第162話 蘇る記憶
次の瞬間――。
ワイス伯爵夫人の気配が、わずかに遠ざかった。
「こうなったら……!」
何かの合図を送ったようだった。
直後――。
グルルル……。
議場のどこかから、獣の唸り声が響いた。
低く、喉の奥から絞り出すような声。
だが、その姿は見えない。
『動態反応を検知――
不可視の魔獣と推定』
僕の目の前に、魔獣の形をした輪郭が浮かび上がった。
まずい――!
『警告。魔獣が護衛対象ユリシスに接近。
隠蔽魔法の解除を優先する必要があります。
闇魔力の相殺を推奨』
「闇魔力の相殺……?」
その言葉に、僕ははっとした。
隠蔽魔法を維持している闇魔力を断ち切れば――!
僕は剣を強く握り込んだ。
魔獣の気配を捉え、全身の力を刃へと集中させる。
七理の法剣――闇の刃
「冥影斬!!」
刃から放たれた黒い斬撃が、空間を鋭く走り抜けた。
それは、議場を覆う闇の魔力を、濃い霧を払うように切り裂いていく。
――僕は、声を張り上げた。
「傭兵の皆さん! ユリシス殿下を!」
それ以上、説明している余裕はなかった。
黒い霧が左右へと散り、隠されていた魔獣の姿が、徐々に浮かび上がった。
そして――。
隠蔽魔法が解けた。
灰色の皮膚。鋭い牙。
不自然なほど盛り上がった巨体の筋肉。
指先には、骨がそのまま伸びたような鋭い爪が生えている。
先ほどまで、そこには何もなかった。
その恐ろしい姿が、突如として議場に現れたのだ。
「きゃああああっ!」
参列者たちの悲鳴が響き渡る。
突然現れた異形の魔獣に、人々は恐怖に顔を引きつらせ、逃げ惑った。
だが、魔獣は周囲の人々には目もくれず、ユリシス殿下へと迫っていた。
まずい――!
しかし、そのときにはすでにレイスさんが動いていた。
魔導砲の砲口に、まばゆい光が収束している。
「食らえぇっ!!」
ドガァァァン!!
轟音とともに、放たれた魔力弾が魔獣を直撃した。
爆発的な衝撃が議場を揺るがす。
魔獣の巨体が宙を舞い、そのまま庁舎の壁面へと叩きつけられた。
ズガァン!!
頑丈な壁に、蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
「殿下、こちらへ!」
ビルさんが素早く魔法障壁を広げた。
ユリシス殿下とティアさんを包み込むように、光の膜の防御壁が立ち上がる。
その直後――。
轟音を上げて燃え盛る火球が、魔獣へと襲いかかった。
ライルさんの放った火球が魔獣を捉える。
炎が全身を包み込み、灰色の巨体が激しく燃え上がった。
「ギャアアアアアッ!!」
耳をつんざくような断末魔が議場に響き渡る。
魔獣は身をよじり、炎の中でもがいた。
やがて、その動きは弱まり――。
ついに巨体が床へと崩れ落ちた。
――その光景に、ワイス伯爵夫人の注意が逸れた。
「なっ……!?」
ほんの一瞬。
けれど、僕にとっては十分だった。
僕は床を蹴り、一気に間合いを詰める。
夫人がこちらを振り向いた。
「しまっ――」
剣を突き出す。
刃がワイス伯爵夫人の身体を貫いた。
夫人は床に倒れ込み、自らの身体を貫く剣の刃を握りしめた。
指の間から血がにじみ、刃を伝って床へと滴り落ちる。
それでも、夫人は剣を離そうとしなかった。
悔しげに歯を食いしばり、僕を睨みつける。
「ばかな……。こんな奴らに、我々が……」
その声には、敗北を認められない怒りと、計画を果たせなかった無念が滲んでいた。
言葉はそこで途切れた。
やがて、剣を握る指から力が抜ける。
夫人の身体は、静かに床へと崩れ落ちた。
――――――
僕は、炎に焼かれた魔獣の亡骸を見つめた。
「この魔獣……覚えがある」
かつて、魔導学院のダンジョン攻略実習で戦った魔物だ。
あのときの魔獣も、姿を隠す能力を持っていた。
あのときの僕は、ジーク教の女司祭に手も足も出ず、死の淵をさまよっていた。
意識が朦朧とする中、温かな光に包まれたことだけは覚えている。
そして、そのまま意識を失った。
後になって、皆から、僕があの魔獣を倒したのだと聞かされた。
けれど――。
僕には、そのときの記憶がまったくなかった。
「あのとき、僕はどうやって、あの魔獣を倒したんだろう……」
腕輪が光り、ネイラの声が耳元に響く。
『魔獣名称――ヴォイド・ストーカー。
不可視の虚影獣と呼ばれる危険な個体です』
僕は腕輪に目を向けた。
『マスター・リファーナは、ロキから聞き取った情報をもとに、あなたが少年時代に命の危機に陥ることを想定していました』
『ロキが元の時代へ帰還した後、マスターは当時のアスピア皇女の娘――時の巫女ルナと協力し、「還流」の時術を構築しました』
「還流……?」
『ロキが瀕死に陥った際、将来のロキ自身が持つ力の一部を過去へと逆流させ、一時的に身体能力を補う時術です。
時の巫女ルナは、その時点ですでにロキの時間移動に干渉していましたので、その術を応用したものと推定します』
僕は思わず息を呑んだ。
そうか……。
あのときは、僕にとってリファーナさんと出会う前の出来事だった。
だけど、リファーナさんにとっては、僕を元の時代へ送り返した後の出来事なんだ。
つまり、あのとき僕を救った力は、未来の僕から過去の僕へと送られたものだった。
考えれば考えるほど、頭がこんがらがる。
それでも、一つだけ分かった。
あのときも、僕はリファーナさんとルナさんに助けられたんだ。




