最終話「悲歌」47
瑠璃がいなくなっただけで、ヒカリの私室が広く感じてしまう。就寝の布団を敷くにも、リビングのテーブルは動かすだけで済む。瑠璃の布団のために、テーブルを立ててスペースを作った昨日までが、早くも懐かしい。
「寂しいわね」
「寂しいなあ」
どちらからとなく、そんな呟きを漏らすヒカリと鋼音なのである。
今夜は冷え込みが強く、暖房をかけているといっても、低温で空気の澄んだ外の街並みを窓から眺めるだけで寒々とした心持ちだ。
「あたたかいスープでも作るわ。体を温めて寝ることにしましょう」
ヒカリはカーディガンの上にどてらを着込んでキッチンに立つ。やはり寒さで体が弱いのだ。
「ヒカリさん……」
心配声を出してしまう鋼音だ。体は正直なだけだから気にしないで、と言われると、余計に気になってしまう。
ルーからこしらえたスープが皿に盛られて、大匙で掬うとトロリと濃い。これは体の芯から温まりそうだ。ふたりでフウフウ息を吹きかけながら口にする。美味しいが、その味も吹き抜けるようなもの悲しい二人だけのテーブルだ。
「鋼音。私は明日から事務局長の周辺を探ってみるわ。圭吾くんが捜査してもわからなかったのだから、私になにか見つけられるか自信はないけど、必ずなにかを知っているはずだもの」
「私の巻き戻しをかけてしまう手は使わないのですか?」
もう自分の技術に自信がある鋼音だから、この能力でヒカリの役に立ちたい気持ちでいっぱいなのだ。それに、ヒカリの体に無理をさせずに捜査を展開させたい。
「確かに鋼音、あんたならできるはず。事務局長からどんな真実なのかを引き出すことが」
でもね、と眉間をきつくしてつづける。
「菅原事務局長は占術の巻き戻しがどんなものかを知っている。一度かけられたら、二度目がないように目を見ないようにしたり、鋼音の技術の高さを知ったら姿まで隠すかもしれない。あんたを警戒していないとき一度きりの勝負よ。決定的なところで使うわ」
だがその場面が訪れるためには、背景を調査し、菅原事務局長がなぜ今泉元部長に与したのかを明らかにしなければならない。圭吾も、事務局長が親占教会に打撃を与えようとした理由には、ヒカリの両親の事件が動機になっていると見ていたようなのだから。
五里霧中からの捜査なのが鋼音にもわかる。気持ちだけは張りを持っておこう、と正直なところを口にするヒカリだ。
鋼音にも、こんなときは見る角度を変えるのが大事とわかる。あの、と話を変えてくる。
「ヒカリさんのご両親の事件の日って、平成二十七年三月二十四日ですよね。その日は多分、うちにお金がいっぱい入った日です」
「え?」
四年ほど前に、鋼音の家族になにかがあって、生活が好転した。そのころの状況が、鋼音の改竄された記憶のベースになったと推測していたヒカリである。
好転の事情はわからなかったが、その日がヒカリの両親の命が奪われたのと同一かもしれない?
