第91話 逃げた剣聖の始祖
――短い飛行の後、
帝都から少し離れた、風の音だけが聞こえる閑静な土地へと降り立った。
そこは、かつて修道院だった場所らしい。
広い敷地の中央には、塀囲いされた古い木造の家屋が一棟。
本堂や回廊はすでに失われ、かつて修道士たちが暮らした“宿舎だけ”が静かに残っている。
手入れは行き届いており、どこか祈りの余韻を宿した佇まいだった。
囲いの向こうでは、数人の子供たちが走り回っている。
その笑い声が風に乗った瞬間、胸の奥がかすかに疼いた。
僕の世界の孤児院で聞いた夕暮れのざわめきが、ふと音だけで蘇る。
リファーナさんはその光景を見つめながら、ほんの少しだけ目を伏せた。
「彼らは……カイエン国の子供たち。エグザリア軍にさらわれ、ローディンが救い出した子たち。……皆親を殺され孤児になったの」
僕は、息を呑んだまま、しばらく言葉が出なかった。
胸の奥が、ゆっくりと沈んでいく。
子供たちの笑い声が、懐かしさと痛みのあいだで揺れ、
どこか自分の過去に触れられたように響いた。
その時――ギィ……
かすかな軋みが、静かな空気を揺らし、家の扉が、ゆっくりと開く。
「リファーナ様……」
男が現れた。
日焼けした肌に、粗布の作務衣のような簡素な衣。
鍛えられた体つきなのに、どこか影を背負ったような佇まいだった。
彼は膝をつき、主に礼を捧げるように深く頭を下げた。
リファーナさんは首を振る。
「そんなことしなくていいのよ」
男は、顔を伏せたまま、苦しげに言った。
「……いいえ……私はリファーナ様に顔を向けることはできません……到底、許されるはずがありません……」
リファーナさんは何も言わず、僕の方へ視線を向ける。
男の目が僕を捉え、腰の剣に気づいた。
その瞬間、男の表情がわずかに強張り、まるで息を忘れたように動きを止めた。
「……その剣は……お預かりしたものと……同じ……?」
男の声は、驚きが追いついていない。
「ええ。ローディンが最後まで手放さなかった、あの剣。そして……未来から来たこの子が託された剣よ」
男は震える手で僕の剣に触れようとした。
だが、刃先に指が届く直前で、その手が止まる。
まるで、自分には触れる資格がないとでも思っているかのように。
指先が宙で震え、男はゆっくりと手を引っ込めた。
リファーナさんは一歩近づき、静かに言う。
「もし、あなたの中に……後悔があるのなら」
その言葉が落ちると、空気がわずかに揺れた。
男の肩が、静かに沈む。
「ローディンの願いとしてこの子に、魔力を断ち切るカイエンの剣技――"理の剣"を教えてあげてほしい」
沈黙の中、風が、囲いの向こうの子供たちの声を運んでくる。
「剣聖の血を継ぎながら、何ひとつ応えられなかった私に、ローディン様は剣を教えてくださった。……それなのに……私は剣を捨てて逃げた男です。父の期待を裏切り……ローディン様を、仲間を置いて、ただ一人、生き延びた臆病者です。」
言葉を吐き出したあと、男は目を伏せたまま動かない。
その背に、後悔の重さが滲んでいた。
「私は……カイエンの誇りである剣すら手放して逃げた……生きる価値のない男です。」
リファーナさんは、男の目をまっすぐに見つめた。
その瞳には、静かな強さがあった。
「あなたは、光の女神に見捨てられたと思いながら、それでも毎日、礼拝堂で懺悔を捧げているのでしょう。街では、行き場のない子どもに食べ物を分けたりしていた。そして……カイエンの子供たちに、ひそかに剣を教えている。」
男の指先がわずかに揺れた。
否定も肯定もできず、ただ沈黙だけが落ちる。
「それは、あなたの中に……まだカイエンの戦士としての誇りが残っているからではないの?」
僕は錆びた剣を握りしめた。
