第71話 戻る日常
――学院の医療室。
体に残っていた痛みは、もうほとんどない。
昨夜のアミリアの笑顔を思い出すと、痛みなんか吹っ飛んでしまった。
アミリアも約束も覚えていてくれた。
それを知ることができただけでも、胸の奥がじんわりと熱くなる。
……また離れ離れになってしまったけど、次に会うときは胸を張ってアミリアの手を取れるように頑張ろう。
僕はまた前を向けそうだ。
――窓の外から、魔法科の授業の声が聞こえてくる。
あの事件から、みんな少し変わった。
これまでは“学生”という立場に守られて、魔法の訓練も、どこか学院の中だけの“点数”として見ていた。
教科書の中の魔物、安全な訓練場、失敗しても先生が助けてくれる世界。
でも──あの日、“実戦の恐怖”を知った。
命が奪われるかもしれないという現実。
仲間が傷つく音。自分の力が届かない瞬間。
その全部が、学院の空気を少しだけ変えてしまった。
授業に向かう生徒たちの背筋が、前よりも少しだけ伸びている気がする。
魔法陣を描く手つきも、以前よりずっと真剣だ。
僕にこれまで意地悪をしていた同級生たちも、どことなく、別のものを見ているようだった。
誰かを見下すためじゃなく、誰かに勝つためでもなく、
やるべきことがある――そんな目をしていた。
あの日を境に、みんなが少しだけ“大人”になった気がする。
――ベッドの隣では、リリーとエレナが包帯を巻いた腕を抱えながら話をしていた。
白いカーテン越しに差し込む光が、二人の影をやわらかく揺らしている。
リリーは窓の外を見つめ、胸の奥からこぼれるように、しみじみと言った。
「今でも……生きてるのが信じられない」
その声は震えてはいないのに、どこか遠くを見ているようで、胸が締めつけられる。
エレナは膝を抱え、うつむいたまま小さく息を吸った。
「私も……すごく怖かった。あの女魔導士の顔を思い出すと……まだ体が震える……」
言葉の端がかすかに揺れる。
あの闇の中で、どれほどの恐怖を味わったのか。
思い出すだけで、胸が痛くなる。
(皆生き残れて本当によかった)
僕は二人の横顔を見つめながら、そっと言葉を探した。
「でも、二人は……あんな恐ろしい相手に立ち向かっって、本当に立派だよ」
僕は本心からそう思った。
リリーは包帯の巻かれた腕をそっと押さえ、小さく息を吐いた。
「無我夢中だった。みんなが生き残るために……どうしたらいいかって……」
エレナは膝を抱えたまま、うつむいていたが、やがて顔を上げ、かすかに笑った。
「……ノクス様に認めていただいたの。今でも信じられないくらい……」
頬を赤くしながら、嬉しそうに笑うエレナ。
その笑顔はまだ弱々しいけれど、確かに前より強くなっていた。
二人の笑顔を見て、僕も自然と笑みがこぼれた。
その時──医療棟の扉が、静かに開いた。
白い光が差し込み、誰かの影がゆっくりと部屋に伸びてくる。
扉が静かに開き、リオナとニール、そしてルミの姿が見えた。
「三人とも……怪我はどう?」
ニールが明るい声で言う。
ルミは大きな紙袋を抱えて、にこっと笑った。
「お見舞いのフルーツ持ってきたよ!」
その言葉に、リリーとエレナの顔がぱっと輝く。
「食べたーい!」
「ありがとう!」
医療棟の空気が一気に明るくなる。
リオナはみんなの顔を見渡し、胸に手を当てるようにして言った。
「……みんな無事でよかった」
その声は、どこかほっとしたような、柔らかい響きだった。
ルミがリオナを見る。その目は、ただ優しくて、安心したように細められていた。
「リオナの治療でみんな救われたよ。ずっと練習してたもんね」
リオナは慌てて手を振る。
「ち、違うよ……私……まだまだだし……!」
僕はそんなリオナを見て、静かに言った。
「リオナは……あの事件からすごく変わったね。今回のダンジョン探索でも、リオナだけは“油断しない”って慎重で、みんなリオナに救われた」
リオナは一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を落とした。
「そ、そんなことない……あんな怖い体験、二度としたくないって……それだけ……」
