第95話 魔導学院と魔工科の礎
それから、ひと月後。
僕はリファーナさんと一緒に、帝国軍の庁舎へ向かっていた。
飛竜がゆっくりと高度を下げる。
翼が空気を切り裂くたび、低い振動が鞍ごしに伝わってくる。
眼下に広がる帝都の中心、そのさらに奥に、巨大な影がそびえていた。
帝国軍庁舎。近づくほどに、その規模の大きさに驚かされる。
白色の石材で組まれた外壁は、陽光を受けて鈍く光り、
高くそびえる監視塔では、兵たちが周囲を鋭く見渡している。
戦争が終わって間もない帝都では、まだ誰も完全には気を緩められないのだろう。
まるで“帝国の意志”そのものが形になったような、圧倒的な存在感があった。
飛竜が着陸場へ降り立つ。
地面がわずかに震え、巻き上がった風が僕のマントを大きく揺らした。
守衛たちは、リファーナさんの姿を認めると、一瞬だけ姿勢を正した。
だが次の瞬間には、何事もなかったかのように気さくな声で話しかけてきた。
「リファーナ、ひさしぶりだな。向こうの研究室に、ずいぶんこもっているようだな」
リファーナさんは、特に何も言わず、軽く手を振ってその横を通り過ぎる。
そのやり取りには、長い時間をともにした者同士の、静かな信頼が滲んでいた。
庁舎の中庭を抜け、奥の棟へ向かう。
白い石畳の上を歩くたび、帝国軍の建物特有の冷たい空気が足元から立ちのぼる。
やがて、重厚な扉の前でリファーナさんが立ち止まった。
「ここが私の職場よ」
扉が開くと、そこには魔道具、古い書籍、薬品瓶、そして複雑な魔法陣の設計図が所狭しと並んでいた。
紙の匂いと薬品の匂いが混ざり合い、どこか懐かしいような、落ち着く空気が漂っている。
帝国軍の研究室――リファーナさんのもうひとつの顔が息づく場所だった。
窓の外には、戦士用の修練場が見えた。
今は誰もいない。
僕の視線に気づくと、リファーナさんは静かに言った。
「前はね、戦士たちがいたの。声が大きくて、ガサツで……研究の邪魔ばかりされたわ」
ふっと微笑む。
けれど、その笑みはどこか寂しげだった。
「でも……みんな、気のいい人ばかりだったの」
リファーナさんの視線が、誰もいない修練場に落ちる。
「魔道大戦で、戦線に出た多くの戦士が命を落としたわ。
戦士部隊は壊滅。今では……戦士はほとんど残っていないの」
かつては賑やかだったであろう修練場に、今は風の音だけが通り抜ける。
その静けさが、失われたものの大きさを際立たせていた。
リファーナさんは、懐かしむように、そして少しだけ胸を痛めるように言った。
「ローディンとは……ここで出会ったの」
その声には、苦笑と後悔と、温かい記憶が混ざっていた。
「最初の彼は、臆病で弱虫で……私、ひどいことをいっぱい言ってしまったわ」
ばつが悪そうに目をそらす。
けれどその表情には、寂しさと、懐かしさと、深い愛情が同時に宿っていた。
「アスピア海戦で、エグザリア軍の攻撃を受けた……。
魔法封じを使う魔導士部隊と交戦して、私は窮地に追い込まれたの。死を覚悟したわ」
リファーナさんの声が、ほんの少し震えた。
「すごく恐ろしかった……けれど、ローディンが、身を挺して私をかばってくれたの」
その言葉には、今も消えない痛みが滲んでいた。
「彼は瀕死の重傷を負った。あの光景が今でも忘れられないわ」
リファーナさんは、ほんの一瞬だけ目を伏せ胸をそっと押さえた。
「エグザリア兵の剣が私に向かってきて……光る刃が目の前に迫ったとき、本当に恐ろしかったわ……」
その言葉に、僕の脳裏にも、あの時の光景がよぎった。
ジーク教の魔法封じによって、魔導師団の隊員が魔獣の爪に切り裂かれていった光景。
魔法が使えない魔導士の無力さを、僕も知っている。
リファーナさんは、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「私たち魔導士と異なり、戦士は目前で戦わなければならない。それは、とても恐ろしいことよ。
――だから前線の戦士の死亡率は、とても高い……」
少しだけ目を伏せる。
「そんな当たり前のことを、あの頃の私は分かっていなかった。
それなのに私はローディンに“意気地なし”なんて言ってしまった」
そして、静かに微笑む。
「自分が殺されそうになって、震えて……はじめてローディンの気持ちが分かったの」
言葉が、そっと落ちる。
「それがきっかけだったわ。あいつのことが気になって……。
気づいたときには、どうしようもないくらい好きになっていた」
