第61話 死の魔牛
リオナが顔を上げる。
「今の……?」
ただ事じゃない――気づけば、僕は駆け出していた。
「リオナはここにいて!」
考えるより先に、身体が音のした方へ向かっていた。
「ロキ……!」
リオナが伸ばしかけた手が、空を切る。
ついさっきまで穏やかだった昼下がりの街は、空気の色が変わったように、急にざわつき始めた。
―――悲鳴の方向へ走る。
路地を曲がった先で、黒いローブをまとった“司祭のような男”とすれ違った。
一瞬、胸の奥がざわつく。男の歩みは静かで、影のように薄い。
だが、すれ違う瞬間――手の甲に刻まれた六芒星が目に入った。
どこかで見たことがある。嫌な記憶の底を、冷たい指でなぞられたような感覚。
フードの奥の目だけが、こちらを見た。
冷たく、静かで――異様だった。
次の瞬間、男の姿は路地裏の闇に溶けるように消えた。
「……今の……」
言いかけた言葉を振り払うように、僕は走り出した。
それどころではない。悲鳴の方が先だ。
――再度角を曲がった先、そこだけ、世界が違っていた。
石畳が砕け、店の壁が抉れ、黒い影がゆらりと立ち上がっている。
歪んだ輪郭。普通の魔物とは明らかに違う、
胸の奥をざわつかせる“異質な気配”。
空気が重い。まるで、そこだけ世界の色が濁っているようだった。
人の倍はあろうかという巨体。全身を覆うのは煤のように黒い短毛。
巨大な牛の頭がそのまま人の胴に乗っている。
ねじれた二本の角は刃物のように光り、鼻先からは荒い息が白く漏れていた。
丸太のような腕には、場違いなほど巨大な斧が握られている。
その刃には、ついさっきまで何かを叩き割っていたような生々しい痕が残っていた。
僕の背後から、軽い足音が近づく。
「ロキ……!」
リオナだった。
追いかけてきた勢いのまま、視線が魔物に向く。
そして、息を呑む。
「あれ……デス・ベリアル《死の魔牛》……A級魔獣だよ……」
その名を口にした瞬間、リオナの声がかすかに震えた。
“死の魔牛”――教科書で見た文字が、今、目の前で息をしている。
教科書で見るのと、目の前に立つのとでは、恐怖の質がまるで違う。
デス・ベリアルが、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。
その赤い瞳が、僕とリオナを射抜く。
「こんな怪物が……どうして街中に……?」
思わずつぶやいた言葉は、自分でも驚くほど震えていた。
その時――通りの向こうから、重い足音が駆けてくる。
街を巡回していた魔法師団の魔導士二名が姿を現した。
青い外套が風に揺れ、胸元の紋章が光る。
リオナの顔がぱっと明るくなる。
「魔導師団よ!」
ほんの一瞬、空気が軽くなった。
助けが来た――そんな希望が胸をよぎる。
「怪物め……央都を汚すとは許さん!」
一人が杖を構え、詠唱に入る。
魔力が空気を震わせ、周囲の埃がふわりと浮いた。
もう一人も構えを取り、デス・ベリアルを鋭く睨みつける。
――だが。その巨体は、微動だにしなかった。
まるで、二人の魔導士など 最初から“存在しない” かのように、赤い瞳だけが、ゆっくりと細められる。
「風よ、刃となれ――《ウインドカッター》!」
空気が震え、半月状の風の刃がデス・ベリアルへ飛ぶ。
鋭い音を立てて命中したが、黒い毛皮には 浅い傷が一本 刻まれただけだった。
「……なっ」
続けてもう一人の魔導士が叫ぶ。
「大地よ、槍を成し、敵を穿て――《ストーンランス》!」
地面が隆起し、石の槍が突き上がる。
しかしデス・ベリアルは 一歩踏み込んだだけで、槍を粉砕しながら前進してきた。
「なんて硬さだ……」
声が震えていた。
――デス・ベリアルが、巨大な斧をゆっくりと振り上げる。
その動きは重く、遅い。だがものすごい圧があった。
「くっ……! 」
魔法障壁が展開され、光が揺れ、空気が震える。
――だが、その刹那。
バリーーーンッ。
斧が障壁を粉々に砕き、砕け散った光の破片ごと、術者の身体を容赦なく断ち割った。
「ゲイル!!」
仲間を失った魔導士が叫ぶ。その声は、街の喧騒を一瞬で凍らせた。
「くそ……縛れ――《バインドチェーン》!」
光の鎖がデス・ベリアルの腕に絡みつき、一瞬だけ、動きが止まった。
ほんの一瞬だけ。
しかし、鎖は、力任せに引きちぎられた。
その反動のまま、デス・ベリアルは握っていた斧を投げ放つ。
空気を裂く轟音。
魔導士は避ける間もなく、高速で飛ぶ斧に潰され、地面に崩れ落ちた。
僕とリオナは、ただ立ち尽くすしかなかった。
リオナが震えているのが分かる。
当然だ。あんな化け物を目の前にすれば、誰だって足がすくむ。
デス・ベリアルが投げた斧が地面に突き刺さり、石畳が砕け、破片が飛び散った。
その破片の向こう――僕の視界に、小さな影が映った。
まだ幼い男の子が、震えながら立ちすくんでいる。
「うえーん!!お母さんーー!!」
泣き叫ぶ声が、街の喧騒を切り裂く。
デス・ベリアルの濁った赤い目が、その子どもへ向いた。
巨大な足が一歩、踏み出される。地面が揺れた。
リオナが息を呑む。
「危ない!」
考えるより先に、身体が動いていた。
次の瞬間、僕はデス・ベリアルの腕を切りつけていた。
ザシュ!!
