第111話 解かれる大結界
――聖浄院の大結界
その“核”は、地面に刻まれた巨大な魔法陣だった。
床一面に広がる紋様は、六賢者が魔力で維持してきた封印の“蓋”にすぎない。
結界の間は、そのまま地下深くへと続いている。
大結界の術式の本体は、地中のさらに奥、古代文明が残した層にあった。
そこは、大賢者が施した ガイアビナス召喚の術式を覆い隠すように、高度な封印術式の層が幾重にも重なっていた。
地下室には、円環状の石壁、魔力を蓄える水晶柱が立ち並び、そして中心に“ガイアビナス”が封じられている。
四億年前、古代文明がその使役に失敗し、世界を滅ぼした厄災。
二千年前、エグザリア・ジークが復活させ、勇者ローディンがこれを退けた。
そして、大賢者ラズウェルが封じ直した。
その封印を維持するために、聖浄院は建てられた。
そして今、シルフィアの詠唱が、その封印をゆっくりと“逆回転”させようとしている。
石材が軋み、地下から吹き上がる風が、聖浄院の内部を震わせた。
封印が解け始め、大結界の奥で何かが目を覚まそうとしている。
――シルフィアの声が響く。
「古代呪法――解呪の法……反転せよ……」
その瞬間――大結界が、爆ぜた。
光が弾け、空気が裂け、聖浄院全体が白く染まる。
轟音とともに光が“裏返り”、大結界を覆っていた魔力の膜が砕け散るように四方へ飛び散った。
床の魔法陣が悲鳴を上げるように震え、石材が割れ、地下から黒い風が噴き上がる。
爆風とともに聖浄院付近の魔導師や魔獣が吹き飛ばされる。
二千年間、世界の平穏を守り続けた大賢者ラズウェルの大結界は、淡い輝きを最後に、ひび割れ、光の粉となって四方へ散った。
結界が消えた瞬間、聖浄院の空気は一気に沈み込み、賢者たちの顔が絶望に染まる。
「……大結界が……まさか……」
シルフィアは微笑んだ。
それは慈悲の欠片もない、冷たい笑み。
「ガイアビナスを顕現させるには、膨大な魔力の蓄積が必要。
二千年前、エグザリアがガイアビナス復活に失敗し、ヴァルシエル王朝は、この時を待ち続けてきた。」
シルフィアがため息混じりに続ける。
「私が本国から送り込まれたのはそのため。
六賢者の一角を担えば、計画は格段に進めやすくなる。
……二千年に及ぶ計画だったわ。」
雷の賢者ライゼルが、拳をゆっくりと握りしめた。
その指先に、かすかな雷光が走る。
賢者たちの表情には、気づけなかった事実への抑えきれない怒りが滲んでいた。
「でも、エグザリア・ジークも……あなたたち賢者の魔力を削る役目としては十分な働きをしてくれた」
シルフィアがその怒りを嘲笑するように賢者たちを見下ろす。
「おかげで、一番邪魔だったあなたたち賢者の魔力は空っぽ。
今のあなた達なら、私ひとりで十分に始末できる。」
風が渦を巻き始める。
――僕は拳を握っていた。皮膚がきしみ、血が滲むほど強く。
「リファーナさんが命をかけて封印した大結界が……“気をつけろ”って言われてたのに……」
胸の奥が、ひどく痛んだ。
あの時の、リファーナさんの言葉が脳裏に浮かぶ。
『あの影には、とても嫌な予感がするの。ジーク以外にも敵がいるかもしれない。』
その一言一言が、今になって胸を締めつける。
あの警告を、もっと深く受け止めていれば、リファーナさんの結界を、こんな形で失わずに済んだかもしれない。
淡い光となって散った“愛の結界”の残滓が、まだ空気の中に漂っている気がした。
――――
――――
その時、聖浄院の奥から、青白い光がゆっくりと這い出すように現れた。
空気が震え、音が止まった。
床の奥深くで、封印の石盤がひび割れ、白金色の霧が静かに滲み出す。
雷の賢者ライゼルが、張りつめた顔でつぶやいた。
「……厄災が……顕現する」
シルフィアの口元が、ゆっくりと、冷たく歪む。
「世界の魔素は――この大地は、再び我がヴァルシエル王朝のものとなる」
――――
スケールが違いすぎる。
こいつらは、何億年も前の遺物を掘り起こすために、何千年も前から動いていたんだ。
かつて世界を滅ぼした厄災――それを生み出したのがヴァルシエル王朝だった。
勇者ローディンは厄災を封じるために命を落とした。
リファーナさんは、世界の平穏を守るために、文明の暴走とずっと戦い続けていた。
ヴァルシエル王朝こそが文明の暴走の元凶。
エグザリアを裏で操り、計画の障害となるカイエン国やアスピアの戦士たちの力を削いでいった。
アスピア戦士団……オーウェンさんの姿が脳裏に浮かぶ。
アスピア禁則の地、あの日、国のために正面から古代兵器と対決し、誇りを胸に戦っていた彼を。
背後から、何の気配もなく引き裂いた“風の刃”。
あの日、宮殿にいた戦士たちは、怒りも、悔しさも、言葉にできず……ただ、うつむくしかなかった。
“誇り”を嘲笑うように後ろから狙う卑怯な影。
悔しい――
「さあ……目覚めなさい、ガイアビナス。
ヴァルシエル王朝の始祖・魔導皇帝"シーレ・ミュー"の名において、我らの命に従いなさい」
その名が響いた瞬間、オリハルコンの刃が、かつて感じたことがないほど深く脈動した。
厄災ガイアビナスの青白い光を受けた刃が、鈍く、黒く、反射する。
まるで――
かつての宿敵への怨嗟が、本当の敵を見定めたかのように。
聖浄院の地下――
砕けた大結界の底深くから、青白い光をまとったガイアビナスの影が、まるで生き物のように蠢きながら天井へ伸びていく。
聖浄院全体が、低く、重く、うめくように震え始めた。
そして――白金の霧の中で、無数の影が動いた。
「……あれは……、見たことのない……魔獣……?」
魔導師団の兵が後ずさる。
影はひとつではなかった。ひとつ、またひとつ。
まるで封印が解かれるのを待っていたかのように、未知の魔獣たちが次々と姿を現す。
四肢が逆関節に折れ曲がった獣。目のない巨躯。
光の粒子をまとい、形を定めない影の群れ。
土の賢者ガルドが低い声でつぶやく。
「……古代の魔獣だ……厄災から生み出されているのか……」
世界が、終わりに向かって動き出す音だった。
――――――




