最終話「悲歌」48
机に向かって問題を解く瑠璃を、ジーっと見つめつづけること三時間。鋼音は、終わった?と確認して、見直ししなくていい?とまた念を押して、答案を回収する。
「鋼音ったらずうっと見てるんだもん。まるで試験官だよ」
「瑠璃がカンニングしないように見てなきゃ」
本当に試験官じゃないのっ、と口を尖らせる瑠璃に、ウソウソ、と手を合わせて笑っている鋼音だ。
「瑠璃がどれくらい解けるのかなぁって思ってさ。五科目見てて、瑠璃は英語が苦手なのがわかったもん」
「それ、私が間違えたところもわかったってこと?」
つまり、鋼音は正解がわかっていたということなのか?
「うん」
こともなげにうなずいている鋼音だ。私は学力も追い抜かれてしまったのか、と唖然としてしまう瑠璃なのである。
瑠璃の勉強が終わったと知って、弟と妹が、鋼音お姉ちゃん、遊ぼっ、と連れて行ってしまう。
やっぱり鋼音がいてくれると助かるなあ、との思いを脇に置き、持ってきてくれた封書を開くと、最終審査進出の知らせに口もとだけでなく顔全部をにやけさせる瑠璃である。
「フォトグラファー瑠璃の誕生、なりますように!」
机の一番目立つところへ祀るように飾って、柏手を打っておくのだ。
この封書、開けてあったのだからヒカリも目をとおしているはずだ。きっと喜んでくれているだろう。
賞を取れれば、校長に願い出た写真部創設にも追い風だ。
瑠璃は次の応募も視野に入れている。全国紙、日陽新聞の写真賞だ。毎年何万という応募点数がある有名賞だから入賞は難しいと思いきや、区分の中に少年の部があるのを目ざとく見つけた瑠璃なのである。
少年の部、つまり中学生以下の部だ。昨年の応募点数も八百点ほどと少ない。ここで上位の賞をもらえれば箔がつくこと間違いなし。
しかし、昨年の少年の部受賞作を目にしてしまい、考え込んでしまうのである。
巧すぎる……。しかも受賞者は小学六年生である。上には上がいるのだ。
「当たり前じゃない。あなたはまだほんの何か月しか写真をやっていないでしょ。去年の受賞した子はきっと何年も練習しているわよ」
母らしく諭す菜奈の言葉に、瑠璃も言い返せない。そうだ、私はカメラとレンズの性能の高さに頼りすぎていたのかもしれない。
早速過去数年の少年の部の受賞者の撮影機器を見てみると、みんななんてことのない普及機と普及レンズなのである。
価格だけで見れば、瑠璃が大原義隆から譲られたプロも使うという機材全部のほぼ十分の一程度のもの。
同年代、自分よりも年下の子が、並の機器性能でこれだけの光のコントロール。色温度の良さ。構図のうまさ。被写界深度の取り方。
要は才能とそれに裏打ちされた技術だ。
「ヤバい、絶対ヤバい」
瑠璃はすぐさま庭でチビたちを遊ばせている鋼音を部屋に呼び戻す。
「ヒカリさんに相談したいの。会えないかな?」
「交番に苦情が?」
百合を通じて聞き込みの不始末を耳にしたヒカリは、甘かったかしらね、と天井を仰いでしまう。
聞き込みに対して、住民から通報があったという。
ヒカリは増本組の若い連中に聞き込みの手伝いを許可したが、不審を持たれたらしい。
「今は詐欺事件も多様化して横行しているし、見た目が緩ければ警戒されないわけでもないってことね」
交番に塚原を送って、捜査絡みだと説明してもらえば苦情はどうにかなるだろう。
「うちの人も、鋼音ちゃんのアイデアをそのまま実行しちゃうんだから、少しは考えなさいっての」
「まあ、その場に私がいなかったのも悪かったわ」
したり顔の百合をなだめるヒカリだ。
地域自治のための情報収集と先に断っておけば、住民も素直に応じてくれただろう。鋼音の思いつき自体は悪くなかった。詰めが甘かったということだ。
「交番に苦情……そうだわ」
ヒカリはハッと思いつく。
