第157話 帰港、忍び寄る影
カルディナの傭兵組合。
併設された酒場では、傭兵たちが酒を飲み交わしながら、荒々しい声を響かせていた。
奥の受付では組合職員が忙しそうに書類を整理していた。
そんな広間の入口に、この場に似つかわしくない身なりの良い二人の姿が現れた。
ラーカンクスの王族ユリシスと、グレイス家の令嬢ティアだ。
二人はラーカンクス王立学園で共に学び、互いを想い合うようになった。
今では将来を誓い合った婚約者同士だ。
ユリシスは受付へ歩み寄ると、職員に尋ねた。
「……まだ戻りませんか?」
その声には、隠しきれない心配が滲んでいた。
組合受付のリグナさんは表情を曇らせた。
「はい。今のところ、船からの連絡は入っておりません」
「そうですか……」
ユリシスは小さく息を吐き、窓の外へと目を向けた。
島へ向かったロキたちが、無事に戻ってくることを願うばかりだった。
二人は傭兵組合を後にした。
――――――
カルディナの街には、いつもと変わらず、商人たちの呼び声が響いている。
行き交う人々の表情も明るい。
この街には、戦乱の影などまだ届いていないかのようだった。
「ユリシス様……」
隣を歩くティアが、そっと声をかける。
「きっと大丈夫です。皆様なら、無事に戻ってこられます」
「……そうですね。彼らを信じましょう」
ユリシスは頷いたものの、その表情から不安が消えることはなかった。
祖国ラーカンクスの現状を思えば、胸が締めつけられる。
晴れぬ思いを抱えるユリシスの隣で、彼女は変わらず明るく微笑んでいた。
彼女は、ユリシスを気遣い、笑顔を向けてくれる。
その笑顔を見るたびに、張り詰めていたユリシスの心が少しだけ和らいだ。
今のユリシスにとって、その可憐な笑顔は、心のよりどころだった。
「こうしてユリシス様と並んでいると、王立学園の頃を思い出します」
ティアの言葉に、ユリシスは彼女へ視線を向けた。
「あの頃は、こうしてティアと婚約する日が来るとは思っていませんでした。
今、あなたが隣にいてくれることを、本当に幸せに思います」
ユリシスは懐かしむように微笑んだ。
――ふと、ティアが足を止めた。
「あら……」
視線の先には、小さな花籠を並べた花売りの姿があった。
籠の中には、赤や黄色、淡い青色の花々が並んでいる。
「かわいいお花」
ティアは目を輝かせ、花籠を覗き込んだ。
「どれも素敵ですね」
花売りが柔らかな笑みを浮かべる。
「こちらも、今朝摘んできたばかりですよ」
そう言って花売りが差し出したのは、小さな白い花だった。
可憐な花びらの中心に、淡い桃色が差している。
「まあ、かわいい」
ティアが嬉しそうに微笑む。
花売りから花を受け取ったユリシスは、彼女にそっと差し出した。
「では、私から贈らせてください」
「ユリシス様……」
ユリシスは彼女の髪にそっと手を伸ばし、その花を飾った。
ティアは少し頬を赤くしながら、嬉しそうに目を細める。
「とてもよく似合っています」
ユリシスはティアの髪を優しく撫でる。
「ありがとうございます。とても嬉しいです」
彼女は頬を染めたまま、ユリシスを見つめた。
――――――
二人は微笑み合い、再び歩き始めた。
賑わう大通りを抜け、少しずつ人通りの少ない通りへと差しかかる。
商店の並ぶ通りから一本外れただけで、街の喧騒は遠のいていった。
その様子を、離れた場所から窺う者がいた。
建物の陰に身を潜めた男たちは、ユリシスとティアの動きを慎重に追っていた。
「対象発見……」
一人の男が小さく呟き、懐に手を伸ばす。
その瞬間――
男の背後に、ひとつの影が忍び寄る。
ザシュ!
小さな闇の刃が閃き、男の首筋を一瞬で斬り裂いた。
鮮血が首筋から溢れ、男の身体が力なく崩れ落ちる。
声を上げることさえできなかった。
その傍らを、"花の香り"を残して誰かが通り過ぎていった。
路地には再び静寂が戻り、街の喧騒だけが何事もなかったかのように響いていた。
少し離れた場所では、ユリシスとティアが変わらず歩いている。
二人は、背後で何が起きたのか知る由もなかった。
――――――
朝焼けに染まるカルディナ港。
水平線の向こうから、ゆっくりと近づいてくる一隻の船影が見えた。
港では、朝早くから荷揚げの準備をしていた作業員たちが、その船に気づく。
「……あれは?」
一人の作業員が手を止め、望遠鏡を取り出した。
船影を確かめた男の表情が、ぱっと明るくなる。
「おい、みんな! 帰ってきたぞ!」
その声に、周囲の作業員たちが一斉に振り返る。
「本当か!?」
「間違いない、あの船だ!」
やがて、帰還の知らせは港中へと広がっていった。
「船が戻ってきたぞー!」
港にいた人々が次々と声を上げる。
傭兵組合の建物からも人影が飛び出してきた。
受付のリグナさんをはじめ、組合の職員や傭兵たちが港へと駆け出していく。
船影は、朝焼けを背に少しずつ大きくなっていった。
沖合からゆっくりと岸壁へ近づき、船員たちが係留の準備を進める。
やがて、船が岸壁に横付けされると、甲板にいた船員たちが港に向かって大きく手を振った。
それに応えるように、岸壁からも歓声が上がり、人々が手を振り返す。
港に響き渡る歓声を聞きながら、僕たちはようやく帰ってきたのだと実感した。
ロイス船長が、安堵の息を漏らした。
「ようやく戻ってこられましたね」
「こうして無事に帰ってこられたのは、船長のおかげです」
ロイス船長の腕がなければ、この航海は乗り越えられなかっただろう。
船長は照れたように笑うと、港の方へ視線を向けた。
「いえいえ。私は大したことはしていませんよ。
まずは、皆さんも心配しているでしょう。
傭兵組合でことの顛末を報告しましょう」
「そうですね」
僕たちは船を降り、岸壁へと足を踏み出した。
しっかりと地面を踏みしめた瞬間、ようやく帰ってきたのだという実感が込み上げる。
「……帰ってこられたんだな」
ライルさんが、しみじみと呟いた。
ビルさんも、港の景色を眺めながら息を吐く。
「もう二度と、この景色を見られないかと思ったぜ」
その言葉に、レイスさんは静かに頷いた。
「ああ。だが……あいつらも、帰してやりたかったな」
その場に、短い沈黙が落ちた。
帰ってこられた喜びと、帰ってこられなかった仲間たち。
その両方を胸に抱えながら、僕たちは傭兵組合へと向かった。
――――――




