第17話「狼の少女」
第17話「狼の少女」
ダルセンの街が、2人の背後で少しずつ小さくなっていく。
まだ太陽がそれほど高くない朝。
朔臣とヴァエリスは、ダルセンの門を出た。
ここ数日、ずっと耳にしていた港の喧騒も、少しずつ遠ざかっていく。
代わりに聞こえてくるのは、荷車の車輪が軋む音。
そして、辺境へ続く道を進む馬の足音だった。
ヴァエリスが一度だけ振り返る。
「本当に行くんですか?」
「しばらくはな」
「ゴーレルとは、もう会わないんですか?」
朔臣が彼女を見る。
「なんで?」
「昨日、ずいぶん興味を持っていたように見えましたから」
「実際、興味はある」
「それだけ?」
「頭がいい」
ヴァエリスは、その先を待った。
だが――。
続きはなかった。
「……朔臣」
「ん?」
「あなた、ときどき短すぎます」
「体力を温存してるんだ」
「ただ歩いているだけですよ?」
「歩くのだって疲れる」
ヴァエリスは小さく息を吐いた。
2人はそのまま歩き続ける。
街の密集した区域を離れるにつれ、周囲の景色も変わっていった。
家々は少なくなり、代わりに農地と簡素な木柵が増えていく。
道端では、何人かの農民が朝から作業をしていた。
しばらくの間は、遠くにダルセンの街が見えていた。
だが、道が少しずつ上り坂になると、街は木々の向こうへ完全に隠れていった。
朔臣が足を止める。
前方を見つめる。
「辺境街道か」
ヴァエリスも彼の視線を追った。
道は、ダルセンへ向かう主要街道よりも荒れている。
土には荷車の轍がはっきり残っていた。
場所によっては、前日の雨によって浅い水溜まりまでできている。
「道、あまり良くないですね」
「そうだな」
「でも、使われている」
「必要だからな」
ヴァエリスが薄く笑った。
「また物流の話をするんでしょう?」
「俺はいつも物流の話をしているわけじゃない」
「昨日は、ほとんど1日中していましたけど」
「ダルセンは物流について話さないと、退屈だからな」
「……もういいです」
2人は再び歩き始めた。
最初の数時間は、特に何も起こらなかった。
木材を運ぶ荷車とすれ違い、ダルセンへ向かう2人の商人と挨拶を交わし、さらに外縁部から戻ってきた小さな狩人の一団ともすれ違った。
すれ違うたびに、ヴァエリスは自然に道を譲る。
朔臣も同じだった。
無理に会話を続ける必要はない。
長い旅は、互いに沈黙を押しつけないほうが、むしろ楽だった。
昼が近づいた頃。
2人は小さな川の流れのそばで休憩することにした。
朔臣は水を汲み、近くの岩へ腰を下ろす。
ヴァエリスは荷物から昼食を取り出した。
「まだ遠いですか?」
「カルナ?」
「はい」
朔臣は、以前確認した現地の地図を思い出す。
「まだそれなりにある」
「どれくらい?」
「道が普通なら、夕方には着くかもしれない」
「普通じゃなかったら?」
「夜だな」
ヴァエリスが道を見る。
「このまま進みます?」
「この先の状態を見てから決める」
朔臣は急いでいなかった。
2人はすでに辺境に近い地域へ入っている。
数時間早く到着するためだけに、無理をする理由はない。
食事を終えると、再び歩き始める。
地形は少しずつ変化していった。
農地が減る。
木々が増える。
人家は時々見かけるものの、その間隔は次第に広くなっていく。
やがて、古びた木製の道標を見つけた。
そのうちの1つに、カルナの名が記されている。
ヴァエリスが道標に触れる。
「こっちですね」
「ああ」
2人は左の道へ入った。
その直後だった。
遠くから、叫び声が聞こえた。
朔臣が即座に足を止める。
ヴァエリスも止まった。
「今のは?」
2度目の叫び声。
今度は、はっきり聞こえた。
