第52話 大会前の決意
その夜。アスピア皇国宮殿。
「おかあさま、おかあさま!」
小さな足音が、寝室へ駆け込んでくる。
「今日ね、ひりゅうさんにのったの。にじのお兄ちゃんと、街のずっと上をとんだんだよ」
娘は興奮で頬を赤くしながら、両手を大きく広げて空を飛ぶ真似をする。
「それでね……夕日が、すっごくきれいだったんだよ」
皇女エレオノーラは、夢中で話す娘を温かいまなざしで見守っていた。
その瞳には、色々な世界を見て強く優しく育ってほしいという願いと、危ない目に遭わなかったかという小さな心配が、そっと同居していた。
けれど、娘の笑顔を見ていると、その心配さえも静かにほどけていく。
「そう……きれいだったのね」
エレオノーラは娘の髪をそっと撫でた。まるで、娘が見た夕日をその手で確かめるように。
寝室の窓の外では、皇都の灯りが静かに瞬き、その光が娘の横顔をやわらかく照らしていた。
――――――
そして、いくつかの朝が静かに流れた。
僕は、あの日からずっと、飛竜と向き合っていた。
ナギルさんの家の裏手にある草原は、今日も朝の光がやわらかく降りていた。
草の上では、リリーナがちょこんと座り、膝の上には子猫のミミーが丸くなっている。
毎朝、同じ草原で、ナギルさんに操竜訓練をしてもらっている。
僕は飛竜を「リオ」と名付け、ナギルさんが愛用のたづなをリオにつけてくれた。
たづなを握ると、手になじみ、長い年月の跡がしっとり残っている。
ナギルさんはリオの首元を優しく撫でる。
「……むずかしく考えるな。お前がこいつを好きになれば、こいつもお前を好きになる。心を落ち着かせりゃ、飛竜はそれだけで分かる」
僕はうなずき、リオの前にそっと立ち、呼吸を整える。
風が草を揺らす。
リオが、ゆっくりと身を沈めた。
僕はその背に手を添え、ひと呼吸おいてから軽くまたがる。
次の瞬間――
リオの翼が大きくひらき、空気をつかむ音がした。
僕の体がふわりと浮き、そのまま一気に空へ。
速度は、これまでとは比べものにならない。景色が線のように流れていく。
リオが翼をわずかに傾けると、風をすべるように滑空へ移った。
僕の身体も自然と同じ角度に傾き、そのまま空を円を描くように旋回する。
遠心力がかかるのに、僕の姿勢はぶれなかった。
リオの動きに、呼吸のリズムが合わさる。
(……乗れてる)
草原では、リリーナがミミーを抱いたまま、目を見開いて見上げている。
リオが高度を落とし、草原へ戻ってくる。
僕は、着地の衝撃を軽く膝を曲げて受け止めた。
「……大分よくなったな。こいつもお前を信頼しているようだ」
ナギルさんは腕を組んだまま、口の端をぐいっと上げた。
無骨な笑みが、ほんの一瞬だけのぞく。
「この飛竜なら優勝をねらうのに申し分ねぇ。あとはお前の腕しだいだ」
僕は息を整えながら、リオの首をそっと撫でた。
「……はい。頑張らないと。――リオも、よろしくな」
リオが静かに僕を見つめていた。
その瞳は、“乗りこなしてみろ”とでも言うように、どこか誇らしげだった。
――――――
その日の午後。
僕はレイン先生の孤児院に来ていた。
先生の助言のおかげで、無事に飛竜を持つことができたことを報告したかった。
それと……
胸の奥に、ずっと引っかかっていることがある。
僕は思いの内を、正直に先生へ伝えた。
「ナギルさんの騎乗テイムは、本当にすごかったです。そこから魔法を撃つ姿も……圧倒されました」
言いながら、胸が少し痛んだ。
リーフたち魔法科の同級生の言葉が、まだ心につかえている。
「でも……僕は、ナギルさんみたいに、そして魔法科の生徒みたいに、騎乗しても魔法が使えません」
言葉が続かず、視線が自然と落ちる。
喉の奥が、少しだけ重くなった。
「大会で遠くから狙われたら……せめて、騎乗したまま反撃できる方法がないかなって……」
レイン先生は静かにうなずき、口を開いた。
「……そうですね。遠距離から攻撃できる魔導士が圧倒的に有利なのは、否定できません」
先生は少し視線を落とし、続けた。
「ただし、遠隔攻撃ができる方法がないわけではありません」