「あんた、どうしてその日だとわかるの?」
「お寿司を食べたんです。それまでちゃんとしたお寿司を食べたことがなかったんですけど、はじめてお寿司屋さんから出前をとったんですよ。そこで私が生ものがだめだとわかったんです」
「そうだったの。いい思い出ではないけど、記憶に残る日だったのね」
長く貧困がつづいた家庭だから、子どもを喜ばそうとはじめての寿司を頼んだのだろう。鋼音が生ものが苦手なのは、それまで生を口にできなかったからで、本物を知れば感覚も刷新されるのは、『水月鏡』での鋼音自身が証明だ。
今、それはおいておく。
「ヒカリさん、事件があった日、総本山でもなにかがあったんじゃないですか?」
「どうしてそう思うの?」
「……なんとなくです」
鋼音はなにか思い当たるのだろうか。だが、当時の鋼音は九歳。両親もすでに破門されている。親占教会内には入ったこともないはずだ。
「正直、こっちには情報らしい情報もないのよ。当てずっぽうでもいいから、思ったこと言ってみなさいよ」
「あの日、朝早くからお義父さんもお母さんもいなかったんです。あの日だけ」
「あんた、自分の両親が私の両親の事件に関係していると思ってるの?」
「いえ。偶然かなと思います。もう総本山とは関係なくなってますし、破門されて苦労させられたのだから、頼まれても協力するとも思えませんし」
ヒカリもこの論理的な推測は納得できる。鋼音の知能は回復どころか高くなっている。
しかし、鋼音のこの顔だ。引っかかっているのは間違いない。
「そうではない気もするってことね。それなら、あんたの両親を見つけて、あの日の話を聞くほかないわね。百合姉さんがうまく出会えるといいのだけど」
「もし出会えても、隠しごとをされたらわかりません。ヒカリさん、私も百合さんと一緒してもいいですか?」
さすがにヒカリもいいわよとは言えない。家庭裁判所から未成年時の接近禁止にされている両親だ。鋼音の方から近づいたとしても、禁止令を破ったことには変わりなく、成人になってからの処分解除が延期されるかもしれない。
この処分は引きずりたくないのがヒカリの気持ちだ。
「鋼音。もしかして、両親に巻き戻しをかけるつもり?」
「はい。ヒカリさんに関係がないことをはっきりさせたいです。あの日、朝からなんのために留守にしていたのか、知りたいです」
ヒカリの両親が殺されたのも朝の時間。ヒカリが親占教会に出かけた直後だった。当時、ヒカリの住まいと鋼音一家がいたアパートは、そんなに離れた距離ではなかった。
「両親とも占術士だけど、あんたなら巻き戻して、当時を再現させることができるからね。でもこのことは、百合姉さんに一任するわよ。あんたと会わせて良いのか、その時に判断してもらうわ」
鋼音の考えすぎだとは思えども、一家の不遇は自分のせいだとすべてを背負いこんだ鋼音の性格である。はっきりさせてあげるのがよい気がしてくる。
「それで、あたしはなにをすればいいの?」
あかりはブルガリの灰皿に灰を落としながら、いよいよ両親の殺害事件の解決に足を踏み入れたヒカリを見やっている。
この事件には、押野勇気、塚原望、百合、鋼音、工藤巡査に協力してもらい、警視庁や任侠の面々に力添えを頼むという。
となると、あかりの出番は──。
「特にないのよ。本業に精を出しなさいな。このままだと廃業もあり得るわよ」
「また変なこと言い出すんだから」
前にもそんな口を聞かれたことがある。ヒカリから未来の先細りを言われてしまうと、楽天家のあかりでもやはり不安になってしまう。
「総本山で修行をし直して、碧泉院流の看板をもらうことを考えたら?」
「とんでもないわ。私はあかり流で成功したいのよ。碧泉院流の名はかえって足枷よ」
背に腹は代えられないだろうに、そんな強がりで今を変えることを嫌がるのだ。
そう遠くない将来、鋼音と二人体制で『光の路』を再開するつもりのヒカリだが、それにあかりまで加えてしまうと収入も三等分。ヒカリは有力者のお布施があるから困らないが、鋼音とあかりは結局生活が厳しくなってしまう。
「鋼音は今のところ四柱推命だけだから鑑定には出せないけど、タロットカードはあんたとかぶるし、まだおしえていないけど占星のスペシャリストにしようかと思うのよ」
「一般には星占いが一番受けるし、ヒカリから星の軌道を仕込まれればまあやっていけるんじゃない? でもあの子、占術はきっと副業よ」
そうね、とそこはヒカリもわかっているし、尊重するつもりだ。
金谷憲斗に手を添えられたことで復活した記憶。過去が大波のように蘇っても、鋼音は平静を装ったという。そもそも備わった精神力が高かったから?