照れくささと、深い愛しさと、そして失った痛みが混ざった表情だった。
その横顔は、“偉大な大賢者”ではなく、ただひとりの女性のものだった。
――庁舎の奥から、魔導士たちの訓練魔法の音が響いた。
爆ぜるような衝撃音と、魔力の揺らぎが空気を震わせる。
その音に、リファーナさんがふっと笑顔を見せた。
どこか懐かしさを含んだ、やわらかな笑みだった。
リファーナさんは机の上に並ぶ魔道具の部品へと手を伸ばす。
「ここでね、魔道具を作っていたの。あの時の恐怖で……
魔法を封じられても戦えるようにしないとって」
指先で部品を軽くつまみながら、少し照れたように続ける。
「失敗して、ローディンをふっとばしちゃったこともあるけど」
そう言って、くすっと笑った。
その笑いには、愛しさと、少しの後悔と、そして確かにあった“幸せな時間”の記憶が滲んでいた。
「僕は魔導学院の魔工科で……科といっても、クラスメイトは三人です。僕を入れて」
リファーナさんがふっと寂しそうな顔をした。
「古えの時代から、魔道具は立派な学問として研究されていたのよ。
魔工学――そう呼ばれているわ」
リファーナさんは、机の上の古い設計図にそっと触れる。
紙の端はすこし黄ばみ、何度も折り返された跡があった。
「古代の超文明を築いたのも魔工学。ガイアビナスや古代兵器は、その極致よ。
そしてローディンの剣も……私が使っている研究所の設備も、すべて魔工学の延長線上にあるの」
僕は思わず息をのんだ。
魔工が、そんなすごいものだったなんて想像もしていなかった。
「……僕のクラスメイトにも、ここを見せてあげたかったです」
ミール先生の笑顔。三人しかいなかった魔工科の教室。
あの狭い部屋で、みんなで机を囲んでいた日々が胸に浮かぶ。
僕がそう言うと、リファーナさんは静かに目を伏せた。
その仕草には、言葉にしない想いが滲んでいた。
――その時。
コンコン
部屋の扉を叩く音が響いた。
「どうぞ」
リファーナさんの澄んだ声が返る。
「ラズウェル様。お客様のお茶をお持ちしました」
入ってきたのは、10歳ほどの少年だった。
痩せてはいるが、背筋だけはまっすぐ伸びている。
粗末な帝国軍の制服が、“少年兵”として扱われていることを物語っていた。
「彼はエルド君よ。魔法兵団の少年科。こんな子まで戦争で招集されてしまって……」
エルド君は首を横に振り、少し照れたように、しかし誇らしげに言った。
「いえ。村の”貧しい出身”だった僕に、ラズウェル様が学問と魔法を教えてくださって……
僕は、本当にうれしいです」
その瞳は、まっすぐにリファーナさんを見つめていた。
尊敬と、憧れと、救われた者のまっすぐな感謝が宿っていた。
その言葉に、リファーナさんはそっと目を細めた。
静かに歩み寄り、ためらいのない動作で、エルド君の頭に手を置く。
「……あなたはよく頑張っているわ、エルド」
指先が、少年の乱れた髪を一度だけ優しく梳いた。
叱責でも、慰めでもない。
ただ、ひとりの子どもを“認める”ための、静かな仕草。
エルド君は驚いたように瞬きをし、次の瞬間、こらえきれないほど嬉しそうに頬を赤らめた。
エルド君は深く頭を下げ、静かに部屋を後にした。
残されたのは、少年の小さな足音が消えていった気配だけだった。
それは、まだ幼い彼の未来へと続く道の、最初の一歩のようにも思えた。
――ロキは気づかなかった。
魔導学院の入学式で学院長が語った名――“エルド”。
あの少年がリファーナを見上げた、幼いまなざしの意味を。
やがて戦争で衰退した帝国は滅び、新たにエルミナ共和国が生まれる。
大賢者リファーナ・ラズウェルに救われ、教えを受けた少年――エルド・ゴーレンス。
彼こそが、魔導師団と、その教育機関である魔導学院を創設する人物となる。
魔導学院で“落ちこぼれの集まり”と揶揄される魔工科が、なぜ廃止されず守られ続けてきたのか。
魔法が使えないロキのように、身分や出自に関わらず、努力さえあれば誰でも入学できる門戸がなぜ二千年もの間、開かれ続けてきたのか。
二千年後の未来では、学院の教師ですら、その理由を知らない。
エルドは、大賢者ラズウェルの使徒としてその思想を最も忠実に受け継ぎ、六賢者の始祖たる大魔導士として世界に名を轟かせ、エルミナ共和国の開国と安寧に大きく貢献する。
そして、リファーナを純粋に見つめたあの幼い想いが、二千年後のロキの居場所となる“魔工科”を静かに守り続ける、
そんな未来へとつながる糸になっていたことをロキは知らなかった。
――――




