第44話 にじのゆうしゃ様
僕は地面を思い切り蹴って、駆けだした。
馬車に乗り込んだ賊は二人。
――逃げる馬車は、狭い路地へ飛び込んでいく。
両脇の建物が迫り、道幅は馬車一台分がギリギリだ。
馬の蹄が石畳を叩くたび、火花のような音が散った。
「ちっ……走りにくい……!」
男が舌打ちする。狭すぎて、馬は速度を上げられない。
その一瞬の減速で、距離が縮まった。
だが僕の足は止まらない。
剣の稽古で温まった脚が、まるで勝手に前へ進むように動いていた。
路地の角を曲がるたび、馬は大きく体勢を崩す。
──追いつける。
視界の端で、馬の影がどんどん大きくなる。
ついに、手を伸ばせば届く距離まで迫り、逃げる男の背中を掴んだ。
「うおっ!? なんだこいつ!」
馬が大きく揺れ、男が体勢を崩す。
その隙に僕は少女を引き寄せ、地面へ転がりながら抱きかかえた。
「てめぇ!! なんだこのガキ!!」
怒号が飛ぶ。
僕は剣を構えた。――
呼吸は乱れていない。
ただ、腕の中の少女だけは絶対に離さない。
賊の一人が魔法の詠唱に入った瞬間、僕の身体は勝手に動いていた。
――剣先が、詠唱者の喉元へ滑り込む。
「──っ!」
男の声が途切れた。詠唱は、そこで完全に止まる。
僕は何も考えていなかった。
ただ、たとえ魔法が使えなくても──
腕の中で怯えている少女だけは、絶対に渡すわけにはいかなかった。
賊の一人が、仲間に向かって叫ぶ。
「構ってられない! 魔導師団がくるぞ!」
「クソ……蛇さえいれば囮にできたものを……!」
男が苛立ちながら片手を上げる。
その腕に、"黒い六芒星"の焼印が赤く浮かび上がった。
詠唱の気配が、空気を震わせる。
「ファイヤーウォール!」
低く呟いた瞬間、世界が赤く染まった。
ボウッ!!
路地の両側から炎の壁が噴き上がり、僕たちを囲むように燃え広がる。
熱風が肌を刺す。空気が焼ける匂いがした。
「焼け死ね」
男の声が、炎の向こうから響いた。
次の瞬間、男たちは踵を返し、炎の外側へ駆け去っていった。
足音が石畳を叩き、すぐに遠ざかる。
残されたのは──
燃え上がる火の壁と、僕と、僕の背にしがみついて震える少女だけだった。
逃げ道はない。炎が、じりじりと迫ってくる。
熱が肌を焼き、呼吸をするたび、喉の奥が焼けるように痛む。
息ができない。視界が揺れる。
僕に魔法が使えたら……。
悔しさが、熱と一緒に胸の奥で渦を巻いた。
ただ焼かれるのを待つしかないなんて。
――そう思った瞬間、懐の中で何かが指先に触れた。
……あ。
実習でつくった、“水の魔力オーブ”。
小さな球体は、ひんやりと冷たかった。
炎の赤に照らされながら、そのオーブだけが淡い青を宿している。
握った瞬間、冷たさが指先から腕へ、すっと流れ込んだ。
これなら……。
僕は、視界が歪むなか炎の向こうへ向けて腕を振りかぶった。
――――
そこから溢れ出したのは、灼熱とは真逆の、澄んだ透明な水だった。
炎へ触れた瞬間──しゅう、と蒸気が立ちのぼる。
燃え上がっていた火が、音もなく力を失っていく。
清らかな水が、雨のように降り注いだ。
付近は、さっきまでの騒ぎが嘘のように静まり返った。
熱だけが、まだ空気の奥に残っている。
そして──
蒸気の向こうに、七色に光り輝く“虹”が架かり、辺りがやさしく色づく。
僕の背にしがみついている少女は、青い瞳の、ブロンドの、五つか六つほどの女の子。
服は土で汚れ、頬は涙で濡れていた。
それでも──
虹の光を映したその瞳だけは、驚きと、何かを思い出すような強さを帯びていた。
そして、震える唇が、かすかに動く。
「……にじの、ゆうしゃさま……?」
そう聞こえた気がした。
「え……」
喉が焼け、かすれた声を絞り出す。
「もう大丈夫だよ。安心して」
少女がゆっくりと僕を見上げ、虹の光が、その青い瞳に揺れた。
その瞬間──路地の入口で、人影が揺れた。
「……誰か、いるのか」
近所の店の主人らしい男が、恐る恐るこちらへ歩いてくる。
火傷だらけの僕を見て、息を呑んだ。
「大丈夫か……何があった……」
僕は立っているのがやっとだった。
息が浅く、視界が揺れる。
「この子を……お願いします」
声にならない声で、それだけを伝えた。
男は驚きながらも、しっかりと女の子を受け取った。
――その瞬間、僕の膝から力が抜けた。
石畳が近づき、音もなく、僕の視界が暗く沈んでいった。
僕の記憶は、そこで途切れた。――