「鋼音の両親の退去は夜遅く。こちら方面への引っ越しは完全に深夜になるわ。そんな時間の作業なら、交番に近くの住民から苦情や確認があったかもしれない」
通報や確認の履歴は、所轄刑事か、所轄でなければある程度の警察階級を持たないと見せてもらえないが、警視庁総務部の工藤巡査なら交番勤務の警察官に命じて閲覧することができるはずだ。
やはり作業の音に苦情は寄せられていた。
トラックのハッチを開け締めする音、運び出し、作業員の話し声、長い時間つづく往復の足音、しかもトラックは車内の暖をとるためだろう、アイドリングをかけつづけていたというから、眠りを妨げられた近所が頭にくるのも当然だ。
翌朝、百合は苦情の元になったというアパートのそばに行ってみる。
交番にタラタラと長時間文句を垂れた同じアパートの住民だが、よほど怒り心頭だったらしく、トラックの特徴まで覚えていた。交番が頼りにならなかったら、直接その会社に怒鳴り込むつもりだったのだろう。
「ご近所さんの頭が沸騰していたおかげで、このアパートに特定できたわ」
このあたりで張り込んでいれば、鋼音の両親、その姿を見かけることができるだろう。生活のための買い物もあろうし、そもそもこちらへ引っ越したのは、なにか仕事らしきことを引き受けたからと見られる。そのための外出も十分ありえる。
アパートの張り込みを鋼音の両親の顔を知っている百合に任せる。果たして両親の姿を目にすることができるだろうか。
同じころ、ヒカリは親占教会の動向を見張らせている塚原と双方向で通信している。
「事務局長が出かけていきます」
事務局長は本来の業務の可能性もある。今泉元公安部長との関わりが疑われている今、目立つ昼間であるし、内密の関係の人に会うのかどうか。ヒカリが少し考えていると、
「お嬢さま、葛原さんも出かけます」
つづけて麗華も出てきたという。今泉元公安部長が逮捕されてから、はじめての麗華の外出になる。それもお付きも連れずにひとりだけ。
「もしかしたら、事務局長不在を狙ってのことかもしれません。事務局長はいいです。先生がどこへ行くのかを、確かめてください」
おそらく霞が関だろう。問題はどこの省庁を訪ねるかだ。警視庁、総務省以外なら、親占教会業務以外の用向きになる。
次の連絡は四十分ほど過ぎたころだった。
「七号庁舎です。もっとつけますか?」
「お願いします。部署が問題です」
麗華は七号庁舎である文部科学省へ足を向けているという。塚原は報告をつづける。
「お嬢さま。葛原さんは正面にいきません。あそこは……旧文部省庁舎です」
文部科学省の機能はほぼ東館に集中している。旧文部省庁舎といえば、文化庁との合同だ。
駿河専務が鋼音の能力で巻き戻されたとき、文部科学省の名称が出てきた。麗華と関わりがあるのは、旧文部省庁舎にある部署なのだろう。
──ここの誰が先生とつながるのかしら。
部署名だけでは判断がつかない。塚原もどの課に入っていったかを確認するまでしかできないだろう。
文部科学省なら美歌の母親が学校教育の分野で嘱託顧問を務めている。美歌を通じて旧文部省庁舎にある文部科学省部署の実際の業務をおしえてもらうのが近道になる。
というわけで、早速美歌と会ってみるヒカリだ。美歌の新居にほど近い喫茶店で待ち合わせると、すでに官僚の妻らしいセミフォーマルな装いで待っていてくれた。
美歌に、お母さまにお願いしたいことがあって、という前に、美歌の口から、
「ヒカリさん、あの実は……」
と歯切れの悪い言葉が出てくる。
「美歌さん、そちらからどうぞ」
と譲るが、あ、ええと、と口ごもるのだ。なんにでも率直な美歌らしくない。ヒカリはそれならと観相をしてみる。相にくっきりとあらわれているのは──。