ヒカリはそれもあるとしても、憲斗の前で女の子でいたかったからだと考える。
かつてヒカリの親友佐藤栞も憲斗に心惹かれていた。神ユミカも、多分好きです、と気持ちを率直にヒカリに伝えていた。
誰にでも優しく、高齢者や障害者にとことん寄り添う姿は、ヒカリでも人間の魅力を感じる男性なのだ。鋼音もほのかに憧れたのだろう。
「あの子はきっと工務の仕事をやろうとするわ。なんだかさ、将来のことも、恋も、いつの間にか瑠璃さんの先を行っちゃってるわねえ、鋼音は」
あかりもはじめはからかい相手にしていたのが、いつやら軽口を言い合うまで、対等な存在になっている。ヒカリから、今に追い抜かれるわよ、と警告されても、鋼音にならいいわ、と思えてしまう。
「瑠璃さんは芸能の仕事をしたといっても、普通の中学生だもの。まずは標準的な育ちの女の子よ。先だの遅いだのいう年齢ではないわ。それに、瑠璃さんだって美容クリニックの世界で活躍する未来がある。そしてこれよ」
ヒカリは一通の封書を見せるのだ。光明出版という、写真雑誌を発行している出版社からだ。
「いい知らせと思って開封してみたのよ。瑠璃さんの応募した作品が、二次審査を通過したって。最終審査の十点に残って、うち五点はなんらかの賞をもらえるのよ。受賞したらきっと最年少ね」
西成の家に帰ることになるとは思っていなかった瑠璃だから、ヒカリの私室を住所にして応募していたのだ。
「これを瑠璃さんのところに届けなきゃね。鋼音に頼むつもりよ。菜奈さんの様子も見てきてもらうわ」
封書を手にして、ヒカリも嬉しそうだ。写真で認められるのも瑠璃の夢のひとつ。早くも第一歩を踏み出しそうなのだ。
「いつごろこっちに戻れそうかしら。ヒカリも瑠璃さんがいないと寂しいのね」
「そのとおりよ」
ヒカリの返事は正直だ。そうとは遠くないうちに、瑠璃を西成家に帰さなければならないとわかっている。母の菜奈も父親も、ヒカリへの贖罪の気持ちで、そばに住まわせているのだ。まもなく受験勉強も本格化させなければならない。勉強に専念できる環境を作ってあげなければと考えるのである。
瑠璃が戻ってきて進級まで。
瑠璃が三年生へ進級する四月が節目になるだろう。それまでが三人での最後の生活になる。そしてその春、鋼音も同じ中学の三年生に越境編入させる。
高校進学といってもどこでも良いわけでなく、瑠璃にも希望校はあるのだ。三年生は四月の進級早々に、担任と学力とのすり合わせ面談をするという。
瑠璃さんはどこの高校を希望するのかしら。瑠璃さんのことだから高望みするのでは。そんなふうに考えてしまうヒカリは、押野勇気がやってきたので、瑠璃の話を聞かせてみる。
「受験まで一年ですか。瑠璃さんの今の学力はどのくらいなんでしょうね?」
学生時代に家庭教師のアルバイトを散々やったという勇気は、次の日に、これをやらせてみてください、と模試の問題をヒカリに渡す。勇気がおしえた中学生たちには、独自にこれぞという問題選集を編纂して解かせていたという。
その問題を鋼音に持たせて、西成家に行かせるヒカリだ。参考書も教科書も見ずに模試本番のつもりで解いてみるよう言い渡させる。
勇気と打ち合わせを終え、あかりも鑑定のために帰ってから、入れ替わるように百合がやってくる。
鋼音の両親が退去に使ったトラックの所有会社は隣の区だ。そう遠くないから、こちらまで足を運んでみたのである。
「アパートからの引っ越し先だから、新しい住まいも集合住宅だと思うのです。退去の夜に、搬入作業をしていたところを誰かが見ているといいのですが」
貸家では急な引っ越しは難しいとみたヒカリの読みだ。
「集合住宅に絞れる……そこは私も気がつかなかったわ。まずその会社周辺の集合住宅をリストアップしてみるわね」
それはそうとね、と百合は大真面目な顔つきでヒカリを見据えるのだ。
「すぐって話じゃないんだけど、私ね、デリバリーヘルスを立ち上げようかと思ってるのよ」
