第129話 出航の汽笛と大海原
エルミナ共和国を出発して一週間。
僕は、エルミナから東方に位置する港街にいた。
快晴の空の下、港には多くの商船や旅人が集まり、出航を待つ船の汽笛が響き渡っていた。
旧アスピア皇国――現在のガルディウス帝国は、エルミナ共和国の北方に連なる山脈を越えた先、アスピア地方にある。
本来なら、飛竜リオの背に乗り、山脈を越えて向かうのが最も早いが、現在はガルディウス帝国の警戒が厳しくなっている。
空を飛んで山脈を越えれば、目立ちすぎてしまう恐れがあった。
余計な騒ぎを起こすわけにもいかず、僕は遠回りを承知で海路を使い、アスピア方面へ向かうことにしたのだった。
港沿いの食堂で食事をしていると、近くの席から商人たちの話し声が聞こえてきた。
「そういや、こないだ森で魔獣に襲われた商人の馬車があったらしいな」
「ああ、聞いたぜ。護衛も手に負えないほどの魔獣だったそうじゃないか」
「それを助けたのが、旅の剣士だったって話だ。まだ若いのに、たいした腕前だったらしい
――しかも、礼を言う間もなく立ち去っちまったそうだ。名乗りもしなけりゃ、報酬も求めなかったんだと」
「へえ。今時剣士とは珍しいな。うちの護衛に雇いたいくらいだ」
商人たちは感心したように笑い合っていた。
――食堂を出ると、青く澄み渡った空が広がっていた。
頭上ではカモメたちが鳴き交わし、潮風に乗って白い翼を翻している。
海から吹きつける風は心地よく、潮の香りが鼻をくすぐった。
港には大小さまざまな船が並び、帆柱やマストが青空に向かって伸びていた。
船員たちの威勢のいい掛け声が飛び交い、荷を積み込む者や、出航の準備に追われる者たちで活気に満ちている。
その中でも、ひときわ目を引く大きな船があった。
幾本ものマストを備えた堂々たる船体は、白い帆を畳んだまま静かに港に停泊している。
船縁には磨き上げられた装飾が施され、船首には波を切り裂くような意匠が刻まれていた。
アスピア地方へ向かう定期船だ。
本当は、それなりの船代がかかるのだろうが、賢者ノクス様からいただいた路銀のおかげで、こうして船を利用することができた。
――そのとき
港に設置された拡声器から、明るい案内の声が響き渡った。
『アスピア地方、商業都市カルディナ行きの船は、まもなく出航いたします!
ご乗船のお客様は、お早めに乗船口までお越しください』
案内を聞いた人々が、次々と乗船口へと向かい始めた。
大きな荷物を抱えた商人たち。
上等な衣服に身を包んだ貴族らしき一団。
その傍らには、杖を携えた魔導士や、"見慣れない武器"を手にした護衛たちの姿もある。
――あれは、魔導砲……?
学院の授業でその存在を習ったことはある。
魔力を蓄積し、筒状の銃身から撃ち出す開発されたばかりの魔道具だが、実物を見るのは初めてだった。
船員たちの誘導に従い、彼らは慣れた様子で船へと乗り込んでいった。
ガルディウス帝国のクーデターは、この地に暮らす人々の心にも暗い影を落としていた。
先行きの見えない情勢に、不安を募らせる者も少なくない。
それでも、港には今日も多くの船が行き交い、人々はそれぞれの暮らしを続けていた。
――――――
やがて、乗船を終えた船員たちが、出航の準備を整え始めた。
ほどなくして、港いっぱいに重厚な汽笛が鳴り響く。
ボォォォ――ッ!
その音を合図に、船はゆっくりと岸壁を離れ始めた。
船体がわずかに揺れ、港の景色が少しずつ遠ざかっていく。
岸壁に並ぶ人々や、荷下ろしに追われる商人たちの姿も、次第に小さくなっていった。
――やがて船は港を抜け、広大な海へと進み始めた。
僕は船室の窓から、遠ざかっていく港街の景色を眺めていた。
ガルディウス帝国……。
あの国では今、いったい何が起きているのだろうか。
彼らは、一体何を目指しているのだろうか。
これから先、何が起きるのか分からない。
不安は尽きなかった。
しばらく考えを巡らせていたが、今ここで答えが出るわけでもない。
僕は小さく息を吐き、気分転換に潮風でも浴びようと、船室を出て甲板へ向かった。
――甲板に出ると、心地よい海風が頬を撫でた。
見渡す限り、青い海が広がっている。
白い波が船体にぶつかっては砕け、船の後方には長い航跡が続いていた。
甲板には、ほかの乗客たちの姿もあった。
日除けの設けられた一角では、上等な衣服に身を包んだ貴族らしき男女が、テーブルを囲んで優雅に談笑している。
テーブルには果実酒や軽食が並び、彼らは船旅そのものを楽しんでいるようだった。
少し離れた場所では、裕福そうな商人たちが椅子に腰掛け、海を眺めながら商談を交わしていた。
その周囲には護衛らしき者たちが控え、船員たちは乗客の求めに応じて飲み物を運んでいる。
この定期船は、単に人や荷物を運ぶだけではなく、裕福な者たちが快適な船旅を楽しめるように造られているらしい。
僕は賑やかな一角から少し離れ、手すりに寄りかかった。
そして、ただ大海原を静かに見ていた。
――――
それまで穏やかだった船上の空気に、わずかな変化が生じ始めた。
船員たちが慌ただしく動き回り、甲板のあちこちで短い指示が飛び交っている。
ふと船首のほうに目を向けると、見張り台の船員が望遠鏡を覗き込み、進路の先を凝視していた。
やがて、何かを発見したのか、見張りは望遠鏡から目を離すと、後方に向かって大きく手を振り、合図を送った。
それを受けた船員たちの表情が、にわかに険しくなる。
しかし、甲板の一角では、貴族らしき男女が相変わらず優雅に談笑していた。
テーブルに並んだ果実酒を口に運び、楽しげな笑い声を上げている。
少し離れた場所にいる商人たちも商談に夢中で、船上の異変には気づいていないようだった。
だが、その周囲に控えていた護衛たちは違った。
船員たちの動きに気づいたのか、彼らの雰囲気が一変する。
鋭い視線が船首の先へと向けられ、何人かはさりげなく主人のそばへと位置を変えた。
――何かあったのか?
僕は船首へと向かい、船員たちが見つめる進路の先に目を凝らした。
――――――




