第132話 商業都市カルディナ
カルディナ港に、どよめきが広がった。
「おい、あれを見ろ!……デス・クラーケンか!?」
港にいた人々が、沖から近づいてくる船を指差した。
船の後方には、純白の巨大な軟体魔獣が曳航されていた。
いくつもの触腕は力なく海面を漂い、その巨体は船を小さく見せるほどだった。
「いったい、どこの傭兵が倒したんだ?」
「これで、安心して漁に出られるな……」
驚きの声が飛び交う中、漁師らしき男が安堵の息を漏らした。
やがて船が岸壁に着くと、船員たちが慌ただしく動き始めた。
太い綱を引き、何人もの男たちが声を掛け合いながら、デス・クラーケンの巨体を港へと引き上げていく。
「おい、綱を緩めるな!」
「そっち、もっと引っ張れ!」
海の男たちの荒々しい叫び声とともに、ようやく魔物の巨体が岸壁へと引き上げられた。
その圧倒的な大きさに、集まった人々から再びどよめきが上がる。
そんな作業を横目に、乗客たちは次々と船を降りていく。
「黒い外套のお客様はどこに?」
船長が周囲を見回しながら、僕の姿を探していた。
そのことに気づかず、僕はひっそりと船を降りた。
――――――
商業都市カルディナ
かつてアスピア皇国の領土だったが、ガルディウス帝国のクーデターを機に独立。
以来、どの国家にも属さず、カルディナ評議会による自治のもと、自由都市となった。
それを可能にしたのが、アスピア皇国の安定した統治のもとで培われた圧倒的な経済力と、世界各地を結ぶ海上交易網だ。
大陸各国のみならず、遠方の国々とも自由に交易できるカルディナは、今や世界経済を支える重要な拠点となっている。
船を降りた僕は、カルディナ港から街へと続く大通りを歩き始めた。
長い船旅で疲れた身体に、潮風が心地よい。
目の前に広がる光景に、思わず足取りがゆっくりになる。
エルミナ共和国で過ごしてきた街とは、まるで雰囲気が違っていた。
目に飛び込んできたのは通りを埋め尽くす人々の姿。
商人たちが荷馬車を連ね、船乗りたちが大声で笑い合い、見慣れない衣装をまとった旅人たちが行き交っている。
道の両側には、大小さまざまな店が軒を連ねていた。
港町だけあって、通りのあちこちに新鮮な海産物を売る露店が並んでいる。
魔道具屋の店先には、淡く光る魔法石や、見たこともない形をした魔道具が並べられている。
さらに進めば、装飾品を扱う店や、異国から運ばれてきた珍しい品を並べる商店もあった。
露店では、焼きたてのパンや串焼きの肉が売られている。
香ばしい匂いに誘われて視線を向けると、店主が威勢のいい声を上げていた。
「さあ、焼きたてだよ! 船乗りも傭兵も、腹が減ってるなら寄っていきな!
観光のお嬢さんも、ここでしか食べられないよ」
商売上手な店主の呼び声に、周囲の客たちが笑い声を上げる。
歩いているだけなのに、次から次へと興味を引かれるものが目に飛び込んでくる。
――さすが、商業都市だ。
僕はしばらく街並みを眺めながら歩いていたが、そろそろ宿を探すことにした。
まずは荷物を置いて、ゆっくり休みたい。
ガルディウス帝国に向けて出発する前に、この街で物資の調達や情報収集をしておこう。
街をじっくり見て回るのは、明日からにすることにした。
やがて大通りから少し外れた場所に、落ち着いた雰囲気の宿屋を見つけた。
建物はそれなりに大きく、入口の脇には宿の名前が書かれた木の看板が掲げられている。
扉を開けると、食事をする客たちの話し声と、料理のいい匂いが迎えてくれた。
「いらっしゃい。お泊まりかい?」
カウンターの向こうにいた女将が、こちらに気づいて声をかけてきた。
「はい。しばらく滞在するつもりなのですが、部屋は空いていますか?」
「ええ、空いてるよ。何泊するかは、あとで決めてもらっても構わないさ」
女将は手慣れた様子で宿帳を取り出した。
「旅の疲れもあるだろうし、食事はここで取るかい?
