第99話 そよ風に揺れた、あの日の光
その日の夕刻。
森の研究所の外では、森が静かに息をしていた。
風が木々を揺らすたび、葉のこすれる音がかすかに部屋へ届く。
虫の声が遠くで細く鳴き、世界がゆっくりと沈んでいく。
リファーナさんは窓辺で本を読んでいた。
夕日の光が横顔を淡く照らし、そよ風がページをやさしく揺らす。
どこか懐かしい。
以前、同じ光景を見た気がする――
たしか、あの日。
学院のダンジョン実習で瀕死の重傷を負った僕を、死の淵から救い上げてくれた“優しい光”。
いま目の前にある横顔は、あの時にかすかに見えた光と同じ……
そんな気がした。
静かな部屋に、紙をめくる音だけが響いていた。
僕は、お世話になったリファーナさんにどうしても何かお礼をしたかった。
リファーナさんはいつも本を読んでいる。
だから、これがいいと思った。
不器用だけど、魔工科での“ものづくり”には慣れている。
心をこめて、何度も削って、磨いて、編んで、ようやく形になった。
深呼吸をひとつして、僕はリファーナさんのそばに歩み寄った。
「リファーナさん……」
リファーナさんが顔を上げる。優しい目だった。
「どうしたの……」
僕は、照れくさくて少しだけ視線をそらしながら、それを差し出した。
"白木のしおり"が、灯火を吸いこんだみたいに淡く白く光り、緑の糸は、そよ風に触れた草のようにやわらかく揺れた。
「もうすぐお別れで。何もお礼できないんだけど……これ作りました。リファーナさんは、とても頭がよくて、本がいっぱいあるから……本のしおり、あったらいいかなって……」
言い終えた瞬間、顔が熱くなるのが分かった。
「……ありがとう、ロキ。とてもうれしい」
その声は、柔らかい響きだった。
リファーナさんはしおりをそっと受け取り、大切そうに胸に抱きしめた。
「……この糸、とてもいい色ね。」
リファーナさんの指先が、しおりの緑の糸をそっと撫でる。
僕は照れくさくて、でもどこか誇らしくて、小さくうなずいた。
あたりは薄暗く、夕暮れが静かに夜へと溶けていく。
――――
僕とリファーナさんは窓辺で外の星空を見上げた。
星々は静かに瞬き、帝都の喧騒は遠く、まるで世界が二人のためにだけ静まっているようだった。
僕はリファーナさんの隣に座り、しばらく黙っていた。
「二千年後の未来の星空も……このように綺麗なのかしら」
リファーナさんの声は、夜気に溶けるように柔らかかった。
「……はい。でも、今見てる星空の方が……なんだか、あったかいです」
リファーナさんは静かに微笑んだ。
その横顔は、灯火と星明かりが重なって淡く輝いている。
「……リファーナさん。ぼく、リファーナんさんに会えて……よかったです」
リファーナさんの横顔は、夜空の向こう、遠くの世界を見ているようだった。
「あなたが来てくれて、救われたのは私の方よ」
リファーナさんは続けた。
「……私は、不安だったの」
その声は、いつもの大賢者のそれではなく、どこか頼りなく、かすかに震えていた。
「ローディンがいなくなってしまって……私の研究が、本当に正しいのか。未来に残せるのか。ただの自己満足で終わってしまうんじゃないかって」
リファーナさんはそっと胸に手を当てた。
「でも、あなたが来てくれたことで、ローディンの死も、自分の研究も……無駄ではなかったと知ることができたわ」
その言葉は、二千年分の重さが静かにほどけていくようだった。
「……なによりね。ローディンが残してくれた、私の宝物。それが未来でも息づいてくれた。」
リファーナさんが、そっと自分のお腹に手を添える。
その仕草は、二千年の時を越えてなお残る“命の記憶”を確かめるようだった。
「そして、その宝物を愛してくれて、守ると言ってくれたあなたが来てくれた。……私は、本当に嬉しい」
リファーナさんは少しだけ僕の方を見た。
その瞳は、どこか寂しげで、どこか誇らしげで、ほんの少しだけ優しく揺れていた。
「私の魔法を断ったあなたは、魔法世界にも、幼馴染にも……もう引け目を感じる必要はないわ」
リファーナさんは腰に両手を当て、どこか誇らしげに胸を張った。
「……だって、かつて私の魔法を防いだ魔導士なんていないわよ」
その仕草が、いつもの凛とした大賢者らしくなくて、どこか無邪気で――なんだか、かわいかった。
僕は思わず目を瞬いた。
あのリファーナさんが、こんなふうに自慢げになるなんて。
灯火が揺れ、窓辺の影がふたりの間に静かに伸びる。
リファーナさんは、夜空を見たまま、そっと僕の肩に手を置いた。
「……明日、アスピア皇国に向かいましょう。そして、古代の記憶が今も息づくあの地で、あなたは自分の世界に帰ることになるわ。」
その手は温かかった。
けれど、その温もりに触れた瞬間、胸の奥にひどい寂しさが広がった。
その温かさが遠ざかってしまうことを、先に知らされるようで。
僕は言葉を発さなかった。
リファーナさんは、何も言わず、ただ僕を引き寄せてくれた……
ずっと一緒にいてほしい……
それが正直な僕の気持ちだった。
けれど、それは叶わないことだと分かっている。
――だから、今だけは甘えたかった。
夜風が二人の間を通り抜け、星々が静かに瞬いた。
リファーナさんは、寄りかかる僕を横目に、ほんの少しだけ目を閉じた。
その表情は、どこか安堵していて、どこか寂しげだった。
僕は胸の奥で決意した。
「僕は、アミリアのことを絶対に守ります。ローディンさんとリファーナさんの宝物……命に代えても守ります。」
僕の決意に、リファーナさんの瞳がふっと揺れ、一筋の涙が頬を伝った。
その涙は、灯火に照らされて淡く光り、二千年の時を越えて、ようやく報われた想いの証のようだった。
窓の外では星々が静かに瞬き、夜風がふたりの間をそっと通り抜けていった。
――――




