第131話 海の魔獣と旅の青年剣士
デス・クラーケンの牙が、宙に吊り上げられた侍女へと迫る。
次の瞬間――
僕は甲板を駆け、左舷の縁を蹴った。
船体から大きく身を躍らせ、空中へと跳び上がる。
狙うは、侍女の身体を絡め取る白い触腕。
抜刀一閃――。
どんな攻撃も吸収してしまいそうな弾力質の肉。
黒い外套をまとった謎の青年剣士――その鋭い一閃が、分厚い肉をいともたやすく斬り裂いた。
断ち切られた触腕が、海水を撒き散らしながら宙を舞う。
やがて、切り離された触腕が甲板に落下した。
本体から離れてなお、吸盤の並ぶ白い肉が、激しくのたうつ。
「何が起きた……!?」
護衛の一人が呟き、周囲の者たちが息を呑んだ。
支えを失った侍女の身体が、宙へ投げ出される。
――僕は空中で身を翻し、彼女の身体を両腕で抱き留めた。
そして、そのまま甲板へと着地する。
「……ご無事ですか?」
腕の中の侍女に、静かに声をかける。
彼女はすぐには答えられなかった。
死を覚悟した、まさにその瞬間。
見知らぬ青年が現れ、自分を救い出したのだ。
あまりにも立て続けに起きた出来事に、言葉が出てこない。
身体は震え、足がすくんで力が入らなかった。
それでも――彼の腕の中にいることに、不思議な安堵を覚えていた。
自分をしっかりと支える腕。
少しも揺るがない眼差し。
そして、危機の最中にあっても乱れない落ち着いた、優しい声。
気づけば彼女は、目の前の青年を呆然と見つめていた。
「……あ、はい……ありがとうございます」
ようやく絞り出した声は、かすかに震えていた。
――――
「ここは危ないので、後ろに下がっていてください」
僕は彼女をそっと甲板に下ろすと、すぐさまデス・クラーケンへと向き直った。
その一連の光景を、護衛も、船員も、貴族も、商人も――誰ひとり、信じられないものを見るように見つめていた。
船に備え付けられた、対海洋魔獣用の巨大な船槍でさえ、容易には傷つけられなかった触腕。
それを、この青年はたった一振りの剣で斬り落としたのだ。
誰もが、あっけにとられていた。
デス・クラーケンの巨体からは、なおも幾本もの触腕が伸びてくる。
甲板を這い、船縁に絡みつき、船体を引き裂かんとする白い触腕。
だが――
僕は迫る一本を斬り払った。
続けざまに身を翻し、二本、三本と、次々に触腕を斬り落としていく。
鋭い剣閃が走るたび、分厚い肉が裂け、白い触腕が甲板に落ちた。
「ギィイイイイッ!!」
デス・クラーケンのけたたましい悲鳴が、海上に響き渡る。
僕はそのまま間合いを詰め、白い巨体の本体へと迫る。
――先ほどまで船を沈めかねない脅威だった魔獣が、今や一方的に斬り刻まれていた。
「な、なんだ……あいつは……」
護衛の一人が、呆然と呟いた。
船員も、貴族も、商人も、誰ひとり動けない。
目の前で起きていることが、信じられなかった。
――魔獣の本能が警鐘を鳴らしていた。
自分より遥かに小さく、弱いはずだった獲物。
それが今、自分の身体を切り裂き、圧倒している。
理解する知能などなくとも、本能は悟っていた。
目の前の"小さな存在"は、狩るべき獲物ではなかった。
自分が狩られる側なのだと。
目の前の存在に怯えたデス・クラーケンは、大きく身をよじった。
残された触腕を海へと引き戻し、巨大な身体を沈めて逃げようとする。
「逃がすものか……」
僕は剣を構えたまま、海面へと視線を向けた。
ここで逃がせば、再び別の船が襲われるかもしれない。
そう考えた僕は、腰のバッグへ手を伸ばした。
旅立ちの際、魔道具職人のリワードさんから餞別として受け取った魔法球。
その中にあった、氷の魔法球を取り出す。
ひんやりとした感触に、魔工科の授業が思い出される。
クラーケンの巨体が、海面へ沈み込もうとした――その瞬間。
僕は氷の魔法球を、海へ向かって投げ放った。
――――
――青白い魔力が弾けた。
次の瞬間、デス・クラーケンの周囲の海水が、一気に凍りついた。
海中へ逃れようとしていた巨体が、氷に絡め取られ、動きを封じられる。
僕は凍りついた海面へと飛び乗った。
デス・クラーケンは、目の前の“小さな存在”に恐怖した。
そして――
その手に握られた、"光るそれ"からは、とても古く、自分より遥かに強大な捕食者すら切り刻まんとする、巨大な、途方もなく巨大な底知れぬ飢えが滲み出ていた。
デス・クラーケンは、抗いようのない恐怖に駆られ、必死にもがいた。
――ザシュッ!