うちの料理はなかなか評判なんだよ」
そういえば、船旅の間は落ち着いて食事を取る暇もなかった。
「せっかくですので、そうさせてもらいます」
「はいよ。荷物を置いたら下りておいで」
――鍵を受け取った僕は、二階の部屋へと向かった。
荷物を置いてひと息つくと、窓から街の様子を眺めた。
夕暮れが近づくにつれて、通りには新たな灯りがともり始めている。
昼間とは違う賑わいが、これから始まるのだろう。
そんなことを考えながら、僕は部屋を出た。
――宿の食堂は、観光客や旅の行商人で賑わっていた。
持ち帰り用の料理を受け取る客の姿もあった。
この宿は、宿泊客だけでなく、一般客にも料理を提供しているらしい。
僕は女将に案内されたテーブルに腰を下ろした。
「この街は海産物が特産品だからね。海の幸を使った料理が売りなのさ」
そう言って女将が運んできたのは、香ばしく焼き上げた魚と、貝の入ったスープだった。
焼き魚からは食欲をそそる匂いが漂い、思わずお腹が鳴りそうになる。
「お酒は飲めるんだろう? 一杯やっていくかい?」
「では、一杯だけいただきます」
エルミナ共和国では十八歳から成人となり、お酒も飲めるようになった。
とはいえ、正直なところ、僕はそこまで酒に強くない。
ただ、せっかく勧めてもらったのだから、少しだけいただくことにしよう。
もちろん、任務に支障が出ないよう、飲みすぎには気をつけないと。
料理を口に運んでいると、女将がこちらへやってきた。
「旅のお兄さん、うちの料理はどうだい?」
「とても美味しいです。この焼き魚は香ばしくていいですね」
「そりゃよかった! 朝から市場で新鮮な魚を競り落としているんだよ」
女将は嬉しそうに笑うと、ふと思い出したように続けた。
「そうそう、今日、港にこの辺りの海の主、クラーケンが引き上げられたって話だよ。
あれも身が引き締まっていて、焼いて"ひしお"を垂らすと、これがまた絶品なんだってさ」
「へぇ……あれが」
思わず、そんな声が漏れた。
女将は気づく様子もなく、楽しそうに続けた。
「うちでも仕入れられたら、お兄さんにも食べさせてあげるよ」
どうやら、討伐されたデス・クラーケンは、早くも街の料理人たちの注目を集めているらしい。
「ところで、あれを仕留めたのは、若い剣客だって話だよ」
女将が声を潜める。
「船が港に着いたあと、どこかへ行っちまったそうでね。船長が探し回っていたらしいよ」
……すっかり、船長さんのことを忘れていた。
まぁ、今さら戻るわけにもいかないし、いいや。
「ところで、女将さん。このあたりに旅の物資を調達できる店はありますか?」
「それなら、通りの中央にあるルマンド商会がいいんじゃないかね。
この街一番の大商会で、薬や食料まで何でも揃うんだ。
旅人はだいたい、そこで買い物をするよ」
「ありがとうございます。明日、行ってみます」
――食事を終える頃には、すっかり満腹になっていた。
女将に礼を告げ、食堂を後にする。
二階の部屋へ戻る途中、階下からは客たちの賑やかな話し声や笑い声が聞こえてきた。
窓の外に目を向ければ、大通りにはまだ多くの人々が行き交い、店先からは威勢のいい呼び声が響いている。
夜になっても、この街の活気は衰える気配がない。
明日は、どんな景色が見られるだろうか。
そんなことを考えながら、僕は部屋へと戻っていった。