僕は顔を上げ、先生の言葉に期待を寄せる。
「私の祖国では、弓を使った遠隔武器も発達していました」
僕は顔をかしげる。
「……弓……ですか」
先生の声が、どこか懐かしさを帯びる。
「中には、高速で疾走する馬に乗りながら矢を放つ達人もいたようです。戦争で、疾走する馬の上から次々と放たれる矢の雨に、敵軍は恐怖におののいたと伝えられています」
――その語り口には、どこか静かにその技を大切にしているような響きがあった。
「その技を練習すれば、飛竜にも応用ができるかもしれません」
僕の胸がふっと明るくなる。
その変化を察したのか、先生はやれやれと微笑んで言った。
「今日から大会までは、剣を少しお休みして、弓の練習をしましょう。私も、剣ほど専門ではありませんが、“多少”の心得はありますので」
胸の奥が、すっと軽くなる。
「遠隔武器の操法を学べば、遠隔武器の弱点も分かる。――剣を極めるためにも、無駄にはならないでしょう」
僕は深くうなずいた。
――――――
レイン先生は、稽古場に保管していた“弓”を持ってきてくれた。
先生はこんなものまで持っているんだ。
……あれ? もしかして、先生って剣や弓に通じた家の出だったりするのかな。
“今さら”ながら、そんなことを思ってしまった。
弓を手にした先生の動きは、無駄がなくて静かだった。
ただ立っているだけなのに、弦の張りまで馴染んでいるように見える。
弓は思ったよりも長く、胸の高さほどある。
左手で弓の中央――握り革の巻かれた部分をそっと包むように握る。
木肌は滑らかで、手のひらにしっとりと馴染んだ。
――右手で、細い矢を一本取る。
矢羽が指先にふれると、かすかに柔らかい。
弦に矢をつがえると、わずかに“ピン”と張った音がした。
稽古場の奥には、丸い的がいくつも並んでいる。
白い輪が朝の光を受けて、ぼんやりと浮かび上がっていた。
レイン先生は、僕の手元を見て静かにうなずいた。
「その持ち方で大丈夫です。まずは、弓を体の正面に立てて……肩の力を抜いてください」
先生は丁寧に弓の基本操法を教えてくれる。
「肩の力を抜いて、弓をしっかり固定してください。射手が角度をほんの少しずらすだけで、矢は遠くへ飛ぶほど大きく逸れてしまいます。」
呼吸を整える。
僕は深く息を吸い、弓を目いっぱい引いた。
――――放つ。
バシュッ。
遠方の的に、矢が吸い込まれるように突き刺さった。
「……え? 当たった……」
レイン先生は、やわらかく微笑んだ。
「お見事です。弓は力ではありません。矢を放つその瞬間までぶらさないこと。それが一番のポイントです」
僕は思わず弓を見つめた。
手の中の弓が、さっきより少しだけ軽く感じられた。
「飛竜の操竜は、テイムの名手が教えてくれている。これほど心強いことはありません。あとは……ここで弓の練習をして、大会までにものにしましょう」
レイン先生は、やわらかく微笑んだ。
「ロキ君。今の君なら、コツはすぐに掴めるでしょう」
その声は、僕の中の小さな不安を、そっとほどいてくれた。
レイン先生の言葉が、静かに胸に落ちていく。
弓を下ろすと、張りつめていた空気がふっとほどけた。
稽古場には、さっき放った矢の余韻だけが静かに残っている。
――――――
翌日。その日の授業は、魔道具の製作だった。
机の上には、透明な魔力結晶と、魔力回路を刻むための細い工具が並んでいる。
僕は結晶を手に取り、魔力の流れをどう組むか考えていた。
そのとき――胸の奥で、ふっと何かがつながった。
(……もし、“あれ”ができたら)
言葉にはならない。
でも、頭の中で形になりかけている“何か”があった。
飛竜を操れるようになった今、これができれば、魔法科の生徒とも対等に戦える。
むしろ――魔工科の僕にしかできないことだ。
僕はぎこちない手つきで、ノートに図面を引き始めた。
線は震えていたけれど、拙い図面でも、一生懸命書いた。
(……これで、戦える)
不安でもなく、焦りでもない。
ただ――せめて精一杯、戦い抜こうという静かな決意が宿った気がした。
――――