その気配に気づいたように、リファーナさんの視線が僕の剣へ向く。
「この子は、二千年の時をこえて、この剣を持ってきた。それは……あなたが生涯をかけて、そしてあなたの意思を継いだ者たちもまた、ずっと務めを果たしてきたからよ」
リファーナさんは、そっと男に向き直る。
「光の女神は、あなたを見捨ててなどいない。むしろ……あなたの役割をお示しになっているのではないかしら。だからこそ、あなたの懺悔が届き、ローディンの剣を持ったこの子がやってきたのよ」
言葉が静かに落ちる。
男は息を呑んだまま、動けずにいた。
「お願い……ローディンの剣技を教えられるのは、あなたしかいないの。」
リファーナさんの声には、前に進んでほしいという願いが滲んでいた。
「あなたがあの日、剣を捨てて逃げたのなら……今度は、この子を守るために剣を振って。私たちに希望を与えてくれた、ローディンの勇気をあなたが、つないで」
男は深く息を吸い、僕の剣を見つめた。
その目に宿る影が、ゆっくりとほどけていく。
やがて、男は顔を上げる。
男の瞳には涙がこぼれていた。
押し殺してきた感情が、堰を切ったように震えた。
それは、長いあいだ胸の奥で固まっていたものが、ようやく動き出したかのような震えだった。
「……わかりました。ローディン様にできる、私の唯一の償い。この身に残った、ただひとかけらの誇りを……生涯をかけて、お捧げいたします」
その言葉が空気に沈み、しばらく誰も動かなかった。
風の音だけが、静かに庭を渡っていく。
――男は、僕の腰の剣に視線を落とし、息をするのを忘れたように動きを止めた。
錆びがまとわりつき、長い年月を耐え抜いた痕跡だけが残る剣。
「……その剣は、外側こそ朽ちていますが……中はまだ生きています。」
男はしばらく僕の剣を見つめていた。
その目は、遠い記憶のどこかを探しているようだった。
やがて、男はゆっくりと言葉を落とす。
「……この剣は……どうやって君の手に?」
僕は、まっすぐに答えた。
「先生に……この世界に来る時、渡されました。――魔法が使えない僕に……剣を教えてくれた人です」
男は目を細める。
「……その先生のお名前は?」
「レイン・カグヤ先生……」
その名を聞いた瞬間、男の呼吸が乱れた。
深く息をつき、胸の奥に押し込んでいた何かが、静かにほどけていくような表情になる。
「……女神様……そんなことが……本当に……」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
自分を責め続けてきた男の、抑えきれない独白だった。
――風が庭を渡り、子供たちの笑い声が遠くで揺れていた。
リファーナさんは、ゆっくりと男の横顔に視線を向けた。
その瞳は、すべてを見通すように静かで、どこか確信めいた光を宿していた。
「あなたは、もう十分に懺悔したわ。今は前に進んで……あなたの子孫が育てた、この子を助けてあげてほしい」
僕は思わず顔を上げた。
子孫……何のことだろう。
男は、覚悟を決めたように、静かに言葉を落とした。
「私は……リュウ・カグヤ」
稲妻のような衝撃が走った。
「カグヤ……?……レイン先生と同じ…」
――言葉がつまる。
「まさか……レイン先生の……」
リュウさんが“女神様”と口にした理由が、ようやく分かった。
魔法が使えない自分を、ずっと“女神様に見捨てられた存在”だと思っていた。
だから信仰心なんて持てるはずがない。
その痛みは、僕にも分かる。
けれど、ここに至るすべてが、どうしても“偶然”とは思えなかった。
女神様は、本当はずっと見ていてくれたのかもしれない。
僕は、そう思った。
――風が、庭をゆっくりと渡っていく。
木々の影が揺れ、遠くの笑い声がかすかにほどけていく。