そう言いながら、頬はほんのり赤く染まっている。
――リオナは思った。
あの時、ロキが何をしたのか──
目の前で起きたことなのに、理解が追いつかなかった。
そして、気になって仕方がなかった。
聖浄院で──ロキはアミリアと再会したのか。
本当は、確かめたかった。
けれど、その問いを口にすれば、胸の奥に隠していた何かが形になってしまう気がして、その気持ちを押し殺した。
その沈黙は、誰にも触れられないまま、ゆっくりと医療室の空気に溶けていった。
――――――
その頃、学院長室
学院長レイモンドと担任のミールが、散らかった書類の山を横に押しやりながら話をしていた。
書類仕事の処理が追い付いていないのが分かる。
窓の外からは、授業に向かう学生たちの声がかすかに聞こえる。
ミールは心配そうに眉を寄せた。
「ダンジョンで……ジーク教は何をしていたのでしょうか」
レイモンドは椅子にもたれ、深く息を吐いた。
「わからん。そもそもダンジョンそのものが何なのか……構造すら今の魔法文明では解明できていないくらいだからな」
窓の外から、学生たちの笑い声がかすかに聞こえてくる。
その明るさが、逆に二人の沈黙を際立たせた。
レイモンドは視線を外に向けたまま、ぽつりと続ける。
「それにしても……学生に死者が出なくて、本当に奇跡だった。あれから、生徒たちの授業への向き合い方が変わったと、各教師から報告が上がっている」
ミールは静かにうなずく。
レイモンドは机の上の書類を指でとんとんと叩いた。
「無理もない。あれほどのイレギュラーが発生したんだ。心に傷を負った生徒も多いだろう」
ミールは、胸の奥に溜めていた息をそっと吐き出すように言った。
「……セルド隊長が、奴らの動向にいち早く気づいてくれてよかったです。もし対応が遅れていたら……」
ミールの表情にようやく安堵がにじむ。
そして、ふっと柔らかく笑った。
「それに……一部の生徒たちの頑張りも、見事でした。こんなに成長していたんだなって……教師として、嬉しくなります」
ミールの視線は、自然と窓の外へ向かう。
そこには、魔法の練習をする生徒たちの姿があった。
「リオナ・フレイなど……怪我をした生徒たちの治療にずっと専念していました。以前は、いかにも“貴族の娘”というプライドがにじんでいたのに……本当に変わった。」
ミールの言葉に、レイモンドは静かに微笑んだ。
「闇属科のリリーとエレナも、よくやったようだな。闇の賢者ノクス殿の目に留まるほどの奮闘ぶりであったと聞いた……」
そこでレイモンドの表情が、ふっと曇る。
「ノクス殿と言えば……」
ミールは、その一瞬の変化を見逃さなかった。
察したように、静かに名を口にする。
「……ロキ・グレイシア、ですね」
ミールが名を口にすると、
レイモンドは小さくうなずき、困ったように眉を寄せた。
「ああ。今回は、ノクス殿自身の強い御意向で救助隊に参加したくらいだ。魔獣をどうやって始末したのか……“ロキの隠れた力を探れ”と、あちこちから問い合わせが来ている。まったく、疲れるよ」
レイモンドは額を押さえ、苦笑ともため息ともつかない息を漏らす。
ミールは静かに首を振った。
「ロキは……力を隠して、何かをはばかろうという性格ではありません。あの子の行動原理は純粋な願いです」
ミールは、言葉を選ぶようにわずかに視線を落とした。
「しかしS級のヴォイド・ストーカーをどうやって倒したのか……それでけは分かりません。目撃した生徒たちの証言もはっきりしない」
レイモンドの顔が険しくなる。
「あれは“人の目に映らない”不可視の魔獣。高速移動しながら獲物を切り刻み、熟練の魔導士でも倒すことが困難な魔獣だ」
ミールは静かにうなずく。
「それを……魔力を持たない少年が、剣一本で三体も倒すなど……理解が追い付かん」
その言葉が落ちた瞬間、学院長室の空気がわずかに揺れた。
ロキ・グレイシアという少年が、いったい何を秘めているのか。
その答えは、誰にも見えていない。
沈黙の学院長室には、窓の外から聞こえる学生たちの笑い声だけが、
どこか遠い世界の音のように響いていた。
――――




