第14話「2人目の影」
第14話「2人目の影」
ヴァルケイルの森は、いつの間にか2人の背後へ遠ざかっていた。
それまで空を覆っていた木々は次第にまばらになり、湿った地面は硬い土の道へと変わっていく。
馬車の車輪が通った跡も、はっきりと見えるようになっていた。
そして、森の中で聞こえていた虫や鳥の声に代わり、外の世界から届く人々の営みが、少しずつ耳へ入ってくる。
朔臣は、いつも通りのんびり歩いていた。
その隣では、ヴァエリスが必要最低限の荷物を入れた小さな鞄を持っている。
今朝、野営地を出てからというもの。
ハイエルフの少女は、何度か何かを言いたそうにしていた。
しかし、そのたびに口を閉じている。
朔臣は気づいていた。
だが、あえて聞かなかった。
やがて、ヴァエリス自身が口を開く。
「……朔臣。」
「ん?」
「私たちは、ラインドルフへ戻るのよね?」
「ああ。」
「その後は?」
「ダルセン。」
ヴァエリスが少し眉を寄せる。
「河港のこと?」
「そうらしい。俺はまだ行ったことがないけどな。」
「行ったことがないの?」
「ない。」
「でも、道は分かるのね。」
朔臣は肩をすくめた。
「地図。」
短い答え。
ヴァエリスは数秒間、彼を見つめる。
「……本当に変な人ね。」
「もう何度も聞いている。」
「馬鹿にしているわけじゃないわ。」
「俺も気にしていない。」
ヴァエリスは黙った。
そして、無意識に口元を少し緩める。
2人の旅は、そのまま続いていった。
だが、森の境界から数百メートルほど離れたところで、朔臣が立ち止まった。
前方の道を見る。
空いている。
馬車はいない。
商人もいない。
歩いている人影もない。
ただ、ラインドルフへ向かって平地を横切る長い道だけが続いている。
朔臣は後ろを見る。
ヴァエリスも足を止めた。
「どうしたの?」
「少し移動を速める。」
「魔法で?」
「違う。」
朔臣は、アイテムボックスへの接続を開いた。
目立つ光はない。
巨大な魔法陣もない。
ただ、目の前の空間に小さな変化が起きる。
そして――
何か大きなものが現れた。
白い車体。
4つの車輪。
ガラス。
高いボディ。
馬車とはまったく異なるデザイン。
ヴァエリスは固まった。
視線が、車体の前方から車輪へ。
そしてガラスへ。
最後にドアへと移っていく。
数秒。
「…………」
朔臣は運転席のドアを開けた。
「乗れ。」
ヴァエリスは動かなかった。
「……何、それ?」
「車。」
「車?」
「地球の乗り物だ。」
「地球?」
朔臣は一瞬、言葉を止めた。
そこで初めて、自分がまだ話していない部分があることに気づく。
「俺のいた場所の乗り物だと思ってくれ。」
ヴァエリスは、もう一度その車を見る。
「馬がいない。」
「ああ。」
「動力用のルーンも見えない。」
「必要ない。」
「魔力結晶もない。」
「それも必要ない。」
ヴァエリスの表情が、さらに真剣になる。
「なら、何が動かしているの?」
朔臣は助手席側のドアを開ける。
「エンジン。」
「……エンジンって何?」
「立ったまま説明するのは難しい。まず座れ。」
ヴァエリスは、まだ動かない。
朔臣はいつもの調子で付け加えた。
「安心しろ。食われたりはしない。」
「食べられる心配はしていないわ。」
「それならいい。」
「ただ、爆発するものの上に座らされないか確認しているの。」
「それは、かなりまともな質問だな。」
ヴァエリスが朔臣を見る。
「それで?」
「安全だ。」
「本当に?」
「安全じゃなかったら、乗れなんて言わない。」
その答えを聞いて、ヴァエリスはようやく車へ近づいた。
そして助手席へ座る。
ドアが閉まる。
ヴァエリスはすぐに車内を見回した。
木の板はない。
木製の車輪もない。
手綱もない。
何もかもが、あまりにも滑らかだった。
彼女は指先で座席の表面に触れる。
「……柔らかい。」
「そういうものだ。」
「貴族用?」
「誰でも使える。」
ヴァエリスが振り向く。
「誰でも?」
「俺の世界ではな。」
ヴァエリスは再び黙った。
その言葉の中に、何か考えさせられるものがあったらしい。
朔臣はシートベルトを装着する。
ヴァエリスが、その動きを見る。
「それは?」
「シートベルト。」
「何のため?」
