第10話「最初の女の子」
第10話「最初の女の子」
ヴァルケイル山脈――ミレル村へ続く旧道
ヴェルセラ到着から9日目――午前10時20分頃
その朝、サクオミがエルドラを出た頃には、太陽はすでに草原の露を乾かせるほど高く昇っていた。
荷物は多くない。
肩には簡素な布袋。
身につけているのは、ラインドルフで購入した普通の服。
そして、いくつかの食料や必要品はアイテムボックスに収納している。
今日の目的は単純だった。
まだ見たことのない場所を歩いてみる。
昨日、【未登録陸地】を発見した。
それでも、サクオミはすぐにその謎の土地を目指そうとはしなかった。
世界は広すぎる。
海の向こうにあるかもしれない場所を考える前に、まず自分が今いる地域について知るべきだ。
エルドラからヴァルケイル山脈へ向かうには、徒歩で数時間ほどかかる。
道は決して悪くない。
しかし、快適とも言えなかった。
馬車の車輪によって固くなっている場所もあれば、数日前の雨で浅い泥道になっている場所もある。
サクオミはのんびり歩いていた。
時々、足を止めて周囲を見る。
地面の傾斜。
道幅。
水の流れ。
車輪の跡。
魔物の足跡。
機械を扱う仕事に慣れていた前世の習慣は、簡単には消えない。
周囲を観察することが、もはや癖になっていた。
正午12時頃。
エルドラから約8km歩いたところで、ヴァルケイル山脈の姿が目の前にはっきりと見え始めた。
サクオミは低い坂道の途中で足を止める。
「……あれがヴァルケイルか」
ヴァルケイル山脈は、地球に存在した極端に高い山々と比べれば、それほど異常な高さではない。
だが、その広がりは大きかった。
木々に覆われた斜面が北へ向かって長く続いている。
ところどころ、崩落したような岩肌も見える。
山の麓には、いくつかの細い道があった。
今も使われているもの。
そして、ほとんど草に覆われているもの。
サクオミは以前ラインドルフで買った簡素な地図を取り出した。
紙の上に描かれた道と、目の前の景色を見比べる。
「こっちは北へ向かう道」
指を別の場所へ移す。
「こっちは……旧道のはずだな」
ほとんど草に埋もれた道を見る。
「だったら……」
サクオミは地図をしまった。
「……旧道を行ってみるか」
何かを探しているわけではない。
ただ、気になった。
そして、そういう小さな好奇心こそ、時には数km余計に歩く理由になる。
---
13時05分――古い道の跡
旧道は、予想していたよりもはっきり残っていた。
大きな踏み石が、いくつも地面に埋まっている。
道の脇には低い基礎の跡も残っていた。
かつて道の境界か、水路として使われていたのかもしれない。
サクオミはゆっくり歩く。
「……昔は、ここが主要街道だったのか?」
しゃがみ込み、1つの石に触れる。
表面は長い年月によって削られている。
それでも、その石の配置はあまりにも規則的だった。
自然にできたものとは考えにくい。
「……かなり古いな」
案内板はない。
見張りもいない。
商人もいない。
馬車の車輪跡さえ、ほとんど残っていない。
聞こえるのは、木々の間を抜ける風の音だけ。
サクオミは立ち上がる。
さらに約2kmほど進んだ。
その時だった。
音が聞こえた。
魔物ではない。
人の話し声でもない。
何かが落ちたような音。
そして――。
「……あっ」
女性の声。
サクオミは足を止めた。
すぐには近づかない。
手が反射的にバッグへ向かう。
武器を取り出すためではない。
アイテムボックスがいつでも使える状態か確認しただけだ。
再び声が聞こえた。
「……立てる?」
沈黙。
その後、別の女性の声が返ってくる。
「……まだ、大丈夫」
サクオミは眉を寄せた。
少なくとも2人いる。
サクオミは声のした方向へ慎重に歩く。
木々の向こう側。
旧道が小さな開けた場所のようになっている。
そこに、1人の少女がいた。
少女は木の幹に身体を預けながら立っている。
年齢は16歳くらいに見えた。
長い髪。
太陽の光を受けて目立つ、銀白色。
白い肌。
整った顔立ち。
どこか気品を感じさせる、貴族的な雰囲気。
だが、一番目につくのは顔ではなかった。
耳だ。
長い。
明らかにエルフの耳。
数m離れていても、見間違えることはない。
少女の服装は簡素だった。
貴族らしさとは無縁の仕事着。
足元の布には少し破れがあり、脚の下部には傷がある。
大きな怪我ではない。
だが、歩くには少し痛む程度の傷らしい。
その近くには、木製の籠が倒れていた。
