第128話 旅立ち
――旅立ちの前夜。
聖浄院で過ごす、最後の夜。
夜空には無数の星が瞬き、静かな光を地上へと降り注いでいた。
昼間の喧騒が嘘のように、辺りは静まり返っている。
明日には、ここを発つ。
そう思いながら星空を見上げていると、不意に背後から声をかけられた。
「ロキ・グレイシア」
突然の呼び声に振り返ると、いつの間にか闇の賢者ノクス様と、一人の女性が立っていた。
花売りの格好をした彼女は、僕とそれほど変わらない年齢に見える。
すらりとした細身の体つきに、どこか儚げで上品な佇まい。
ほのかに漂う花の香りと、吸い込まれるような眼差しには、思わず胸が高鳴ってしまう不思議な魅力があった。
とても軍人には思えなかった。
「この者の呼称は白夜。闇の隊の斥候部隊を率いる隊長だ」
「隊長……? この女性が……」
目の前の女性と、斥候部隊を率いる隊長という肩書きが、どうしても結びつかなかった。
女性は静かに頭を下げた。
ノクス様は、そんな彼女に目を向けた。
「色香に惑わされ、情報を洗いざらい吐かされた者は数知れず。
暗殺においても、白夜の右に出る者はいない」
ノクス様は、淡々と続けた。
「見た目に惑わされると、痛い目を見るぞ」
背筋に冷たいものが走った。
冗談めかした忠告には、とても聞こえなかった。
「初めまして。ロキです。よろしくお願いします」
白夜さんは小さくうなずいただけで、それ以上は何も語らなかった。
ノクス様は淡々と続けた。
「帝国領内には、彼女の部下である斥候たちも各地に潜伏している」
そう言って、ノクス様は小さな石を差し出した。
渡されたのは通信石だった。
学院の授業でも習った、微弱な魔力を信号に変えて交信する魔道具。
僕は石を受け取り、手の中で確かめた。
「白夜には、対となる通信石を持たせてある。
帝国内での連絡は、基本的に彼女を通して行うことになる」
続いて、ノクス様は小袋を差し出した。
「任務に必要な路銀だ。宿代や旅の食糧に使え」
「ありがとうございます」
僕が礼を述べると、ノクス様は小さくうなずいた。
「くれぐれも目立たぬように行動しろ。各国にも隠密がいる。
どこに敵対勢力の斥候が紛れ込んでいるとも限らぬ。捕まれば、命はないと思え」
その言葉に、任務の危険さと責任の重さをあらためて思い知らされた。
ノクス様はそれ以上何も語らず、白夜さんとともに闇の中へと姿を消した。
まるで、最初からそこには誰もいなかったかのように。
僕は二人が消えた闇を見つめながら、通信石を握りしめた。
――――――
――――――
―――出発の朝。
身支度を整えた僕は、聖浄院の門をくぐった。
門の外では、アミリアとレイン先生、リリーナが僕を待っていた。
そして、聖浄院の前の広場には、これまでお世話になった学院の仲間たちも集まってくれていた。
ミール先生が、いつもの調子で声をかけてくれた。
「ロキ、気をつけて行ってこい。
お前の席はずっと残しておくから、必ず帰ってこい!」
卒業まで、あと半年。
本来なら、学院で残りの課程を修めるはずだった。
けれど、今回の旅で得た経験を残りの課程に相当するものとして扱ってもらえることになった。
無事に帰還すれば、卒業も認められる。
それでも、ミール先生の言葉が嬉しかった。
「はい。必ず」
魔欠けと蔑まれ、一人きりだった僕を、いつも支えてくれた先生。
伝えたい感謝の言葉は、いくつもあった。
けれど、先生の目がわずかに潤んでいるのを見たら、それ以上は何も言えなかった。
ニールとルミ、リオナ、それにサラも来てくれていた。
「無茶しちゃ駄目だからね。ちゃんと帰ってきてよ」
「また、皆でレストランに行こうね」
リオナも何か言いたげに僕を見つめていたが、やがて小さく微笑んだ。
「……元気でね、ロキ。
あなたのお陰で、私も少し変われた気がする。ありがとう」
魔工科で過ごした日々。学院の実習、皆と過ごした休日。
そんな何気ない日常が、今はとても愛おしく感じられた。
「みんなも元気で」
僕は一人ひとりに目を向け、そう答えた。
――少し離れた場所には、リーフとジョシュア達もいた。
二人とも、以前のように僕を見下すような態度は見せなかった。
リーフは何か言いたげに口を開きかけたものの、結局、何も言わなかった。
そして、軽く手を振る。
ジョシュアもまた、僕の目を見て小さくうなずいた。
言葉を交わすことはなかったが、それで十分だった。
――――――
アミリアが、僕の前に立った。
昨夜、二人で交わした言葉はもう十分だった。
彼女はしばらく僕を見つめたあと、静かに微笑んだ。
そして、何も言わずに、小指をそっと差し出した。
あの日に交わした、約束。
「必ず帰ってくる」
僕たちは短く言葉を交わし、互いの顔を見つめた。
「ロキお兄ちゃん、アスピアをお願い……」
リリーナは、今にも泣き出しそうな顔で僕を見上げていた。
「うん。アスピアのことも、君の願いも、ちゃんと胸に刻んでおく。
だから、待っていてね」
僕は膝を折り、その小さな手をそっと握った。
――――――
レイン先生は神妙な面持ちで口を開いた。
「ロキ君。ガルディウス帝国の戦士団、その中でも『六駒』には、くれぐれも気をつけなさい」
その声には、いつになく張り詰めた響きがあった。
「周辺諸国の噂では、彼らが振るう剣は、戦場に血の雨を降らせるほどの凶剣
――その戦いぶりから、今では血の刃と呼ばれているそうです」
僕は黙って耳を傾けた。
「もともと、アスピア戦士団は集団戦法を得意としていました。
六駒は、その中でも特に優れた六人で構成された精鋭部隊です」
レイン先生は、一つずつ言葉を選ぶように続けた。
「勇猛のポーン。跳躍のナイト。飛翔のビショップ。剛腕のルーク。神速のクイーン。
そして、知略のキング」
それぞれの異名をもつ彼らは、武器も戦い方も異なり、卓越した技量を誇る六人。
「彼らは一人ひとりが達人です。
しかし、本当に恐ろしいのは、六人が揃ったとき。
己を一つの駒と心得、命を懸けて与えられた役割を果たす」
レイン先生の表情は険しいままだった。
「かつて不意打ちを受け、苦渋を舐めた彼らは、そのときの敗北を糧に、さらに技を磨いている可能性が高い。
君が目にした戦士たちよりも手強くなっていると考えたほうがいいでしょう」
先生は、わずかに声を落とした。
「一対一ならば、勝機はあるかもしれません。
ですが、六人が揃えば勝ち目はありません。決して戦ってはいけません」
先生は僕の目をまっすぐに見据えた。
手が震える。
「いいですね?」
「わ、わかりました」
レイン先生の言葉を胸に刻み、深くうなずいた。
「無謀に命を懸けることと、己を磨くことは違います。
必ず生きて帰りなさい」
自分を奮い立たせる。
「はい。これまで、本当にありがとうございました」
――見送る人々の姿が、少しずつ遠ざかっていく。
――――――
こうして、魔欠けの少年は、エルミナの民の期待を背負い、まだ見ぬ地へと歩き出した。




