第72話 魔欠の少年の謎
数日後、レイン先生の孤児院。
孤児院の庭は、木々のすきまから朝の光が差し込み、柔らかな影を地面に落としていた。
その光景は、ついこの前まで命の危機にいた自分には、どこか別世界のように思えた。
久しぶりに聞く子どもたちの笑い声が、胸の奥をじんわりと温める。
レイン先生が僕の体の傷を確かめながら、静かに言葉を落とした。
「……大分よくなりましたね。」
その声音は淡々としているのに、どこか安堵が混じっているように聞こえた。
体の傷はほとんど治っていた。
包帯も外れ、動かすたびに走っていた痛みも、もうない。
そんな僕の顔を見て、レイン先生がふと怪訝そうに眉を寄せた。
「……命を落としかけたわりには、ずいぶん嬉しそうですね」
―――ドキッ。
アミリアに再会できたことを思い返していたせいで、どうやら表情に出てしまっていたらしい。
胸の奥が一瞬で熱くなる。慌てて視線をそらしたけれど、
「君が元気なら、それにこしたことはありませんが」
レイン先生の目は、すでにすべてを見透かしているようだった。
その静かな視線の奥に、わずかな驚きと、理解しきれない何かが揺れている。
「それにして、君が虚影獣を倒すとは思いませんでした」
淡々とした声なのに、そこには確かな“事実”としての重みがあった。
ミール先生やリオナから、魔獣を倒したのは僕だと後から聞かされた。
だけど──そんな記憶はない。
あの女魔導師にいたぶられて、意識が遠のいていく中で、ただ、ぼんやりとした“温かい光”を感じたことだけは覚えている。
それが何だったのか。どうして自分が生きているのか。どうやって虚影獣を倒したのか。
僕は理解できなかった。
「……でも、僕、本当にそんな覚えがないんです。見えない魔獣になぶられて、あの女魔導士には手も足も出なくて……」
言いながら、胸の奥がざわつく。
あの時の冷たい声、肌を刺すような魔力の感触──思い出すだけで、背筋が震えた。
レイン先生は、そんな僕をじっと見つめ、わずかに目を細めて言った。
「ヴォイド・ストーカーは、君がかつて戦ったデス・ベリアルを凌ぐ危険な魔獣です。それを三体も倒すなど……正直、今の君にできる芸当ではないと、私も思っています」
淡々とした声なのに、その言葉は重く、逃げ場がなかった。
そして──レイン先生は、ほんのかすかな声でつぶやいた。
「……そうなると、別の力の干渉を受けたとしか考えられない……」
「え……?」
思わず聞き返すと、レイン先生はすぐに表情を戻し、首を振った。
「いえ。なんでもありません」
その一言が、逆に胸の奥にひっかかった。
レイン先生は、何かを振り払うように小さく息をつき、顔を上げた。
「君は……恐怖と死のはざまで、強大な敵と対峙しました。大分、成長しましたね」
その声は静かだが、どこか遠くを見ているようだった。
「聖浄院が動き出すなど、情勢も大分きな臭くなってきました。これから、いつ同じような輩と出会うとも限らない……」
その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏に、あの恐ろしい女魔導士の顔が浮かんだ。
冷たい笑み、肌を刺す魔力、あの声、背筋がぞくりと凍りつく。
レイン先生は続けた。
「怪我も癒えたことですし、これからは“それ”を見据えた稽古をしていきましょう。……ただし、今までのように優しくはありませんよ」
今まではあれで優しかったの……?
喉がひくりと鳴る。
でも──アミリアの隣に立つためには、僕はもっと強くならなければならない。
逃げるわけにはいかない。僕は心を決めて言った。
「……お願いします」
その言葉は震えていたけれど、確かに、自分の意志で口にしたものだった。
――――――
孤児院の礼拝堂の地下
ロキが孤児院を去ったあと、レインは一冊の古びた書物に目を通していた。
表紙は擦り切れ、角は欠け、まるで何世代も前から受け継がれてきたような、
そんな重みをまとった本だった。
レインは丁寧にページをめくる。紙は乾き、指先にざらりとした感触が残る。
そして、誰に聞かせるでもなく、レインはそっとつぶやいた。
「……ダンジョンでの“覚醒”。……"時"の魔力……」
古びた書庫の空気が、その一言を吸い込むように静まり返る。
その静けさを破ったのは──
「にゃー」
リリーナの子猫のミミーだった。
ミミーは、どこか遠くの揺らぎに引き寄せられたように、レインに頭をこすりつけた。
レインは目を伏せ、ミミーの頭をそっと撫でた。
外から聞こえる子供たちの笑い声だけが、この部屋の重苦しさと対照的に響いていた。
――――