以前にあかりとふたりで百合夫妻の住まいに泊まったときに、あかりとそんな話をしていたのを布団の中で耳にしていたヒカリである。そのときは酒の勢いでの会話かと思っていたが。
「……反対ではないですけど、まず子作りでは? 私、百合姉さんのおめでたを楽しみにしているんですよ」
「もちろん、そっちもしっかりやるわよ。でも子どもは授かりものだからね。排卵時に射精をしてもらって、はいできました、って簡単なものじゃないから」
「まあ、私も圭吾くんの子どもはできませんでしたから。授かるなら最初の月で妊娠できてたはずだし、学説でも排卵時でも受精の確率は高くないとは聞いています。十一分の一でしたっけ?」
「私も性行為のある仕事してたから、確率は勉強したわ。十一分の一は一説にすぎないけど、臨床的にはほぼその確率よね」
百合もキャストとして仕事をするのではなく、社長のポジションで運営をしていきたいという。
ヒカリも、百合やホナミが所属したデリバリーヘルスの会社を知っているし、社長ともホナミの件で顔見知りだ。運営の中身はおよそ想像がつく。子どもに恵まれてからも、つづけられはするだろう。
「百合姉さんがその気なら、私も手伝いますよ。ワンボックス一台くらいは提供させてもらいます」
「車は高いわよ。ヒカリちゃんにそこまでさせられないわ」
といいつつ、あかりから、ヒカリなら車くらい用意してくれるわよ、と言われて、そうよね、と返していたことを思い出してしまう百合なのだ。
「高いからこそです。中もきちんとした化粧台をつけて、たばこの換気、ドライヤーやヘアアイロンが使える蓄電機器も必要でもすもの。キャストも気持ち良く顧客宅に向かえるようにしませんと」
瞬時に装備を列挙していけるのがヒカリちゃんらしい、と百合はさすがの思いを新たにする。そして、ヒカリはキャストの意欲にも気づけるのだ。あの社長では運営の能力はあっても、キャストたちのやる気は上がらなかっただろうとわかるのだ。
ヒカリこそデリバリーヘルスの社長にふさわしい、という気持ちは置いておき、
「だからそういうのは、私と旦那で考えることで、ヒカリちゃんはただ気持ちで応援してくれればいいのよ」
妹のようなヒカリと二人三脚でやっていけたら良いな、という夢は胸の内であたためておくにとどめよう。そう思う百合なのである。
件の会社から半径三キロ圏内の集合住宅を探し回り、足を棒にして歩き回った百合は、くたびれてしまって、あなたお願い、と夫の双龍に一覧を渡してゴロリと横になってしまう。
その全身が丸いのに、あいつどんどん太っていくなあ、今にアザラシのようになってしまうのでは、との心配を声にはできない双龍だ。
『光の路』に行ってみると、ヒカリはあかりのところへ出かけており、鋼音が私室で留守番をしていた。
ヒカリにももちろん話すが、鋼音も、今回も役どころが大きい。もはやヒカリの片腕といって良いから、状況を伝えておく。
「深夜に大荷物を運び込んだトラックがなかったかどうかを聞き込むんだよ。百合の調べだとアパート十六棟、世帯数の多いマンションも二棟あるし、こりゃかなり骨でな。それに見た人がいなかったら、最近新たに越してきたところがないかを全部のアパートとマンションに聞き込まなきゃいけない。だが、見た目がヤクザそのものの任侠の人間では聞き込みもうまくいかないな。といって、塚原くんひとりではとても無理だろう」
「聞き込み要員ですか。増本組の若い人たちはどうでしょう。みんな間延びした顔つきですし」
「確かに……いや、鋼音ちゃん、それを言ったら彼らでもプライドが傷つくぞ」
とはいえ、もっとも結果が伴う方法だろう。任侠傘下になる調印式や、姐さんの明美に招待されて食事に訪ねたりで、若いものたちの頼りなさげな顔を鋼音も見知っている。これなら一般人にも警戒されまい。
増本都志樹組長に若い組員たちを貸し出してもらえるよう命じることを決める双龍である。