太陽の光を反射した刃が、デス・クラーケンの頭部を深々と貫いた。
ギギャー!!
耳をつんざくような魔獣の断末魔が、海上に響き渡る。
頭部から青い血が噴き出す。
巨体が何度も痙攣したあと、動きを止めた。
巨大な海洋魔獣、デス・クラーケンは息絶えた。
――――
――静寂が、甲板を支配した。
誰もが、目の前の光景を信じられずにいた。
つい先ほどまで、船を沈めかねない脅威だった巨大魔獣。
それを、たった一人の青年が剣で倒したのだ。
「…………」
護衛たちも、船員たちも、貴族も商人も、そろって目を丸くしていた。
やがて、誰かが叫んだ。
「や、やったぞおおおっ!!」
「デス・クラーケンを倒しやがった!!」
「すげえええっ!!」
堰を切ったように歓声が沸き起こる。
船を包んでいた恐怖が、一気に歓喜へと変わっていった。
「兄ちゃん、やるなあ!」
駆け寄ってきた護衛の一人が、親しげに僕の肩へ腕を回してきた。
「まさか、あの化け物を剣で仕留めちまうとはな! いったい何者なんだ?」
魔法文明のこの時代、魔獣との戦いは魔法が主流だ。
皆が珍しい様子で僕の剣を眺めている。
近くにいた商人も興奮した様子で声を上げた。
「見事な魔法球ですな……!」
商人の関心は、僕が氷結に使った魔法球へと向けられていた。
「周囲の海水だけをあれほど効率よく凍結させるとは……。
いったい、どこであのような魔法球を?
あれほど魔力効率に優れた品、一級品に違いありませんな」
商人は感嘆の声を漏らしたあと、にこやかに笑った。
「カルディナにお着きになりましたら、ぜひ私の店にもお立ち寄りください。
今回のお礼も兼ねて、あなた様には特別にサービスさせていただきますよ」
どうやら、魔獣を倒したことだけでなく、魔法球の性能にも強く興味を惹かれたらしい。
――さすが、リワードさんだ。
旅立ちの際、何気なく渡された品だったが、あらためてその技術のすごさを思い知らされた。
今度は、あの貴族が近づいてきた。
「君、なかなか腕が立つようだな」
「どうだ? 私の護衛として雇われる気はないか。報酬なら、悪いようにはせんぞ」
その口ぶりには、こちらが誘いを喜んで受けると疑っていないような響きがあった。
僕は苦笑を浮かべ、丁寧に頭を下げた。
「お誘いはありがたいのですが、私は作法も心得ていない、ただの旅の剣士です。
私のような者がそばにいては、貴族様の家名に傷がついてしまいます」
「そうか。気が変わったら、いつでも声をかけるといい」
貴族は少し残念そうにしながらも、どこか当然のような顔でうなずいた。
「……あの、助けていただいて、本当にありがとうございました」
不意に、控えめな声が聞こえた。
先ほど助けた、貴族に仕える侍女だった。
彼女のそばには、ほかの侍女たちも集まっている。
「あの……お礼に、お食事やお飲み物をご用意させていただけませんか?」
皆、どこか熱のこもった眼差しで僕を見つめていた。
剣士が珍しいのだろう。
「いえ、お気になさらず」
僕が答えると、彼女は少しためらったあと、恥ずかしそうに口を開いた。
「あの……お名前だけでも、教えていただけませんか?」
「私は、剣の修行をしながら旅をしている流れ者です。