「事故が起きたとき、身体が投げ出されないようにする。」
ヴァエリスはすぐに自分もシートベルトを装着した。
「……この乗り物に馬が必要ない理由が、少し分かってきたわ。」
「結論は?」
「馬よりずっと危険。」
朔臣は短く笑った。
「そういう考え方もあるな。」
エンジンを始動する。
低い音が車内を満たした。
ヴァエリスは反射的に身体を強張らせる。
視線が、すぐに前方の計器へ向いた。
「……」
「落ち着け。」
「落ち着いているわ。」
「手が座席を掴んでいる。」
ヴァエリスはゆっくりと手を離した。
「バランスを確認していただけよ。」
「そうか。」
「笑わないで。」
「笑ってない。」
車が動き出す。
森の道を離れ、車が走り始める。
最初はゆっくり。
そして、徐々に速度が上がっていく。
ヴァエリスは前方を見つめた。
景色が、歩いていたときとは比べものにならない速さで流れていく。
道の両側にある草や木々が、まるで後ろへ滑っていくようだった。
風が顔に当たることはない。
馬の足音もない。
木製の車輪が道を叩く音もない。
聞こえるのはエンジンの低い音と、タイヤが地面に触れる音だけ。
やがてヴァエリスが口を開く。
「……どれくらい速いの?」
「それなりに。」
「それじゃ分からないわ。」
「あと5キロくらい進んだら止める。」
「どうして?」
「人通りが多い場所に近づきすぎると、誰かに見られる。」
ヴァエリスが振り向く。
「それが問題なの?」
「ああ。」
「この車が?」
「異常すぎるからな。」
ヴァエリスは、しばらく朔臣を見つめる。
「あなた、自分のすることが全部変だって分かっているのね?」
「大部分はな。」
「それでも平然としている。」
「ずっと考えていたら疲れる。」
ヴァエリスはため息をついた。
「……あなたの考え方が、少しだけ分かってきた気がするわ。」
車はそのまま走り続ける。
5キロ。
朔臣は車の速度を落とした。
そして道の脇に、十分に人目の少ない場所を探す。
誰も近づいてこないことを確認してから、車を止めた。
ヴァエリスが朔臣を見る。
「終わり?」
「とりあえずな。」
朔臣が車から降りる。
ヴァエリスも続いて降りた。
そして――
車が消えた。
走り去ったのではない。
遠ざかったわけでもない。
本当に、アイテムボックスの中へ消えた。
ヴァエリスは、その場に立ち尽くす。
「……」
何もなくなった目の前を見つめる。
「あなたが空間魔法を使えることは知っているわ。」
「ん。」
「それでも、実際に見るとやっぱり変ね。」
「アイテムボックスだ。」
「それもあなたの能力?」
「システムの機能の1つだ。」
ヴァエリスは、ゆっくりとうなずいた。
それ以上は聞かなかった。
少なくとも、今は。
2人は再びラインドルフへ向かって歩き始めた。
昼前になる頃、ラインドルフが見えてきた。
街は、朔臣が初めて訪れたときよりもずっと賑わっている。
荷馬車が出入りしている。
商人たちが声を張り上げて商品を売っている。
馬が荷車を引きながら大通りを進んでいく。
いくつかの場所では、係員が積荷を確認している。
朔臣は急ぐことなく歩く。
ヴァエリスも、その隣を歩いている。
しかし今回は、ヴァエリスの視線は街だけに向いていなかった。
人々を見ている。
話し方。
商人が客を呼ぶ方法。
荷物を運ぶ者が警備員と交渉する姿。
何人かの人間が、小さな板に何かを書き込んでいる様子。
「ラインドルフって、賑やかなのね。」
「交易都市だからな。」
「あなた、ここで商品を売ったことがあるの?」
「少しだけ。」
「少し?」
「地球の品をいくつか売った。」
ヴァエリスが振り向く。
「塩とか?」
「塩、コーヒー、食料、布。小さなものだけだ。」
「誰も怪しまなかった?」
「怪しんだ人はいた。」
「それで?」
「だから、少しだけだ。」
ヴァエリスはうなずく。
納得したようだった。
2人は交易地区を通り抜ける。
朔臣は何かを買うために立ち止まらない。
ただ観察する。
荷車の数。
商品の種類。
移動している方向。
配達人らしき者たち。
道沿いに並ぶ大きな倉庫。
以前なら見過ごしていたかもしれない、小さな情報まで。
ヴァエリスは、朔臣の表情の変化に気づいた。
「何か数えているの?」