商人の声ではない。
冗談を言っている人間の声でもない。
そこには、明らかな恐怖が混じっていた。
朔臣は道脇の木々を見る。
「向こうだ」
ヴァエリスはすでに片手を上げていた。
周囲の魔力が動き始める。
「私が――」
「待て」
朔臣が先に歩き出す。
2人は街道を外れ、木々の間へ入っていった。
再び叫び声が響く。
今度は、それに続いて唸り声が聞こえた。
そして――。
何かが地面に叩きつけられる音。
ヴァエリスが歩く速度を上げる。
「戦っている」
「ああ」
最後の茂みを抜けた。
そこには、いくつかの家へ続く土の道があった。
村の入口。
何人もの子供たちが走っている。
1人の女性が、家の中へ入るよう必死に叫んでいた。
そして――。
子供たちと、群れを成した魔物の間に立っている少女がいた。
狼獣人。
黒銀色の髪。
頭の上には、ピンと立った狼の耳。
背後では、大きな尻尾が彼女の鍛えられた身体に合わせて揺れている。
琥珀色の瞳は、目の前の魔物から一瞬たりとも離れていなかった。
両手には武器が握られている。
魔物の1体が飛びかかる。
少女が動いた。
速い。
普通の人間では考えにくい速度だった。
少女は横へ身を滑らせ、魔物の爪を肩先へ掠めさせる。
そして、そのまま反撃を叩き込んだ。
魔物が吹き飛ぶ。
背後にいた子供たちが叫ぶ。
「逃げて! 後ろを見るな!」
「でも、ドラエヴラ姉ちゃん――!」
「逃げろ!」
1人の少年が転びかけた。
少女がほんの一瞬、そちらへ振り返る。
それだけで十分だった。
別の魔物が距離を詰める。
朔臣がすぐに動こうとした。
だが、ヴァエリスが追おうとするより先に、朔臣は手を上げた。
「まだだ」
「でも――」
「見ろ」
魔物が飛びかかる。
狼獣人の少女は退かなかった。
むしろ、自分から前へ出る。
身体を低くする。
魔物の爪が頭上を通り過ぎた。
少女は一回転しながら魔物の脚を打ち抜く。
バランスを崩した魔物を、そのまま勢いに乗せて地面へ叩きつけた。
朔臣は瞬きもせずに見ていた。
「反射がいい」
ヴァエリスも頷く。
「反射だけじゃありません」
少女が立ち上がる。
息が少し荒い。
腕には小さな傷ができていた。
それでも――。
少女は子供たちの前から動かなかった。
最後の魔物が動く。
他より一回り大きい。
少女は武器を構えた。
「全員、家に入れ!」
誰も動かない。
「今すぐ!」
子供たちは、ようやく走り出した。
少女は、子供たちが十分に離れるまで待つ。
そして初めて、目の前の魔物だけに意識を向けた。
朔臣は彼女の立ち位置を見る。
脚が、すでに少し重くなっている。
腕の傷そのものは大きな問題ではない。
問題は、敵の数と戦える空間だった。
「ヴァエリス」
「はい」
「準備しておけ」
「手を出すんですか?」
「必要ならな」
巨大な魔物が咆哮する。
少女が一歩踏み込む。
ほぼ同時に、魔物も動いた。
最初の衝突。
地面が震える。
狼獣人の少女が数歩後ろへ押し飛ばされた。
それでも踏みとどまる。
「チッ……」
魔物が再び襲いかかる。
今度は、完全には避けきれない。
朔臣が手を上げた。
魔力が動く。
単純な攻撃が放たれた。
魔物は少女へ届く寸前で横へ吹き飛ばされる。
静寂。
少女が振り返る。
琥珀色の瞳が、真っ直ぐ朔臣を捉えた。
「何をした?」
朔臣は歩み寄る。
「助けた」
「助けなんて頼んでない」
「知ってる」
「じゃあ、なんで?」
「お前が攻撃を受けそうだったから」
少女は疑うように朔臣を見る。
「まだ戦える」
「戦えないとは言ってない」
ヴァエリスが近づいてくる。
「子供たちに怪我は?」
少女はまだ朔臣を見ていた。
「ない」
「本当に?」
