第113話 無色の勇者
シルフィアは震えていた。
その端正な顔に、初めて“怒り”の色が宿る。
理知的なはずの表情は、もう保てていなかった。
二千年に及ぶ計画と祈願を失った者の表情は、気品ごと崩れ落ち、震えていた。
風が乱れ、シルフィアの周囲の魔力が不安定に揺らぐ。
長い緑の髪が、裂けるように風に舞った。
しかし――大結界を再び解呪するほどの魔力は、もはや彼女には残っていなかった。
シルフィアは震えながら、静かに立ち尽くしていた。
――次の瞬間。
シルフィアの周囲に、風の奔流が立ち上がった。
シルフィアが、飛竜の背で涙を落とすリリーナを、憎悪に満ちた目で射抜く。
「時の巫女さえいなければ……」
これまで賢者と呼ばれたほどの魔導師が、幼い少女に異様な殺意を向ける。
「数年前、エルミナ共和国に“時の巫女”が外遊に来ると聞いた時、嫌な予感はしていたわ。
――ジークと大蛇を使って始末を画策したけれど、魔欠の坊やのおかげで失敗に終わった……」
声は震え、後悔の念に満ちている。
「あの時、巫女を仕留めず、古代信仰の蛮族と交錯させてしまったことが、間違いの元だったわ…」
風が軋み、空気が震える。
シルフィアの背後に、風の紋章が巨大な輪となって展開する。
「時の巫女は、いずれヴァルシエル王朝に災いをもたらす……
七理の刃が完成する前に始末しなければ……」
その声音は、時の魔力が世界の理を揺るがすほどの力であり、その導きの果てにもたらされる結果を何より恐れていることを滲ませていた。
かつて風の賢者と呼ばれたシルフィアの言葉に、賢者たちも魔導師団の兵たちも――ただ、息を呑んだ。
誰ひとり、続けて言葉を発する者はいない。
古代王朝の血を引く女魔導士の――
近代の歴史で語られぬ、古代文明の核心に触れる思想が、その場の空気を静かに、しかし圧倒的に支配していた。
――――
――シルフィアの鋭い詠唱の声が響く。
「天を断つ風の法」
幼い少女に向けるにはあまりにも過ぎた、冷たく容赦のない大魔法が放たれた。
次の瞬間――
風の奔流を裂くように、影がひとつ飛竜の背から降り立った。
レイン先生だった。
レイン先生は、迷いなくリリーナを抱き寄せ、その小さな身体を腕の中に庇う。
同時に、レイン先生の剣が静かに光を帯び、鋭い剣圧がシルフィアの大魔法の中心へと走る。
――斬り散らした。
風の紋章が砕け、奔流は緑の残光を散らしながら霧散した。
レイン先生は、涙に震えるリリーナを抱きかかえ、もう片腕で剣を握る。
そして、揺るぎない足取りで前へと踏み出した。
「この子を傷つけることは許さん……」
その声音は、静かでありながら、鬼人の如き鬼気を帯びていた。
――――
――レインは、開戦の際のエレオノーラとの謁見を思い出した。
あの時、彼女はすべてを悟っていたのだろう。
自分が背負う運命も、リリーナの涙も、そして、この結末も。
最後に見せた、あの静かな微笑。
皇女としての覚悟と、母としての祈りが滲んだ表情。
その面影が、レインの胸にふっと浮かぶ。
レインは、腕に力を込めた。
エレオノーラとの約束を……決して違えるまいとするように。
ロキが巣立った今からは、この幼い少女を……時の巫女たるリリーナを守る――
時の魔力は干渉してはいけない理。
邪悪な者に、決して触れさせてはならない。
勇者を導く使命を負う巫女を守護し、
そのために剣を振るい、
そのために生きる。
剣聖レイン・カグヤは、ただ静かにリリーナを抱きしめ続けた。
その腕の中で、リリーナは小さく震えていた。
――――
シルフィアは、憎悪と焦燥を混ぜた視線でレイン先生を見据える。
「ジーク教の司祭を討った男……どこまでも邪魔を……!」
語尾が震え、押し殺していた苛立ちが、声の隙間から漏れ出す。
「それなら、残りの魔力すべてを使って……
この場にいる者をひとり残らず葬ります」
シルフィアは震える指先で空気をなぞるように紋章を描き始めた。
風が唸り、空気が裂ける。