「無意識にな。」
「でも、全部見ている。」
「仕事の癖だ。」
「元の世界では何をしていたの?」
「技術者だ。」
「技術者?」
「機械が動き続けるようにする仕事だ。壊れたら直す。問題があれば調べる。」
ヴァエリスは黙った。
「だから、いつも機能という面から物を見るのね。」
朔臣が彼女を見る。
「たぶんな。」
「見た目じゃなくて?」
「見た目も大事だ。」
「あなたは、あまり気にしていないように見えるけど。」
「物が粗悪なら気にする。」
ヴァエリスは小さく笑った。
「本当に変な答えね。」
2人は交易地区を抜ける。
その先には、ダルセンへ向かう道が続いていた。
ここから先は、もう森ではない。
道はさらに人通りが多くなる。
河港へ近づくほど、出会う荷馬車の数も増えていった。
木箱を積んだもの。
袋を大量に載せたもの。
側面に商人の紋章が描かれた、幌付きの荷馬車もある。
朔臣は、それらすべてを眺めていた。
ダルセンという場所が、到着する前から違う街だと感じられてくる。
やがて、午後。
河港が姿を現した。
朔臣は少し高くなった道の上で足を止める。
眼下では、大きな川が街を横切っていた。
船が流れに沿ってゆっくり進んでいる。
岸壁には係留用の綱が並ぶ。
作業員たちが木箱を運んでいる。
商人が声を張り上げている。
誰かが積荷の番号を叫ぶ。
「11番の箱! 船を間違えるなよ!」
「分かってる!」
「昨日もそう言ってただろ!」
「昨日は俺じゃない!」
小さな口論の声が、水の音や荷車の音と混ざっていく。
ヴァエリスが周囲を見渡した。
「ここがダルセン。」
「ああ。」
「ラインドルフより賑やかね。」
「そうみたいだな。」
朔臣は港湾地区へ向かって歩き始める。
2人は倉庫の並ぶ通りを進んでいく。
積荷を記録している人間。
箱の数を数えている人間。
秤を監視している人間。
そして書類を持って立っているだけの人間。
朔臣が一度、足を止める。
「面白いな。」
「何が?」
「もう仕組みができている。」
「仕組み?」
「魔法の仕組みじゃない。仕事の仕組みだ。」
ヴァエリスも、朔臣の見ている方向を見る。
「働き方を見ているの?」
「ああ。」
「どうして?」
朔臣は、川へ視線を向けたまま答える。
「物は勝手には動かないからな。」
ヴァエリスが彼を見る。
「……どういう意味?」
「いつか大きなものを作ろうとするなら、建物そのものが一番難しいわけじゃない。」
朔臣は川の方向を指す。
「難しいのは、全部を動かし続けることだ。」
「全部?」
「物。食料。金。人。そして情報。」
ヴァエリスは黙った。
その言葉には確かな理屈があった。
だが、朔臣自身もまだ知らない。
このとき考えていたことが、数年後にはもっと大きなものへ繋がっていくことを。
今はただ、15歳の少年が河港へ向かって歩いているだけだ。
何かを築くためにダルセンへ来たわけではない。
2人が探しているのは、ただ1人の少女だった。
その名前は――
「セヴレイン・オルリッセ。」
港近くの出版社の建物に設置された、小さな掲示板。
そこに、その名前が書かれていた。
ヴァエリスが隣に立つ。
「探していたの?」
「ああ。」
「どうして?」
「ここで働いている文筆家がいると聞いた。」
「文筆家?」
「それと、出版所の手伝いもしているらしい。」
ヴァエリスは建物を見る。
「あなたと何の関係があるの?」
「まだ分からない。」
「……関係も分からないのに、人を探しているの?」
「そういうこともある。」
ヴァエリスはため息をつく。
「少し慣れてきたわ。」
2人は建物の中へ入った。
正面の区画は、それほど大きくない。
壁には紙や本が並んでいる。
何人かの人間が、俯いて作業していた。
年配の男が原稿を確認している。
若い男は、胸の高さまで積み上げた紙の束を運んでいる。
そして、部屋の隅。
1人のエルフの少女が、机に向かって文章を書いていた。
灰金色の髪が、顔の周囲へ整然と落ちている。
瞳は青灰色。
柔らかな印象の顔立ち。
その手元には、小さなノートが置かれている。
少女は素早く文字を書いていた。
焦っているわけではない。
正確なのだ。
やがて、少女は手を止める。
1ページを読み返す。
そして別の紙を手に取る。
