第161話 不可視の魔獣
黒い魔力を帯びた鉤爪と、僕の剣が激しくせめぎ合う。
「……っ!」
ワイス伯爵夫人の目が、わずかに見開かれた。
まさか攻撃を受け止められるとは思っていなかったのだろう。
彼女は一瞬だけ動きを止めると、すぐさま鉤爪を引き、後方へと跳び退いた。
僕は剣を構えたまま、彼女の動きを追う。
――危なかった。
ネイラが助言してくれなければ、間に合わなかった。
冷や汗が頬を伝う。
「ユリシス殿下、ご無事ですか!」
僕は背後を振り返った。
「あ、ああ……。私は大丈夫です」
殿下は驚いた様子で僕を見つめていた。
その隣では、ティアさんが殿下を守るように身を寄せている。
「ロキ様……!」
ティアさんの声には、安堵と驚きが入り混じっていた。
グレイスさんも、信じられないといった表情で僕を見ている。
「一体、何が起きたんだ?」
周囲の議員たちも参列者たちも、立て続けに起こった出来事に、まだ理解が追いついていないようだった。
「ワイス夫人が……?」
「あの青年は誰だ? 殿下を襲った夫人の攻撃を受け止めたぞ!」
ざわめきが議場に広がる。
喧噪の向こうに、白夜さんの姿が見えた。
彼女は目を見開き、僕の手に握られた剣を見つめている。
どうやら、白夜さん自身もワイス伯爵夫人の攻撃を察知できていなかったようだ。
――僕は、改めてワイス伯爵夫人を見据えた。
彼女は少し離れた場所で、こちらをじっと観察している。
先ほどまで浮かべていた冷酷な笑みは、もうなかった。
代わりに、その眼差しには僕の実力を測るような鋭さが宿っていた。
「……あなた、何者?」
ワイス伯爵夫人が静かに口を開く。
「どうして、あの攻撃に反応できたのかしら?
ありえないわ」
ネイラが危険を知らせてくれた、とは言えるわけがない。
僕は剣を握り直した。
ワイス伯爵夫人の視線が、僕の全身をなぞる。
そのとき、グレイスさんをはじめとする評議会議員たちが、彼女の名を呼んだ。
「……ワイス伯爵夫人」
「ワイス議員……。あなたが、なぜ……?」
議員たちの声には、驚きと戸惑いが滲んでいた。
ワイス伯爵夫人は、グレイスさんたちへと視線を向ける。
そして、薄く笑った。
「おめでたい連中ね。
工作員が潜入していたことにも、まったく気づかないなんて」
彼女は議員たちを見回した。
「商人というのは、金勘定には聡いけれど、危機管理には疎いようね」
「何を言っているんだ……!」
男性議員の一人が声を上げる。
しかし、ワイス伯爵夫人は意にも介さず、言葉を続けた。
「ガルディウスの軍勢がラーカンクスに攻め込んでいるというのに、経済的価値のあるカルディナを、ラーカンクスが見逃すわけないじゃない」
その口調には、こちらを見下すような響きがあった。
そして、再びグレイスさんへと視線を向ける。
「グレイス議員。
あなたがユリシスをかくまってくれたおかげで、ずいぶんと余計な手間をかけさせられたわ」
議場に、張り詰めた空気が流れる。
評議会議員たちの表情から、戸惑いが消えていく。
目の前の女性が、単なる内通者ではないことを理解したのだろう。
ワイス伯爵夫人は、再び僕へと目を向けた。
「でも、まさかこんなところで邪魔されるとは思わなかったわ」
その指先で、黒い魔力が再び揺らめく。
――魔獣を思わせる鋭い眼光が、僕を射抜いた。
僕は殿下たちを背にかばい、剣を構えた。
――――――
ワイス伯爵夫人の姿が、ふっと揺らいだ。
「――消えた!?」
次の瞬間、彼女の姿は視界から完全に消え失せていた。
何だ? どこへ行った?
腕輪が淡く光る。
『対象の所在を確認できず――
闇魔力による隠蔽魔法を使用したものと推測』
『対象は闇魔力を利用し、周辺環境に自身の存在を溶け込ませています。
危険。直ちに防衛行動を推奨』
「分かってる。でも、姿が見えないんだ!」
『人間の視覚機能では認識不可。
対処戦術を変更。
観測環による周辺エリアのスキャンを開始します』
『赤外線走査開始』
その直後、僕の左手にある腕輪から淡い光が広がり、議場全体を包み込んでいく。
『熱源および動態反応を検出。
移動経路解析――次の行動位置を予測』
『分析完了。
魔導プロジェクターを起動。
可視光線により、対象の輪郭を投影します』
僕の腕輪がひときわ強く輝いた。
そこから伸びた光が、目の前に四角い半透明の画面を描き出す。
画面には、議場の様子が重ねて映し出された。
議員たち。参列者たち。警備兵。
そして、殿下たちの位置。
それぞれの姿が、淡い光を帯びた輪郭となって浮かび上がっていく。
「何、これ……? 手で触れない。光でできた画面なの?」
『はい。分析した情報を光の画素として投影し、ロキの視覚に重ねています。
この映像はロキにしか見えていません』
ネイラと出会ってから、度肝を抜かれることばかりだ。
けれど、今は感心している場合じゃない。
でも――
これなら、夫人の位置が分かる。
議場の一角に、人影の輪郭が浮かび上がった。
その輪郭は、すごい速さで移動している。
「そこか!」
僕は床を蹴った。
観測環が示す位置へと、剣を振り抜く。
ガキィン!!
何もないはずの空間から、鋭い金属音が響いた。
空中に火花が散り、ワイス伯爵夫人の姿が一瞬だけ浮かび上がる。
だが、周囲の人々には何が起きているのか分からない。
黒い外套をまとった青年が、ただ一人で剣を振るっているようにしか見えないのだ。
「ロキさん……一人で、何をしているんだ?」
ライルさんが困惑した声を漏らす。
レイスさんは目を凝らしながら答えた。
「いや……見えない何かと戦っているんだ」
何もない空間に火花が散り、金属音が響く。
そこに何かがいることだけは、誰の目にも明らかだった。
しかし、その姿を捉えることはできない。
周囲の人々は息を潜め、ただ成り行きを見守ることしかできなかった。
「貴様! なぜ私の位置が分かる!?」
ワイス伯爵夫人が、驚きを隠せない様子で声を荒らげた。