「ないと言った」
声は強かった。
ヴァエリスは気にした様子もなく、ただ頷いた。
「分かりました」
朔臣は地面に倒れている魔物を見る。
「他には?」
少女が周囲を見回す。
「さっきまで5体いた」
「5体?」
「3体は私が倒した。1体は森の方へ逃げた。残ったのがこいつ」
朔臣は頷いた。
「外から追ってきたのか?」
「丘の方から来た」
「どうしてお前が戦った?」
少女は鼻を鳴らす。
「私が戦わなかったら、あの子たちが襲われるから」
彼女は村の家々を指差した。
「子供たちには戦えない」
朔臣は何も答えなかった。
あまりにも単純な答えだった。
演説もない。
複雑な理由もない。
ただ――。
背後に子供たちがいるから、ここに立っている。
ヴァエリスも少女をしばらく見つめていた。
「名前は?」
少女は少しだけ迷ってから答えた。
「ドラエヴラ」
そして朔臣を見る。
「ドラエヴラ・コルーン」
朔臣は頷く。
「朔臣」
ドラエヴラが眉を寄せる。
「それだけ?」
「ああ」
「変な名前」
「よく言われる」
ヴァエリスが口元を隠した。
小さな笑みが漏れる。
ドラエヴラが彼女を見る。
「なんで笑った?」
「笑っていません」
「明らかに笑っただろ」
ヴァエリスは平然と答える。
「何でもありません」
「……変な奴」
朔臣は、思わず笑いそうになった。
この少女は、これまで出会った2人とはまったく違う。
セヴレインは、話す前によく観察する。
ゴーレルは、言葉を慎重に選ぶ。
だがドラエヴラは――。
頭に浮かんだことを、そのまま口にする。
余計な飾りがない。
余計な計算もない。
その代わり、自分自身が痛みを訴えるより先に身体が動く。
朔臣は彼女の腕を見る。
「怪我してる」
ドラエヴラが自分の腕を見る。
「これ?」
「ああ」
「ただのかすり傷だ」
「それでも怪我だ」
「放っておけば治る」
朔臣が近づく。
ドラエヴラはすぐに武器を構えた。
「近づくな」
朔臣は足を止める。
「治療する」
「……何?」
「その傷を」
ドラエヴラは疑わしそうに彼を見る。
「治せるのか?」
「ああ」
「なんで?」
「放っておく必要がないからだ」
ドラエヴラはまだ警戒している。
ヴァエリスが静かに口を開いた。
「彼は、本当に治せます」
ドラエヴラがヴァエリスを見る。
「お前は?」
「ヴァエリス」
「こいつと一緒なのか?」
ヴァエリスは朔臣を見る。
「はい」
ドラエヴラは2人を交互に見る。
「恋人?」
朔臣は思わずむせた。
「違う」
ヴァエリスは黙った。
1秒。
2秒。
「……違います」
返事が少し遅れた。
ドラエヴラは頷く。
「そうか」
それ以上、何も言わない。
朔臣は手を伸ばす。
「傷を見せてくれるか?」
ドラエヴラは彼の手を見る。
やがて、武器を下ろした。
「早くしろ」
朔臣が傷に触れる。
魔力が流れ込む。
ドラエヴラの腕の傷が、ゆっくりと塞がっていく。
狼獣人の少女が固まった。
「……」
自分の腕を見る。
開いていた傷は消えている。
血もない。
薄い痕跡すら、すぐに消えていった。
「お前……」
ドラエヴラが顔を上げる。
「一体、何者なんだ?」
朔臣は肩をすくめる。
「通りすがりの人間」
「通りすがりの人間は、こんなことしない」
「じゃあ、こんなことができる通りすがりの人間だ」
ドラエヴラは長い間、朔臣を見つめた。
隣では、ヴァエリスが顔を背けている。
今度は、本当に笑っていた。
「笑うな!」
ドラエヴラが彼女を指差す。
「笑ってません」
「笑ってる!」
「少しだけです」
「ほら!」
朔臣も、ついに笑った。
さっきまで張り詰めていた空気が、少しだけ和らぐ。
そのとき、遠くから家の扉が開く音がした。