「この文章、長すぎる……。」
一部分を線で消す。
「読者が3回も読み直さないと理解できないなら、悪いのは読者じゃなくて書き手。」
隣の編集担当らしき男が、少女を見る。
「有名な作家にも同じことを言うのか?」
「編集を頼まれているなら、言います。」
「怒られたら?」
「編集者を必要としていないということでしょう。」
男は笑った。
「君は相変わらず正直すぎるな。」
「あなたは相変わらず顧客を失うのを怖がりすぎです。」
「……セヴレイン。」
「はい?」
「間違っているとは言ってない。」
「分かっています。」
朔臣は薄く笑った。
ヴァエリスが横目で彼を見る。
「何か見つけた?」
「たぶんな。」
2人が近づく。
セヴレインが顔を上げた。
視線が朔臣で止まる。
次にヴァエリスを見る。
すぐには挨拶しない。
彼女の視線が、素早く動く。
服。
靴。
鞄。
仕草。
そして、再び朔臣の顔へ。
「あなたたち、客じゃない。」
朔臣が立ち止まる。
「どうして分かる?」
「普通の客なら、まず本を見る。あなたは部屋を見ている。」
朔臣が少しだけ周囲を見る。
「そうか?」
「それに、あなたの隣の女性は商品じゃなくて、人を見ている。」
ヴァエリスがわずかに眉を上げた。
セヴレインはノートを閉じる。
「誰かを探しているの?」
朔臣が答える。
「セヴレイン・オルリッセ?」
少女が彼を見る。
「私よ。」
数秒間、誰も話さなかった。
朔臣は、彼女の手元にあるノートを見る。
「1つ聞いていいか?」
「答えられることなら。」
「読んだ本の内容を、どれくらい覚えている?」
セヴレインが瞬きをする。
奇妙な質問だった。
「本によるわ。」
「それなら、あれは?」
朔臣は棚にある1冊の本を指差す。
セヴレインが本を手に取る。
数ページを開いて読む。
そして閉じた。
「何を聞きたいの?」
朔臣はタイトルを告げる。
「3章。42ページには何が書いてある?」
ヴァエリスが朔臣を見る。
質問が細かすぎる。
セヴレインは本を開かなかった。
そのまま答える。
「2つの河川都市の間で結ばれた交易協定。ただし、作者が使った塩の積載量の例に間違いがある。30箱と書いてあるけど、最後の表では32箱になっている。」
朔臣は黙った。
「57ページは?」
「冬季の交易路について。川が凍るから、経路が変更されるという記録。」
「登場する商人の名前は?」
「ハヴェル・ルーン。ただし、彼は主要な商人ではない。北側の代理人よ。」
朔臣は本を手に取る。
指定されたページを開く。
正しい。
ヴァエリスも横から確認する。
その表情が変わった。
セヴレインは2人を見た。
「何か問題でも?」
「いや。」
朔臣は本を戻す。
「確認したかっただけだ。」
「何を?」
朔臣は、すぐには答えなかった。
セヴレインが首を傾げる。
「そういう目、知っているわ。」
「どういう目?」
「予想と違うものを見つけた人の目。」
朔臣は小さく笑った。
「君、本当に観察力があるな。」
「それは答えになっていない。」
「その通りだ。」
セヴレインは薄く笑った。
怒ってはいない。
むしろ興味を持っている。
「あなたは誰?」
「朔臣。」
「姓は?」
朔臣は一瞬だけ止まる。
「榊原。」
セヴレインは、その名前をゆっくりと繰り返す。
「榊原朔臣……。」
彼女は、その名前を記憶する。
名前だけではない。
発音。
声の調子。
服装。
態度。
そして、その隣に誰が立っていたのかまで。
朔臣は、それに気づいた。
そして初めて感じた。
目の前の少女は、これまで出会ってきた人間とは何かが違う。
戦闘能力ではない。
魔法でもない。
情報だ。
セヴレインは、普通なら見落とすような細部まで、努力しているように見えないまま記憶している。
「いつもノートを持っているのか?」
「ほとんどね。」
「書くために?」
「自分の考えと記憶が混ざらないようにするため。」
「それだけ記憶しているのに?」
「全部ではないわ。」
セヴレインは微笑んだ。
「ただ、普通の人が忘れるようなことまで覚えてしまうだけ。」
ヴァエリスが彼女を見る。
「それって、疲れない?」
セヴレインはヴァエリスを見る。
「時々。」
答えは簡単だった。
大げさでもない。
