第82話 木漏れ日の中にいた女性は
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風の音、鳥の声、そして土の匂い。
耳鳴りが消え、重力の感覚が戻る。
ゆっくりと瞼を開くと、そこは静かな森だった。
戦場の気配、焼け落ちた残骸も青い雷光も叫び声も、すべて消えていた。
代わりにあるのは、柔らかな木漏れ日と、風に揺れる葉のざわめき。
どこか懐かしいような、しかし、見たことのない景色が広がっていた。
「……ここは……?」
僕はふと自分の手を見た。
――小さい?
ミース村で、アミリアと離れ離れになった頃の“少年の姿”だ。
必死に結界を守っていたアミリアの姿を思い出す。
「レイン先生、リリーナ……」
呼んでも返事はない。
当然だ。ここは、さっきまでいた場所とは違う。
空気の匂いも、風の温度も、聞こえる音も、全てが“別の世界”のようだった。
風が吹き、森の奥で枝が揺れた。
振り向くと、僕の目の前にひとりの女性が立っていた。
柔らかく光を受ける髪。青の瞳。
涼やかで、どこか凛とした気配をまとった、神秘的な女性だった。
……でも、どこかで、この雰囲気を見たことがある気がした。
死の狭間で、そっと手を伸ばしてくれた誰かの気配が、かすかに胸をかすめた。
僕は息を呑む。女性は、何かを確かめるように小さくつぶやいた。
「……あなたは……」
女性の視線が、僕の手に握られたボロボロの剣に落ちる。
その瞳が大きく見開かれ、震えた。
「その剣……まさか……成功したのね」
僕には、この女性の言っている意味が分からない。
女性はゆっくりと歩み寄り、僕の肩にそっと手を置いた。
深い青色の瞳が、心の奥まで覗き込むように僕を見つめている。
声が震える。
「……ここは……どこですか」
女性は静かに瞬きをした。
「ここは……カーネスト帝国領よ」
カーネスト帝国──
その名前、どこかで……
たしか、魔道史の教科書に、載っていた気がする。
「……あの……今は……共和国歴何年ですか」
女性は一瞬だけ眉を寄せた。
その反応は、僕の言葉を理解できなかった様子だった。
「“共和国歴”……?」
ゆっくりと首を振る。
「今は、カーネスト帝国歴一八〇〇年よ」
僕の胸が強く脈打った。
帝国歴──
僕の時代には存在しない。
僕が知っているのは“エルミナ共和国歴”。
魔法文明が発展し、魔導学院があって、アミリアがいたあの世界。
胸の奥が冷たくなる。
その女性は、僕の困惑した表情を見て、何かを理解したように小さく息を吸った。
そして、自分に言い聞かせるように、静かな声でつぶやいた。
「……帝国は……滅びるのね……」
僕は息を呑んだ。
「え……?」
女性はゆっくりと続けた。
「ごめんなさい。私もあまりの出来事に戸惑ってしまって。」
女性の瞳がわずかに揺れた。
その揺れは、驚きではなく、“確信”に近いものだった。
「私はリファーナ。カーネスト帝国軍所属の魔工学士──リファーナ・ラズウェルよ」
(ラズウェル……?)