切口から、どす黒い血が噴き出す。
「ギャアアアアア!!」
咆哮が鼓膜を震わせる。
だが僕は振り返らず、男の子を抱きかかえ、一瞬で後方へ跳んだ。
「リオナ、この子を頼む」
突然の出来事にリオナは戸惑ったが、
すぐに表情を引き締め、子どもを受け取った。
「……大丈夫よ。もう大丈夫だから」
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、男の子は必死にうなずく。
リオナの震える手が、優しく背中をさすった。
リオナは、その瞬間、胸の奥で、何かが静かに揺れた。
――同じだ。
あの時。ベノムサーペントから私を助けてくれた時と。
ロキの背中が、また私の前で誰かを守っている。
(魔法が使えないはずなのに。
あなたはどうして、あんな化け物に立ち向かっていけるの……?)
怖いはずなのに。魔法が使えないはずなのに。
ロキは剣1本で立ち向かっていく。
胸の奥が熱くなり、視界がじんわり滲む。
――その時だった。
デス・ベリアルが激しく角を振り回し、ロキの身体を弾き飛ばした。
鋭い角がロキの胴をかすめ、血が散る。
それでもロキは剣で致命傷だけは防いでいた。
「ロキ……危ない!」
声が震えた。涙がこぼれそうになりながら、私は詠唱を始めた。
「ファイアアロー!」
炎の矢が放たれ、デス・ベリアルの肩に突き刺さる。
黒い毛皮が焦げ、うっとうしそうに腕を振り払った。
――――
リオナの《ファイアアロー》が、デス・ベリアルの動きをわずかに止めた。
その一瞬の隙が、まるで空気の裂け目のように見えた。
――今だ。
デス・ベリアルは、僕に猛烈な殺意を向けている。
皮膚がひりつくほどの圧。獣の咆哮が、骨の奥まで震わせる。
普通なら、足がすくむ。逃げたくなる。背を向けたくなる。
でも――アミリアが背負っているものは、こんなものじゃない。
アミリアの敵は、もっと強大。
それでもアミリアは、逃げていない。
――だから僕も逃げない。
こんな奴を倒せないようじゃ、アミリアの隣に立つ資格なんてない。
胸の奥で、熱が静かに燃え上がる。
デス・ベリアルが地面を砕きながら突進してくる。
濁った赤い目が、僕だけを捉えていた。
(来る……!)
僕は剣を構え、迫りくる角をいなして身を沈める。
そのまま、全身の力を剣へ叩き込んだ。
ガァンッ!!
衝撃が腕を痺れさせる。骨が軋むほどの重さ。
それでも――足は一歩も引かない。
(負けられない……!)
再度、剣を振り下ろす。
次の瞬間――ガシュッ!!
激しい音を立て、僕の剣がデス・ベリアルの鋼鉄のような角を切り落とした。
切断された角は勢いのまま地面に突き刺さり、石畳が大きくひび割れた。
デス・ベリアルが怒号のような咆哮を上げる。
「グオオオオオオ!!」
黒い毛皮が逆立ち、残った片角が狂ったように振り回される。
頭から黒い血が飛び散り、巨体がよろめいた。
リオナは子どもを抱きしめながら、その光景に息を呑んだ。
「ロキ……」
声が震える。
凶暴な魔獣に立ち向かう剣士の姿に、胸の奥が、熱く、痛いほどに揺れる。
――その時。
空気が震え、付近に魔力の渦が生まれた。
「下がれ!!」
鋭い声が響き、僕たちは思わず顔を上げた。
深い紺色のローブをまとった男女が、まるで空中に浮かぶようにして現れる。
胸元には、魔導師団でも限られた者しか持たない上級魔導士の紋章が眩く輝いていた。
――――