だからこそ、正直に聞こえた。
朔臣が再び尋ねる。
「10ページ分の情報を渡して、覚えてほしいと言ったら?」
「できる。」
「100ページ。」
「できる。」
「1000ページ。」
セヴレインは少し黙った。
「読む時間をもらえるなら、できる。」
「その情報が変わったら?」
「変わったことも覚える。」
朔臣は笑った。
頭の中に、1つの言葉が浮かぶ。
――情報能力。
セヴレインが優れているのは、本を読むことだけではない。
記憶力だけでもない。
情報同士の関係。
間違い。
人物。
変化。
そうしたものを見ている。
その能力は、鋭い剣よりも価値を持つことがある。
朔臣は尋ねた。
「セヴレイン。もし、自分が本当にやりたい仕事を選べるなら、何をしたい?」
セヴレインは少し驚いた顔をした。
「どうしてそんなことを聞くの?」
「普通の質問だ。」
「ここでは、そんなことを聞く人はいないわ。」
セヴレインは少し俯いた。
「私は、書きたい。」
「本を?」
「本。記録。歴史。旅の記録。何でもいい。」
彼女はノートを少し強く握る。
「1人しか知らないことなら、その人が死んだときに情報も死んでしまう。それが嫌なの。」
朔臣は彼女を見る。
今度は笑わなかった。
その意味を理解した。
「……なるほど。」
セヴレインが彼を見る。
「あなた、本当に変な人ね。」
「どうして全員そう言うんだ?」
横からヴァエリスが答える。
「実際、そうだからよ。」
朔臣がヴァエリスを見る。
「君まで言うようになったのか?」
「事実を言っただけ。」
セヴレインが小さく笑った。
初めて、3人の間の空気が少しだけ軽くなった。
やがて夕方が近づく。
朔臣とヴァエリスは出版社の建物を出た。
セヴレインは中に残った。
まだ彼女を連れて行くとは言っていない。
まだだ。
約束もない。
誓いもない。
組織もない。
ただの出会い。
それだけだった。
それでも朔臣には分かっていた。
この出会いは重要だ。
ヴァエリスが隣を歩く。
「あなた、あの子に興味を持ったでしょう。」
「ああ。」
答えが早すぎた。
ヴァエリスが振り向く。
「どういう意味で?」
「能力のある人間として。」
「それだけ?」
朔臣は少し考える。
「今のところはな。」
ヴァエリスはうなずいた。
それ以上は聞かなかった。
数歩進んだところで、彼女が言う。
「彼女は、私とは違うわ。」
「明らかにな。」
「でも、あなたは同じものを見つけた。」
朔臣は前方の道を見る。
「そうかもしれない。」
「何?」
朔臣は足を止める。
そして出版社の建物を振り返った。
「見つけるのが難しいものを持っている。」
「力?」
「違う。」
「じゃあ、何?」
朔臣は静かに答える。
「他の人が見落とすものを見る力だ。」
ヴァエリスは黙った。
朔臣は、再び歩き始める。
一方、出版社の中。
セヴレインはまだ机の前に座っていた。
ノートを開く。
そこへ1行を書く。
榊原朔臣。
その下に、いくつかの小さな記録。
そして手を止める。
その名前を見つめる。
なぜか、さっきの短い出会いが忘れにくいものに感じられた。
外では、朔臣とヴァエリスが建物から遠ざかっていく。
2人は、まだ知らない。
この先に何が待っているのか。
だが、河港の街で交わした何気ない出会いは、2人の旅に新たな可能性を1つ加えた。
剣でもない。
魔法でもない。
富でもない。
世界が忘れていくものを、記憶することができる人間。
そして朔臣にとって、その能力は――
見た目以上の価値を持つかもしれなかった。
【次回予告】
第15話「商人の街」
朔臣とヴァエリスは、ダルセンについてさらに詳しく知ることになる。
商人ギルド。
銀行。
隊商の交易路。
倉庫。
そして河川航路。
それらを見ていく中で、朔臣は交易が単純な「買う」と「売る」だけではないことを理解していく。
物が、どこからどこへ動くのか。
金が、どのように流れるのか。
そして情報が、どのように人から人へ渡っていくのか。
世界が物を動かす仕組みを知るほど、朔臣の中で1つの考えが明確になっていく。
何かを大きく築くということは――
まず、世界がどのように物と金と情報を動かしているのかを理解することから始まる。
【第15話へ続く……】