たしかにそう聞こえた。
「ラズウェル……様?大賢者様……ですか……?」
リファーナさんは目を瞬かせた。
「大賢者?私は学者よ……。あぁ……未来では、そう呼ばれているのね」
その声音は、誇りでも自惚れでもない重みと静けさがあった。
リファーナさんは、戸惑う僕をじっと見つめ表情を緩めた。
「あなたも混乱しているでしょう。無理もないわ」
その声には、焦りも、疑いもなかった。
ただ、僕の心のざわつきを受け止めるような、静かな温度だけがあった。
リファーナさんは、そっと僕の肩に触れた。
「落ち着ける場所で話しましょう」
その言葉は、“おかえり”と告げられたようで、胸の奥に安堵の灯りがともる。
壊れ果てた元の世界の影が、ほんの少しだけほどけていく気がした。
――リファーナさんは少年となった僕の手をそっと取り、森の奥へと歩き出した。
ドキドキする。
その手は繊細で、温かく、心が落ち着く。
リファーナさんは、花や木々を見つめながら、澄んだやさしい瞳でつぶやいた。
「美しいでしょう。ローディンが守ってくれた世界」
「……ローディン?」
あのとき、レイン先生が、歪みに呑まれる直前に叫んだ名前。
僕は思わず足を止め、震える声で言った。
「ローディン……先生が……別れ際に叫んでいました……」
リファーナさんは、静かに僕を見つめる。
その視線に押されるように、僕は続けた。
「先生が……ローディンの意思を継げって……歪みに入る前にそう叫んで……」
言葉が途切れた。あの瞬間の光景が、焼きついたまま離れない。
リファーナさんは、そっと僕の肩に手を置いた。
「あなたの先生が、この時代にあなたを送ったのね。……先生のお名前は?」
胸の奥から、自然に言葉がこぼれた。
「……レイン・カグヤ先生……」
リファーナさんの表情が揺れた。
その揺れが、僕の胸にも伝わってくる。
まるで、何かの記憶を呼び起こすような、そんな微かな震えだった。
リファーナさんはすぐに表情を整えた。
「……そう。レイン……カグヤさん。きっと強い心を持った方なのね」
その声の響きの奥に、深い感謝のようなものがふっと揺れた気がした。
リファーナさんは、森の光を見上げていた。
その仕草を見た瞬間、アミリアの姿が、かすかに重なったように見えた。
木漏れ日が髪に触れ、やわらかく反射する。
その横顔はどこか神秘的で、息を呑むほどきれいだった。
僕は、頬が熱くなってしまったのを感じた。
けれど、その美しさの奥に、ほんの少しだけ、哀しさが滲んでいた。
リファーナさんは静かに言葉を落とした。
「順を追って話しましょう。その前に……君のことを教えてくれる?」
その声は、柔らかいのに、すべてを見通すような深さがあった。
「共和国歴と言ったわね」
風が吹き、髪が揺れる。
「君はどこから……いえ、いつの時代から来たのかしら?」
その瞳は、まるで時の底まで見通すようだった。
「僕は……共和国歴一九九九年、エルミナ共和国からきました。」
リファーナさんの足が止まった。
「……共和国歴……一九九九年」
その言葉を、ゆっくりと噛みしめるように繰り返す。
森に、静けさが落ちた。
リファーナさんは、遠い記憶をたぐるように目を伏せた。
「……魔導大戦……先の大戦で、帝国は深い傷を負ったわ」
森の光が、彼女の横顔を照らす。
その表情は、どこか痛みを抱えていた。
「ローディンが命をかけて厄災を退けたけれど……
腐敗した政治、弱った帝都……飢えと病は広がり、国は混乱していくでしょう」
その声は、未来を“見てきた”者のように静かだった。
「帝国は……近い将来、崩れる。そう思っていたわ」
言葉の端に、哀しみが滲んでいた。
僕は、歴史の授業で習った記憶の糸を手繰る。
「えっと……エルミナ共和国は、確か………魔導大戦のあとにできた国……だった……はずです」
自分でもあやふやなのが分かっていて、声が小さくなる。
授業をちゃんと聞いておけばよかったと、
恥ずかしさが込み上げてきて、頬が熱くなった。
リファーナさんは、そんな僕を見て、ふわりと目を細めた。
まるで、子どもが一生懸命思い出そうとしているのをやさしく見守るみたいに。
「そうすると――」
青色の瞳が、まっすぐ僕を見つめる。
「君は、自分のいた時代から……二千年の時を遡ってきたということね」
二千年――想像もつかない。
僕は息を呑んだ。
リファーナさんは、そんな僕を見て、静かに微笑んだ。
「大丈夫。時を越えるなんて、混乱するなというほうが無理よ」
その声は、胸の奥の震えをそっと包むようにやわらかかった。