中身が地面に散らばっている。
少女がサクオミを見る。
深い紫色の瞳が、すぐに警戒へ変わった。
「……誰?」
サクオミは約4mの距離を保ったまま止まる。
「それは、こちらも聞きたいところだな」
少女は数秒間、サクオミを見つめた。
「私が先に聞いた」
「……それもそうだな」
サクオミは両手を少し上げる。
敵意がないことを示すためだ。
「サクオミ」
姓は名乗らない。
少女はなおも警戒している。
「人間?」
「……だいたいは」
少女の眉がわずかに動いた。
「だいたい?」
「説明すると面倒だ」
「……変な答え」
「よく言われる」
少女は身体を起こそうとした。
しかし、傷ついた足に体重をかけた瞬間、身体が少しふらつく。
サクオミは1歩前へ出た。
少女はすぐに手を上げる。
「来ないで」
サクオミは止まった。
「分かった」
無理に近づかない。
急な動きもしない。
少女はゆっくり息を吸った。
「助けはいらない」
サクオミは少女の足を見る。
それから、倒れている籠を見る。
「怪我してるだろ」
「小さな傷」
「立つのも苦労してる」
「歩くことはできる」
「どれくらい?」
少女は黙った。
サクオミも待つ。
やがて、少女が答えた。
「……2kmくらい」
「なら、確かに歩けるな」
サクオミは少女の背後にある道を指差す。
「ミレル村?」
少女の表情が変わった。
「ミレルを知っているの?」
「行ったことはない」
「なら、どうして聞くの?」
「俺もそこへ向かっているから」
少女は再び黙った。
サクオミは少女の服装を見る。
冒険者の服ではない。
旅装でもない。
簡素なエプロン。
布製の手袋。
仕事用の靴。
そして、食料や布などが入っていた籠。
サクオミは尋ねた。
「ミレルに住んでいるのか?」
「しばらくの間は」
「何をしている?」
少女は少し間を置いて答えた。
「使用人」
サクオミは少しだけ目を見開く。
「使用人?」
「村の周辺に土地を持つ家で働いている」
「ああ」
特に不自然ではない。
田舎では、貴族や土地所有者が必ずしも王都や大きな街に住んでいるわけではない。
農地や倉庫、収穫物、地域の管理などのために、農村部に屋敷や別邸を持っている家もある。
サクオミは、それ以上追及する理由を感じなかった。
ただ、1つ気になることがある。
「……ハイエルフが使用人?」
少女が鋭い視線を向ける。
サクオミはすぐに手を上げた。
「馬鹿にしたわけじゃない」
「そう聞こえた」
「ただ気になっただけだ」
少女はしばらく黙っていた。
そして、少し落ち着いた声で答える。
「住む場所が必要だったから」
サクオミは口を挟まない。
「その仕事なら、寝る場所も食事も、それに給金ももらえる」
少女は自分の傷を見る。
「数日前、旅の途中で怪我をした。そのせいで、普通に旅を続けられなくなった」
「だから、その仕事を?」
「そう」
「それでも魔法は使えるんだろ?」
少女の紫色の瞳が細くなる。
「……分かるの?」
サクオミは首を横に振る。
「感じたわけじゃない。推測しただけだ」
「どうして?」
「魔法に慣れていない人間は、魔法について聞かれた時、そんな表情をしない」
少女は黙っている。
サクオミは続けた。
「それに、さっきの立ち方」
「立ち方?」
「普通の人間なら、怪我したら身体だけでどうにかしようとする」
サクオミは少女の足を指差す。
「でも君は、自分の中にある魔力で痛みをどこまで抑えられるか計算しているように見えた」
少女は答えない。
だが、表情が変わった。
単なる警戒ではない。
今度は、サクオミそのものを注意深く観察している。
「名前はサクオミ?」
「ああ」
「姓は?」
「サカキバラ」
少女は小さく繰り返す。
「サカキバラ……サクオミ」
覚えるように。
そして、少女はわずかに頭を下げた。
「私の名前は、ヴァエリス・クェルヴェイン」
サクオミは、もう一度その長い耳を見る。
「ヴァエリス」
「ええ」
「分かった」
それだけだった。
大げさな反応はない。
驚きもない。
身分について尋ねることもない。
それがヴァエリスには奇妙だった。
彼女は、種族や身分を知られた瞬間に、相手の態度が変わることに慣れていた。
しかし、目の前の少年はただ1つのことを言った。
「足、洗ったほうがいいぞ」
ヴァエリスが瞬きをする。
「……それだけ?」
「他に何かあるのか?」
「私が誰なのか、気にならないの?」
「話したければ、そのうち話すだろ」
ヴァエリスは黙り込んだ。
サクオミは籠のそばにしゃがむ。
「これ、君の?」
