第105話 砕かれた誇りと蝶の羽ばたき
その瞬間――背後の岩陰から、別の風刃が走った。
「ぐっ……!なぜ!?」
「後ろ……!?」
前面のコロッサスに意識を集中していた戦士たちは、振り返るより早く、不意打ちの刃に肩や脇腹を裂かれ、陣形が崩れていく。
リファーナさんの目が鋭く細まる。
「そこ!」
迷いのない声。無詠唱で、魔力の刃を放つ。
人影が障壁でそれを弾き、コロッサスが再び立ち上がる。
オーウェンさんが苦痛の表情を浮かべながら立ち上がり、剣を構える。
リファーナさんは“影”に追撃しようと――その足が、ふと止まった。
「……っ」
リファーナさんは、わずかに体を沈めた。
下腹部に、軽く触れるように手を当てる。
「リファーナさん?」
少しだけ息を整えているように見えた。
「……ごめんなさい……少し無理をしすぎたみたい」
“ごめんなさい”の意味が、すぐには分からなかった。
でも、頭の中で、ゆっくりと線がつながっていく。
魔力切れでもない。負傷でも、毒でもない。
僕は息を呑んだ。
(……リファーナさん……)
「!!!」
やっと、気づいた。
初期とはいえ、リファーナさんのお腹の中には小さな命がある。
……僕は、大馬鹿だ。
「リファーナさん……ごめんなさい。こんな大事なことに気づかなかったなんて。」
――リファーナさんの肩を支え、戦場の外れへ、少しでも安全な場所へ運ぶ。
僕の黒い感情をぶつけても、リファーナさんは全部受け止めてくれた。
これまでずっと僕に付き添ってくれた。
胸の奥が、痛んだ。自分が許せなかった。
そう思うと自然に言葉が出た。
「……あいつは、必ず僕が倒します」
立ち上がる。剣を握る手が震えていた。
「ローディンさんみたいに……頼りにはならないかもしれないけど……」
胸の奥の熱が、剣にまで伝わるようだ。
「リファーナさんのことは、僕が命に代えても守ります」
リファーナさんは、呼吸を整えながら微笑み、頬が少し赤かった。
「ありがとう……」
――――――
戦士団の隊員は、すでに全員倒れて、立っているのはオーウェン隊長ただ一人。
不意打ちで負傷した体は、思うように力が出せていない。
それでも、オーウェン隊長は前に出た。
「まだ……終わっていない!」
コロッサスに斬りかかるが、明らかに動きが鈍っていた。
コロッサスの胸部が光る。
魔力が収束し――雷の矢が、空を裂くように放たれた。
「ぐあああああッ!!」
オーウェン隊長の体が弾け飛ぶように倒れ、焦げた匂いが戦場に広がる。
――コロッサスの無機質な顔が僕の方を向く。
僕は、コロッサスと向き合った。
巨大な魔法陣が展開し、無数の雷の矢が僕へ向けて放たれた。
「……っ!」
地面を蹴る。横へ、前へ、斜めへ。雷の矢が地面を焼き、爆ぜる。
(こいつはでかい分、動きは遅い……!)
足が勝手に動く。考えるより先に、体が反応し、戦場を駆け抜ける。
僕の剣が――オリハルコンの刃が淡く光った。
まるで――宿敵を待ち望んでいたかのように。
剣は僕の手に自然に馴染んだ。
握った瞬間、重さも、軌道も、呼吸のように理解できる。
オーウェンさんの剣技を見て、コロッサスにはこの理が適していると直感が告げていた。
「七理の法剣……土の刃――」
音が消え、風が止まり、世界が剣の軌跡だけになる。
「崩岩斬!」
――次の瞬間、オリハルコンの刃は、ミスリル合金のコロッサスを紙屑のように、二つに切り裂いた。
金属が裂ける音が遅れて響く。
コロッサスが崩れ落ち、散った魔力が風に溶けていく。
僕の手の中で、剣が黒い鈍い光を反射した。
まるで、まだ切り足りない、と言っているようだった。
――コロッサスが崩れ落ちた瞬間、岩陰の“影”が、ビクリと震えた。
次の瞬間、影は山の奥へと逃げた。
だが、姿形は見えなかった。
(……あいつは一体……)
追うべきか迷ったが、胸の奥が別の方向へ引っ張られた。
リファーナさんのところへ向かう。
リファーナさんは震える手で目元を拭い、微笑んでいた。
「コロッサスを切るなんて。やっぱり、私の目に狂いはなかったみたいね。」
しばらくして、彼女は小さく息をついた。
「……あの“影”。あれがコロッサスを起動させたのね。古代の呪法を操るなんて……嫌な予感がするわ」
その声は、震えていた。未来を見据えた、深い不安が混じっていた。
――しばらくすると、アスピア皇都から救援部隊が到着した。
負傷者たちが次々と担架に乗せられ、オーウェン隊長も治療班に運ばれていく。
沈黙したコロッサスの残骸を見て、兵たちがざわめいた。
「コロッサスが……真っ二つだぞ」
「この切り口……剣で切ったのか?」
兵たちの驚愕の声は、戦場の冷たい空気に溶けていく。
だが、僕の耳にはほとんど届いていなかった。
それよりも、リファーナさんが心配だった。
