ひらけ! 残業ダンジョン!
菱川は受話器を置いた。
「隣の部屋の客の話し声がうるさい」という、201号室の宿泊客からの苦情だった。菱川はため息を吐く。
隣の部屋から声がする。そんなことは有り得ない。
ここ「ガーベラホテル室蘭」は30部屋の小規模なホテルであり、ほとんどの部屋が単身客専用である。
201号室の隣、つまり202号室も単身客専用だ。
話し声など発生するわけないのである。本来であれば。
202号室に電話を掛ける。コール音だけが延々と鳴り響く。出ない。
「はあ……」
菱川はため息を吐く。
23時である。従業員は菱川1人しかいない。本来なら2人配置されている時間帯だ。
単身客専用の部屋で話し声がする。それはすなわち、宿泊客以外の人間がいるということである。
202号室。谷村という40代の男性が宿泊している。シャツの上からでもわかるほどの、筋骨隆々とした体つきをしていたので印象に残っていた。このホテルは初めての利用のはずだ。
部屋に入れたのは大方デリヘルの類だろう。こういうホテルではよくある話だ。
いったい何時の間に侵入されたのだろうか。心当たりはなかったが、隙はいくらでもあった。このホテルは、常に従業員が1人足りない状態で回っている。
不意に、菱川の手元にAwazon超お急ぎ便の箱が出現する。
「何だよこれは……」
菱川はぎょっとした。剣が入っていたのだ。刃渡り70cmほどの両刃の西洋剣だ。翼を模したような鍔に、透き通った赤い石が嵌められている。
「……これでどうしろと」
菱川は頭を掻く。剣はずしりと重量を手の内で主張する。人に向かって使えば大怪我は避けられないだろう。これが10秒後に必要になる未来、それを考えると憂鬱になる。トラブルが起きようが起きまいが、給料は変わらない。
「めんどくせーなー……」
菱川のつぶやきは廊下の暗闇に吸い込まれる。
202号室の前に来る。耳を扉に当てると、確かに声がした。スマホやテレビの音ではない。
ノックをする。返事はない。
「谷村様、少々よろしいでしょうか?」
返事はない。剣は左手にぶら下げていた。菱川はマスターキーで扉を開ける。
何かが飛びかかってきた。剣。咄嗟に前に出していた。手に、何かを砕いた嫌な感触が残る。
「あ、やべ……って、え?」
足元に見たこともない生き物が転がっていた。そこらに生息している動物ではない。菱川の記憶にあるもので一番近いものは――
「……ゴブリン?」
顔を上げる。部屋の中央に洋風の木製ドアがあった。ビジネスホテルの一室である。
扉はひとりでに開き始める。菱川の剣を握る手に力が入る。扉の中からまばゆいほどの紫色の光が放たれる。
菱川は剣を前に身構える。首。飛び出してきた。巨大な竜の首だ。
「ひいいいいい!」
菱川は尻餅をつく。剥き出しの牙が、眼前に迫る。
閃光が走る。首が、ごとりと落ちた。部屋が血に塗れる。
筋骨隆々とした男が立っていた。谷村である。この部屋の宿泊客だ。にこやかな表情で、剣を携えていた。
「ややや、従業員さん! 助けに来てくれたんですね!」
「た、谷村様!? これは何が起きてるんですか?」
「このホテルをダンジョンと繋げることに成功したんですよ!」
「ダ、ダンジョン!?」
ゴブリンが2匹飛び出てきた。谷村は喜色満面のまま、拳で頭を潰す。
「室蘭市はダンジョン接続に絶好の地なんですよ! いやあ、5時間呪文を唱え続けた甲斐がありました!」
「ということは、お客様がこのダンジョンを接続なされたのですか?」
「そうです!」
谷村は胸を張って言う。菱川は目眩を覚える。
「……今すぐお戻しいただけませんか?」
「元よりそのつもりです!」
「え?」
谷村の口角が上がる。
「ダンジョンをクリアすればこの扉は締まります! 行きましょう冒険の旅に!」
「え? 私も? ってうわわわわわ!」
谷村は菱川の手を引いて扉に飛び込んだ。
菱川の目の前に広大な空間が広がる。
人型の骸骨が飛び出してくる。菱川は的確に頭部を剣で潰す。
「お、従業員さん、良い動きですね〜」
谷村は右手に剣をぶら下げながら、左手でカメラを菱川に向けていた。
今、客から電話が来たらどうすんだ。菱川の頭にはそれしかなかった。




