐに興奮したわけではない。
むしろ、最初に浮かんだのは問題だった。
もし本当に未登録の地域なら――。
どうやって行く?
どれくらい時間がかかる?
途中には何がある?
海は安全なのか?
海の魔物は?
嵐は?
王国はある?
人はいる?
そして何より――。
本当に誰も住んでいないのか?
サクオミは画面の一部を閉じる。
「……決めつけるな」
そして、買った世界地図をもう一度見る。
この地図が示しているのは、人間が知っている世界だ。
だが、人間が知っている世界が、世界のすべてとは限らない。
その違いが、今になってはっきりした。
サクオミは再びシステムを開く。
座標を確認する。
システムが現在位置の推定座標を表示する。
サクオミは、その数字を何度か確認した。
そして記憶する。
「陸上用の車があっても、これはどうにもならないな」
小さく笑う。
「船なら……」
そこで言葉が止まる。
サクオミは遠くの海を見つめた。
アース・アーカイブには、船もある。
それも、選択肢が多すぎるほどに。
だが、いきなり船を呼び出して、何の準備もなく海へ出るつもりはない。
船には乗組員が必要だ。
航海技術。
海図。
港。
燃料。
整備。
天候に関する情報。
そして、もしシステムが示した距離が本当なら――。
これは、もう小さな旅ではない。
サクオミはシステムを閉じた。
「……まだだ」
立ち上がる。
「今じゃない」
山の風が、少し強く吹いた。
サクオミは地図をバッグにしまう。
そして下山する前に、もう一度だけ地平線を見た。
未登録の陸地は、もう見えない。
遠くの海と、視界を遮る薄い霧だけが広がっている。
それでも、サクオミは知った。
そこに何かがある。
――少なくとも、システムはそう認識している。
それだけで十分だった。
世界を征服したいわけではない。
宝を探したいわけでもない。
ただ、知りたい。
あそこには、何がある?
サクオミは暗くなる前に下山を始めた。
ヴァルケイル山脈の道は、光が弱くなると一気に歩きにくくなる。
小さな石が簡単にずれる。
ところどころ、木の根が道を塞いでいる。
サクオミは慎重に進んだ。
途中。
茂みの向こうから、何かの音が聞こえた。
サクオミは足を止める。
手が剣の柄に触れる。
動かない。
音が、もう一度聞こえた。
――パキッ。
サクオミは待つ。
すると、茂みの中から小さな動物が顔を出した。
魔物ではない。
ただの森の動物だ。
サクオミは息を吐いた。
「……驚かせるなよ」
動物は少しだけサクオミを見つめる。
そして、そのまま森の奥へ消えていった。
サクオミは小さく笑う。
「驚いたのは俺のほうだけどな」
再び歩き始める。
夜が近づく頃、サクオミはラスクヴェイルの森の近くまで戻ってきた。
だが、今日は宝を手に入れられなかったことも、珍しい魔物を倒せなかったことも、まったく気にならなかった。
もっと重要なものを手に入れたからだ。
情報。
自分が思っていたより、この世界はずっと広い。
道や街から見える世界よりも、はるかに広い。
人間の地図には限界がある。
システムには、その限界がない。
そして、その地図の外側には――。
何かがある。
サクオミは、まだそれが何なのか知らない。
いつ行くのかも決めていない。
それでも、新しい目的のようなものが生まれた。
まだ「目的」と呼べるほど明確ではない。
ただ、1つの疑問。
人間が知らない地域の、その先には何がある?
その夜、サクオミがエルドラへ戻ると、ハーランが宿の扉を閉めようとしていた。
「戻ったか」
「ああ」
「山はどうだった?」
「良かった」
「良かった?」
「景色がな」
ハーランは笑った。
「景色を見るためだけに、あそこまで行ったのか?」
サクオミは足を止める。
「……まあ、そんなところだ」
「変わった冒険者だな」
「そうかもな」
ハーランが扉を開ける。
「入れ。夕食はまだある」
「何だ?」
「スープだ」
サクオミはハーランを見る。
「……またスープ?」
「肉が欲しいなら追加料金だ」
「……スープでいい」
ハーランが笑う。
サクオミは宿の中へ入った。
長い1日が、質素なスープの1杯で終わる。
宝の発見はない。
巨大な魔物もいない。
戦闘すらなかった。
それでも、サクオミの頭の中には、新しい地図ができていた。
店で買える地図ではない。
ギルドから渡される地図でもない。
ワールド・サモン・システムだからこそ見ることができる地図。
そして、ヴェルセラへ来てから初めて。
サクオミは、少しだけ笑った。
この世界は、まだ自分にすべてを見せてはいない。
人間ですら地図に記していない場所が、世界のどこかに残っている。
サクオミはスープを食べ終えた。
「だったら……」
スプーンを置く。
「……まだ歩き続ける理由はあるな」
ただし――明日ではない。
今でもない。
今夜は眠りたい。
明日、もう一度ゆっくり考えればいい。
知らない大陸へ、何の準備もなく向かうのは冒険ではない。
ただの馬鹿な自殺行為だ。
そして、サクオミは一度死んでいる。
もう一度繰り返すつもりはなかった。
---
【次回予告】
第10話「世界の果てへ行く前に」
未登録の地域を発見したことで、サクオミはさらに遠くへ向かうための準備について考え始める。
だが、その場所を目指す前に――。
まず、自分が何を持っているのか。
そして、新しい世界で得た能力を、どこまで利用できるのか。
それを理解する必要がある。
【第10話へ続く……】