彼女は馬車のそばで座っていた。
それでも僕が近づくと、無理に微笑もうとした。
「リファーナさん……馬車で、安静にしてください……」
胸の奥に残った後悔が、まだ消えていなかった。
リファーナさんは、かすかに首を振り、僕の手をそっと握った。
「……あなたが……無事でよかった……」
その一言に、胸が締めつけられる。
――――――
その夜、アスピア宮殿。
高い天井に灯された魔導灯が、静かな光を落としていた。
昼間の戦場とは、まるで別世界だ。
リファーナさんは宮殿の一室で休んでいる。
治療師たちが診てくれたが、無理が続いただけで、安静にしていれば大丈夫とのことだった。
胸の奥が、ようやく少しだけ軽くなる。
(……でも、もう無理はさせない)
そんな思いが、静かに沈んでいく。
ミレーヌ皇女が歩み寄り、深く頭を下げた。
「ロキ様。この度はコロッサスの討伐……何とお礼を申し上げればよいか」
ミレーヌ皇女の声は震えていた。
恐怖ではなく、安堵と感謝の震えだった。
「なぜあれが起動したのか……ロキ様たちが禁則の地で見た“影”の行方は、すでに調査を進めています」
その言葉に、胸の奥がざわつく。
あの影――
戦争が終わったとはいえ、まだ不安は完全になくなったわけではないことを感じた。
そのとき、ルナさんが僕の前に立った。
両手で、僕の手をそっと包み込む。
「やはり……ロキ様は“虹の勇者”の意思を継ぐにふさわしい方でした。"光の使徒"に……女神の祝福がありますように」
まっすぐな瞳、祈るような声、その純粋さに、思わず視線をそらしてしまう。
戦場では震えなかった心が、今になって落ち着かない。
――魔導兵団の士官が、わざとらしく大声を上げた。
「それにしても戦士団の奴ら、あれだけ勇んで出ていったわりに……結局、客人に救われるとはな」
笑い声が、謁見の間に響いた。
「まったく、情けない連中だ。古代の鉄くず相手に何もできず、逃げ帰ってくるとは」
違う――戦士団は、コロッサスと真正面から戦っていた。
あの“影”が、後ろから不意打ちで狙ったから――。
喉の途中まで言葉が出かかったが、言えなかった。
魔導士官の言葉は、壁際で治療を終え、まだ立つのもやっとのオーウェンさんたちの耳にも届いた。
――そのとき
「……やめなさい」
ミレーヌ皇女の声が、静かに響いた。
魔導兵団の士官たちは黙る。
だが、その顔には “おもしろくなさそうな影” がはっきりと浮かんでいた。
「戦士団は、国のために戦いました。その献身を嘲ることは許しません。」
ルナさんの表情が、かすかに揺れた。
ミレーヌ皇女の言う通りだ。
だが、戦士兵団のうつむいた顔は、上がらなかった。
ミレーヌ皇女に守られたことで、かえって自分たちの無力さが突きつけられたように見えた。
オーウェンさんの肩が、わずかに震えた。
痛みではない。悔しさだった。
僕も、魔欠の出来損ないと呼ばれ、魔導学院で、剣を笑われた日々。
悔しくて、情けなくて、それでも歯を食いしばって立っていた。
その痛みを、オーウェンさんは今も味わっている。
だけど、胸の奥に、もうひとつの重さが沈んでいた。
(……あの人の誇りに傷をつけた要因は、僕にもある)
そう考えると、何も言えなかった。
気づくと僕は、爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握っていた。
謁見の間の空気が、ゆっくりと凍りついていく。
誰も言葉を発しない。ただ、重い沈黙だけが広がっていった。
――――――
その夜、僕は部屋に戻った。
扉を閉めた瞬間、謁見の間の重い空気が、ようやく遠ざかっていく。
静かだった。
ただ、自分の鼓動だけが、胸の奥でゆっくりと響いていた。
(……疲れた)
戦いの疲れじゃない。
オーウェンさんたちアスピア戦士団の、あのうつむいた背中が脳裏から離れなかった。
(……僕は、何も言えなかった)
胸の奥が、じわりと重く沈む。
そして、禁則の地で暗躍していた“影”。
あれは何者だったのか……不安が、静かに胸をかすめた。
ジーク聖兵の生き残りなのだろうか。
それとも、まったく別の勢力なのか。
窓の外に目を向けると、皇都の光が、夜の闇に淡く揺れていた。
その光は美しいのに、どこか遠く感じた。
――――
僕はまだ知らなかった。
この夜の不安が、この胸のざわつきが、二千年後の世界にまで届いてしまうことを。
謁見の間での沈黙が。
あの場にいた誰かの胸に刻まれた屈辱が、二千年後の世界にまで影響を及ぼすことを。
一滴の水が、静かな湖面に波紋を広げるように。
一匹の蝶の羽ばたきが、遠い未来の皇都――いや世界に大きな嵐を呼び起こすように。
このときの僕は、その始まりに、自分が立ち会っていることすら気づいていなかった。
――――――