何人かの村人が外へ出てくる。
1人の老人が、こちらへ近づいてきた。
「ドラエヴラ!」
「もう終わった」
「怪我は?」
「大したことない」
老人は朔臣とヴァエリスを見る。
「彼らは?」
ドラエヴラが答える。
「外から来た人」
朔臣が彼女を見る。
「かなり正確な説明だな」
ドラエヴラは無視した。
老人は地面に倒れている魔物を見る。
「村を助けてくれたのか?」
朔臣は首を横に振る。
「戦ったのは彼女です。俺は少し手を貸しただけです」
ドラエヴラが朔臣を見る。
まさか、そんなふうに言うとは思っていなかったようだった。
老人は小さく頭を下げた。
「それでも、ありがとう」
「気にしないでください」
村人たちは周囲の確認を始めた。
先ほどまで隠れていた子供たちも、少しずつ家から出てくる。
1人の少年がドラエヴラへ駆け寄った。
「ドラエヴラ姉ちゃん、また勝った!」
ドラエヴラは少年の頭を軽く撫でる。
「今回は、危なかったけどな」
「でも勝った」
「ああ」
少年が笑う。
ドラエヴラも、ようやく笑った。
朔臣はその表情を見る。
子供たちと話すとき、少女の表情は完全に変わっていた。
戦っているときは鋭い。
話し方は簡潔。
だが、子供たちに対しては優しい。
ヴァエリスが朔臣の隣に立つ。
「何か考えていますね」
「ああ」
「ドラエヴラのこと?」
「ああ」
「彼女の能力を見ている?」
朔臣は頷いた。
「戦闘能力は高い」
ヴァエリスはドラエヴラを見る。
「それだけではありません。自分のことを考える前に、あの子たちを守った」
「そこが、もっと気になる」
ヴァエリスは何も言わなかった。
朔臣も、すぐにはドラエヴラへ近づかなかった。
まだだ。
初対面が、必ずしもそのまま一緒に旅をするきっかけになる必要はない。
まず、その人間を知るだけでもいい。
遠くでは、ドラエヴラが村人たちと一緒に魔物の死骸を道から運んでいた。
そこへ子供の1人が走ってくる。
「ドラエヴラ姉ちゃん、次の魔物はいつ来る?」
「期待するな!」
「でも、面白い」
「お前が追いかけられる側になったら面白くない!」
子供が笑う。
ドラエヴラが文句を言う。
朔臣は笑った。
「行こう」
ヴァエリスが振り向く。
「もう行くんですか?」
「いや」
朔臣は村を見る。
「今日はここに泊まる」
「ここに?」
「ああ。泊めてもらえるならな」
ヴァエリスは、その意図を理解した。
カルナへの旅は、まだ終わっていない。
だが2人は、壊れた道よりもはっきりした問題を抱える場所へ辿り着いた。
そしてその日、朔臣は初めて、次にどれだけ歩けばいいのかよりも――。
村の中央に立っている狼獣人の少女について考えていた。
ドラエヴラ・コルーン。
誰かに命じられたわけでもない。
誰かに頼まれたわけでもない。
ただ子供たちが背後にいたから、魔物の前に立った少女。
朔臣は、もう一度彼女を見る。
「明日、彼女が何をできるのか見てみよう」
ヴァエリスは頷いた。
「分かりました」
太陽が、木々の向こうへ沈み始める。
カルナへ続く道は、まだその先にある。
だが、その日の旅は予定になかった場所で止まった。
そして――。
もしかすると、そこからまた1人。
彼らの物語へ加わる人間が現れるのかもしれない。
【次回予告】
第18話「4つの才能」
朔臣、ヴァエリス、セヴレイン、ゴーレル。
4人を繋ぐ糸が、少しずつ形を持ち始めていた。
そして、ドラエヴラとの出会いが新たな可能性を開く。
カルナから、さらにグレイモスの森へ向かう旅。
初めて、異なる才能を持つ者たちが1つの旅の中で試される。
そして、それぞれの能力が少しずつ噛み合い始める。
【第18話へ続く――】