名乗れるような身分ではありませんので、本当にお気になさらないでください」
そう答え、僕は軽く会釈すると、その場を離れた。
黒い外套をまとった青年の後ろ姿を、侍女たちは、興奮も冷めやらぬまま名残惜しそうにいつまでも目で追っていた。
――ノクス様から、目立つなと言われていたはずなのに……。
いきなり失敗してしまったかな。
そんなことを考えながらも、僕は小さく息を吐いた。
けれど、幸いにも犠牲者を出さずに済んだ。
それなら、今はそれでいい。
――――
――僕が船室に戻ると、船長が訪ねてきた。
「このたびは、本当にありがとうございました。
あのデス・クラーケンは、傭兵組合でも討伐依頼が出されていた、近海の主なのです。
あなたがいなければ、船も乗客もどうなっていたことか……。乗員乗客を代表して、心より感謝いたします」
船長は深々と頭を下げた。
「いえ、船が無事でよかったです」
船長は続けた。
「討伐の証拠として持ち帰れば、傭兵組合から相応の報奨金が支払われるはずです。
それに、肉も美味で、素材にも価値があります。
ぜひともカルディナまで運びたいのですが、よろしいでしょうか?」
僕は異存がなかったので、軽くうなずいた。
船長の指示を受け、船員たちが動き出す。
ロープを巨体へと掛け、船尾に繋ぎ留めていく。
さらに、船に乗り込んでいた魔導士が氷魔法を用い、鮮度を保つための処置を施した。
「それにしても、とんでもない大きさだな……」
海面に浮かぶデス・クラーケンの巨体を見つめ、船員の一人が感嘆の声を漏らした。
こうして、デス・クラーケンは船尾に曳かれながら、カルディナ港へと運ばれることになった。
――――――
あの一件以来、船内では僕のことがちょっとした話題になっていた。
「エルミナの森で、商人の馬車が魔獣に襲われて、若い剣士に助けられたって話があっただろ?」
「ああ、あれか。ひょっとして、あれも彼なのか?」
そんな会話が、乗客たちの間から聞こえてくることもあり、船内を歩くときは、なるべく人目を避けるようにしていた。
そんな船旅も、五日目を迎えた。
「おう、兄ちゃん!」
甲板を歩いていると、あのとき一緒に戦った護衛の一人に声をかけられた。
「時間があったら、カルディナの酒場で一杯やろうぜ!」
彼は、まるで昔からの知り合いであるかのように、気さくな笑顔を浮かべていた。
「俺ら、カルディナの傭兵組合に所属してて、いつもそこの酒場でたむろしてるからさ。
この前の礼も兼ねて、俺がおごってやるよ!」
「はは……機会があれば、ぜひ」
僕がそう答えると、護衛は満足そうに笑った。
「おう、楽しみにしてるぜ!」
――そのとき。
「まもなく、カルディナ港に入港します!」
船員の声が、甲板に響き渡った。
僕は手すりのそばへ歩み寄り、前方を見やった。
水平線の向こうに、いくつもの帆船が浮かんでいる。
その奥には、海岸沿いに広がる巨大な街並みが見えた。
無数の船が行き交い、港には大勢の人々が行き交っている。
海と陸を結ぶ、交易の一大拠点。
商業都市カルディナ――。
僕は、これから訪れる街を静かに見つめていた。
やがて船が港へと近づくと、乗客たちは降船の準備を始めた。
――――