「そう」
「他に壊れたものは?」
「食料がいくつか落ちただけ」
サクオミは中身を見る。
「まだ使えるな」
落ちていた物を拾い、籠の中へ戻していく。
ヴァエリスは、その様子を見つめていた。
「……怖くないの?」
「何が?」
「ハイエルフが」
サクオミは顔を上げる。
「どうして怖がる?」
「人間の中には、ハイエルフを……」
ヴァエリスはそこで言葉を止めた。
サクオミは待つ。
「……近づきにくい種族だと思っている者もいる」
「ああ」
サクオミは立ち上がる。
「それなら、お互い様だな」
「お互い様?」
「俺も人付き合いは得意じゃない」
ヴァエリスは数秒間、サクオミを見る。
そして、口元がほんの少しだけ動いた。
「……変な人」
「それもよく言われる」
---
13時25分――ミレルへの道
サクオミはヴァエリスを車に乗せることはしなかった。
ミレルまでの距離は約2km。
しかも、この道は徒歩で十分進める程度の細さだ。
それに、田舎道で現代の車を出せば、新しい問題を生み出すだけだ。
理由もなくトヨタ・ランドクルーザー300を他人に見せるつもりもない。
だから、2人は歩いた。
サクオミが籠を持つ。
ヴァエリスは、その隣を歩く。
最初のうちは、ほとんど会話がなかった。
約500mほど進んだところで、ヴァエリスが沈黙を破った。
「どうしてミレルへ?」
「散歩」
ヴァエリスが横を見る。
「……本気?」
「ああ」
「1人で旅をして、こんなところまで散歩?」
「まあ、そんなところだ」
「冒険者?」
「登録はしている」
「ランクは?」
「F」
ヴァエリスは少し困惑した。
「ランクF?」
「一番下だ」
「それでヴァルケイル周辺まで来たの?」
「どうして来ちゃいけない?」
「この辺りは完全に安全というわけじゃない」
「知ってる」
「知っている人には見えないけど」
サクオミはヴァエリスを見る。
「……結構、言うな」
「見たことを言っただけ」
「なら、俺たちは相性がいいな」
ヴァエリスは再び黙った。
数歩進んだところで、また尋ねる。
「武器を持っているの?」
「ああ」
「どこに?」
「安全な場所に」
ヴァエリスはサクオミのバッグを見る。
「それは答えになっていない」
「そうだな」
「……」
今度こそ、ヴァエリスは何を返せばいいのか分からなくなった。
サクオミは笑いをこらえる。
見た目ほど冷たい少女ではない。
ただ、かなり警戒心が強いらしい。
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14時00分――ミレル村
午後2時頃。
木々の向こう側から、家の屋根が見えてきた。
ミレル。
エルドラよりもさらに小さな村だった。
土の道が集落の中央を貫いている。
木造の家々が、一定の距離を空けて建っている。
家畜小屋。
小さな倉庫。
共同井戸。
そして、村の外側にはいくつかの畑。
高い城壁はない。
街門もない。
ところどころに低い木柵があるだけだ。
サクオミは、人口は数百人にも満たないだろうと予想した。
ヴァエリスが足を止める。
「ここからは1人で大丈夫」
サクオミは籠を渡す。
「本当に?」
「ええ」
ヴァエリスは両手で籠を受け取る。
そして、去る前に口を開いた。
「サクオミ」
「ん?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
ヴァエリスは振り返る。
だが、数歩進んだところで再び足を止めた。
「散歩って言っていたわね」
「ああ」
「それなら……」
彼女は村の外へ続く道を指差す。
「北へは1人で行かないほうがいい」
「どうして?」
「ミレルの先にあるヴァルケイルの斜面へ続く旧道は、今ではほとんど使われていない」
「知ってる」
「それで?」
「魔物か?」
ヴァエリスが頷く。
「何匹かいる」
サクオミは薄く笑う。
「分かった。覚えておく」
ヴァエリスはしばらくサクオミを見つめる。
そして、そのまま村の中へ入っていった。
サクオミは、すぐには後を追わなかった。
道に立ったまま、ハイエルフの少女の背中を見送る。
やがて、ヴァエリス・クェルヴェインの姿が家々の向こうへ消えていった。
ヴァエリス・クェルヴェイン。
ハイエルフ。
16歳。
旅の途中で怪我をし、しばらく旅を続けられなくなったため、住む場所と仕事を得るために土地所有者の家で使用人として働いている。
特別に珍しい話ではない。
だが、サクオミには1つだけ気になることがあった。