彼女の唇が、かすかに震えながら詠唱を紡ぐ。
「――風よ、我が怒りを聞き届け……すべてを切り刻む刃となり吹き払え……!」
詠唱を告げた瞬間、風の極大魔法が、戦場を呑み込むように解き放たれた。
極大魔法が迫る――
空気が裂け、風が悲鳴を上げる。
――――
レイン先生が、僕へと視線を送った。
長年、子弟として剣を交えてきたものどうしだけに伝わる、静かな信頼が宿る眼差しだった。
言葉はない。ただ、“託す”という意志だけが、確かに伝わった。
僕は剣を握り直す。
「アミリア、ありがとう……なんとか動ける。あの魔法は、僕が……」
アミリアが泣きそうな声で遮る。
「無茶だよ……!あれは“風の賢者”の大魔法なのよ……!」
僕は、ゆっくりと顔を上げた。
「大丈夫だよ、アミリア……」
シルフィアの魔法は、確かにすごい。
風が唸り、空が軋み、世界が揺れるほどの力だ。
――君が連れていかれたあの日、弱かった僕は、何度も悔やんで泣いた。
心が折れ、魔法の道を歩めなくなった僕は――剣だけを選んだ。
魔法が使えなくても、君を守れるようになりたかった。
けれど、あの頃の僕には、その力がなかった。
僕は、二千年前の時代をリファーナさんと――大賢者ラズウェル様と過ごした。
そして、勇者ローディンの志を継ぐと決めた。
シルフィアの魔法を前にしても、なぜか心は落ち着いていた。
あれほどの力を目の当たりにしているのに、不思議と恐怖はなかった。
今の僕なら、きっと――。
その決意を胸に、僕は剣を握り直した。
――――
――――
――剣が、静かに光を帯びた。
その瞬間、シルフィアの視線が僕を射抜いた。
風が止まり、空気がわずかに軋む。
「息絶えなさい!……古代戦士!」
怒りと、純粋な殺意が僕へ向けられる。
周囲の視線が、一斉に僕の剣へと吸い寄せられた。
――僕は構える。
「七理の法剣……虹の刃……」
風の奔流が迫り、足元の砂が吹き飛ぶ。
――ただ一閃
「虹閃斬――!」
光が走る。
高速で振り抜かれた抜刀の剣圧が、七色の光をまとって放たれる。
魔力を断つ七色の光が、迫りくる風の奔流を真っ二つに断ち割った。
――その直後、虹の刃がシルフィアの体をすり抜ける
オリハルコンの刃が、この時を“待ちかねていた”かのように輝き、シルフィアの華奢な身体へ吸い込まれた。
七色の残光だけが、戦場に弧を描いた。
緑の魔力の奔流は、無色に帰す。
七色の光は散り、風の理がほどけ、ただ無色の静寂だけが残った。
光の使徒――
光の女神を信仰する古代アルテミナ神殿の神官が、魔を祓い、厄災ガイアビナスの魔力を"無色"へと還す聖戦士に授けた称号。
その静寂は、光の女神から魔法の色(加護)を授からず、“魔欠けの出来損ない”と嘲笑され泣いてきた少年に与えられた、本当の加護の意味を静かに告げていた。
――――
向こうに――シルフィアの姿があった。
彼女は、信じられないものを見るように目を見開いていた。
シルフィアの顔が、初めて“恐怖”に染まり、震える。
「……そんな……蛮族の剣が私の魔法を……」
言葉は最後まで続かなかった。
風が止み、空気が静まる。
シルフィアは、ゆっくりと視線を落とし、自分の胸に残っている光の直線を見つめた。
「……二千年……ここまで積み上げてきたのに。…忌々しい虹…ネイ…ガイア…」
息が途切れ、その名を吐き捨てるように零した。
それは、最後まで古代文明の遺志を――忌み嫌う声だった。
足元が崩れ、長い緑の髪がふわりと舞う。
「……ヴァルシエル……王朝に……栄光……あれ……」
最後の言葉は、風に溶けて消え、シルフィアの身体は、二千年の祈願とともに崩れおちた。
――――
僕は剣を納め、静かに目を閉じた。
「……終わった……」
風の賢者シルフィア……否。
……ヴァルシエル王朝の魔導士シルフィアは死んだ。
――戦場に、穏やかな風がそっと流れた。
さっきまでの奔流が嘘のように、静かな余韻だけが残った。