「お子さんが美歌さんの相に見えますよ。おめでとうございます」
「やっぱり、妊娠ですか。まだ月経予定から数日しか経ってないんですが、遅れる体質でないので、もしかしたらと思って」
嬉しいことなのに、なにをごもごも言いにくそうにしていたのやら。
「いや、前にふたりで不妊治療のことを話したじゃないですか。お互いできにくそうだと。だから、あっさりできたのが悪い気がして……」
バツが悪そうに上目遣いにヒカリをみやるのである。
そんなはずないでしょう、と美歌の変な気遣いに笑顔で返すヒカリだ。
「気を遣うなら澄花さんにですよ。澄花さんも子だくさんを希望しているわけではないですけど、旦那さんは強い方ではないらしくて、毎日というわけにはいかなくて、内心は不安だと溜め息ついてましたから…」
「澄花さんはハードトレーニングでかなり体をいじめてきたんでしょう? 体が妊娠しやすくなるのに、もう少し時間がかかるのでは?」
「私もそうは思うのですけど、結婚してもう半年くらいになりますからね。結婚の半年くらい前から婚前交渉もあったので、トータル一年、受精しないか着床しないかとなると、本人の不安もわかります」
妊娠も理屈通りにできるものでないと、これは本人でなければわからない。望まない妊娠にならないように避妊をしっかりと、という性教育は、妊娠できて当たり前という健常主義からのものだから、体質や持病、日常的な過度な運動などの事情が考慮されていない。
「昔から、一年で妊娠しなかったら不妊でないかを医者に診てもらえ、と言われましたよね。確率的にもそんなものだと思いますが、澄花さんは選手時代に避妊していたと思います」
「そうだと思います。避妊は体の妊娠しようとする働きを騙しているわけですから、不妊の原因であるかないかにかかわらず、遠くないうちの妊娠を望むならしないほうがいいものです。百合さんもまだ子どもができません。仕事がら、避妊をつづけてきたのでやむを得ないのかもしれませんが……」
「避妊を禁じている宗教が多いのも、獲得経験で避妊が及ぼす影響がわかっていたんでしょうね」
専業主婦に落ち着いた美歌が、高齢出産にまつわる経験から、文部科学省と厚生労働省とが合議してまとめた性教育事務連絡に異議を提出して、ひと議論を巻き起こすのだが、それは後のこと。
そうそう、とふたりはのっけから大きくわき道に逸れていた話題を戻すのだ。旧文部省庁舎に置かれている部署とは?
美歌はすぐに母親に電話をかけてみると、即答で返事をもらえた。
「文化庁と分け合っている業務ばかりです。総本山と関わっている……いったいなんでしょう?」
その夜である。
百合は鋼音両親のアパートの近くで、出入りする人間の写真をすべて撮ってきていた。
「鋼音ちゃんの両親の姿は見えなかったわ。なにかに備えて、外出を控えているのかしら」
鋼音を連れて行ったのに空振りに終わったが、何階の何号室が転入のあった部屋なのかは確かめてきている。
だがまだ部屋を訪れるのは性急だ。引っ越しの事情がわからないうちは、こちらからの接触は自重したほうが良いと百合は判断した。なので鋼音も同行させなかったのである。
百合のスマートホンに収められた六十枚ほどの画像を、いつもの集中力でパパパと早送りのように確認するヒカリだ。
「すごいわねえ。四十秒でぜんぶ見るなんて」
だが最後まで画像を止めなかったのだから、収穫なしのようだ。百合が仕方なしの顔をしていると、ヒカリは、写真アプリを閉じずに、最後の一枚を凝視している。指でピンチして拡大すると、
「これは、菅原事務局長……」
親占教会からの出先はここだったのだ。まさかの思いに、ヒカリは眩暈を起こしてしまう。
鋼音の両親と会っていたことになるのだ。
鋼音の不安は、現実のものだったのだろうか?