ヴァエリスが魔法を使う時。
正確には――。
魔法に関係する何かを隠しているように見えたことだ。
サクオミは自分の手を見る。
「……面白いな」
この世界の魔法について、まだほとんど理解していない。
ここ数日は、食事、金、旅、魔物、商売。
そして、この世界そのものを理解することに精一杯だった。
魔法については、まだ本格的に調べていない。
だが、ヴェルセラへ来た最初の日から知っていた。
この世界には、地球には存在しなかったものがある。
魔力。
サクオミは小さく息を吐いた。
「……重要な部分を、少し後回しにしすぎたか」
そう呟いて、サクオミはミレル村へ入っていった。
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15時10分――ミレル村
サクオミは村の小さな宿で、1泊分の部屋を借りた。
宿の主人は、あまり多くを尋ねてこなかった。
サクオミは、ラインドルフでの商売で得た金から宿代を支払う。
荷物を置いた後、窓際に座る。
そこからは、村の道の一部が見えた。
何人かの農民が帰ってくる。
子供が桶を運んでいる。
2人の男が馬車の車輪を修理している。
女性が家から出て、洗濯物を運んでいる。
特別なものは何もない。
だからこそ、サクオミは落ち着いた。
この世界は、大きな事件を毎日のように起こさなくても、ちゃんと生きている。
サクオミは自分の食料からコーヒーを用意した。
苦い香りが、すぐに部屋へ広がる。
一口飲む。
「……ああ」
しばらくの間、魔物のことを考えなかった。
世界地図のことも。
未登録の陸地のことも。
システムのことも。
ただ、コーヒーだけ。
しかし、その静かな時間も長くは続かなかった。
日が傾き始めると、サクオミは再びヴァエリスのことを考えた。
ハイエルフだからではない。
先ほど見た、あの感覚が気になっていた。
ヴァエリスが木のそばに立っていた時。
サクオミは、ほんのわずかな空気の変化を感じた。
風ではない。
ただ漂っている魔力でもない。
もっと規則正しい何か。
一定のパターンに沿って流れているような感覚。
サクオミはカップを置く。
「……魔法回路?」
以前、システムの情報をざっと読んだ時に見た言葉だった。
だが、それがこの世界で実際にどのように使われているのかは、まだ分からない。
誰もが魔法回路を持っているのか。
種族によって構造が違うのか。
元素魔法は、どういう仕組みなのか。
治癒魔法は?
そして、何より気になるのは――。
空間魔法は、本当にシステムが持つ転移能力と同じ原理なのか?
サクオミは椅子にもたれた。
「明日、ヴァエリスに聞いてみるか」
そして、すぐに付け加える。
「……答えてくれれば、だけどな」
窓の外では、ミレルの空がオレンジ色に染まり始めていた。
遠くのヴァルケイル山脈も、少しずつ影に包まれていく。
その日、金は増えなかった。
魔物も倒していない。
地球の品物も売っていない。
それでも、ヴェルセラへ来てから初めて、サクオミはあることに気づいた。
この世界には、まだ自分が本当の意味で理解していない大きな領域がある。
魔法。
そして、今日出会ったハイエルフの少女は、その入口を教えてくれる最初の人物になるかもしれない。
夜がゆっくりと訪れる。
サクオミは窓を閉めた。
眠る前に、ワールド・サモン・システムを少しだけ開く。
新しい依頼はない。
警告もない。
ただ、外の世界がいつも通り動き続けている。
サクオミはシステム画面を閉じた。
「……明日だ」
ベッドに横になる。
「魔法を学ぼう」
その頃、ヴァエリス・クェルヴェインもまだ知らなかった。
あの古い道での短い出会いが、自分の人生の流れを変えていくことを。
今の2人は、ただ同じ道を歩いた2人の見知らぬ者にすぎない。
だが、明日の朝。
2人の会話は、名前や仕事の話だけでは終わらない。
魔力。
魔法回路。
そして、ヴェルセラという世界を地球とはまったく異なるものにしている魔法。
それについて、少しずつ話し始めることになる。
---
【次回予告】
第11話「魔力というもの」
「魔力、魔法回路、そして魔法」
サクオミはヴァエリスと共に、魔力の基礎を学び始める。
元素魔法から治癒魔法、そして空間魔法まで。
彼は、ヴェルセラの魔法体系が、ただ呪文を唱えれば発動するような単純なものではないことを少しずつ知っていく。
そして、その会話は2人を再び――。
ヴァルケイルの森へと導いていく。
【第11話へ続く……】




