最終話「悲歌」45
街を二分する大きな河川、吉良野川。
かつてこの橋の橋梁から落っこちたことを思い出しながら、袋から物をばらまいているのは双龍だ。
ちょうどこの真下。川に落ちて、川底に捨てられていた有刺鉄線に引っかかり、川面に出られず溺れ死ぬところだった。
助けてくれたのが、たまたま通りかかった百合。川に入ってまで縁へと引き上げてくれたのだ。頬を叩かれ水を吐いて意識が戻ったとき、全身ずぶ濡れの百合は女神のように眩しかった。
妻となった百合は、あの時よりもふくよかになり、自分を尻の下に敷くようになってしまったが、ヤクザ稼業にはかかあ天下も悪くない。きっかけを作ったヒカリは、いつもニコニコして自分たち夫婦をみてくれる。
百合はヒカリのことを、妹同然と可愛がっている。自分も妹のように大切にしている。再び仕えることになった任侠元締めは、ヒカリを孫娘のように、それは目に入れても痛くないと言わんばかりの溺愛ぶりだ。
そのヒカリの悲願、夫の殺害事件が全容を見せた。今こそヒカリの役に立ちたいと心から願う双龍なのだ。
妻の百合は少し下流で、川に流されたものを拾い集めている。中には、四人分の警察手帳も。
川べりを散歩していたら、こんなものが引っかかっていました、とレジ袋に入れられている数々。
百合の手から一階で勤務する職員に渡された拾得物だ。これらは公安捜査官四人の遺留品として、所轄の捜査一課に届くのだ。
「まずは警視庁公安部に行ってみてください。深入りしなくていいので、帰れと言われたら引き上げてけっこうです」
ヒカリにそう指示された吉川巡査部長は、四人が殺害されて川に遺棄された可能性があるとして、捜査を立ち上げる。だがヒカリの指示なので帳場にはしない。次に警視庁公安部に赴いて、四人の担当案件について事情を聴くのだ。
「四人の捜索は警視庁主導でおこなう。公安任務については話すことはできない」
今泉公安部長はそう決まり文句で所轄刑事たちを追い返すのだが、内心は大いに焦っている。八矢ヒカリを拉致するよう命じた四人が、帰ってこないどころか、公私の所持品が川から発見されるとは。若い女性相手に、捜査官が逆に消されるなど考えてもみなかったのだ。
「さて、今泉公安部長はどう動くでしょうか」
謎をかけられているのは、神林元公安部長の娘である美歌である。父から圭吾殺害事件解決の最終局面と聞いて、矢も盾もたまらずヒカリを訪れたのである。
ほかの公安捜査官を動員したところで、極秘にしたい事態が大きくなるだけだ。だが、状況から川を捜索せねばならない。
不本意だが、富樫総務部長を頼るほかない。今泉公安部長はそう考えるとヒカリは読んでいた。
「ヒカリさんの策で、総務部長が今泉部長に事実を打ち明けられる展開には持ち込めるでしょう。自白という証拠はそれでとれますが、公安部の捜査官は例の四人以外は今泉部長の犯したことを知りません。総務部長が身柄確保を指示しても、今泉部長はそうさせないことを公安捜査官たちに命じられます。面倒ですよ」
「ええ。だから、公安捜査官たちをその場でこちら側に翻意させるのです。誰も今泉公安部長に従わないようにね」
なんですって?とは言わない美歌だ。美歌にはヒカリの作戦を聞かずとも、その知略の深さは仲間なのだからよくわかっている。
「私も同行させてもらって良いですか? 父に報告したいのです」
でもその前に、と美歌は指を一本立てる。
「富樫総務部長を警視総監にする目的もあるのでしょう? これは父の望みでもあります。だから、ヒカリさんからの受け売り言葉、備えあれば憂いなし、です。総務部が安心してことに当たれるように、別方向から富樫部長を援護させますよ」
やはり警視庁が絡むと、美歌の頭脳はヒカリ並みの冴えを見せるのだ。
塚原望は、美歌から指示を受けて、碧泉院流親占教会の事務局長を目の前に、警視庁今泉公安部長との関係性を探ろうとしている。
今泉公安部長が親占教会を舞台とする政治資金規制法違反を摘発しようとしている。表沙汰になれば親占教会は大打撃になるはずが、菅原事務局長は公安に陰で協力している、というのがヒカリたちの推理。なぜなのか、その謎だ。
「私は葛原大師から総本山の事務を任せられている立場ですよ。総本山が世間の批判にさらされるようなことをするわけがない」
「かつて、あなたの手伝いをしてくれた八矢圭吾さんが殺害されたのが昨年の二月三日深夜です。昨年の一月三十一日か二月一日、警視庁公安部からあなたに面会があったでしょう?」
「どうぞ、お調べになってください。来訪者名簿も個人情報ですが見るだけならかまいません」
平然と帳簿をバサリと塚原の前に置くのである。
──偽名……。
偽名を使って来訪したのだ、と塚原にもわかる。だがなぜわざわざ偽名を?それにこの余裕の表情の根拠は?
「事務仕事ですから、総務の方と警視庁でたびたび会いますが、公安はまったく関わりがありませんので」
涼しい顔で言ってのける菅原事務局長だ。
「それは、私がいても同じことが言えるのですか」
そのとき、突然にドアが開く。きつい口調で言い放つのは、工藤巡査だ。突然に見えても、これは塚原との打ち合わせどおり。そして美歌とヒカリの指示でもある。
「これは……工藤さん」
工藤巡査が親占教会に姿をあらわすのはこれで二度目。一度目は富樫総務部長からの指示だったが、今度は違った。
「富樫総務部長からの言付けを持ってきました。総務部が八矢圭吾さん殺害事件には一切の関与がないことを証言しなさい。証言できなければ、あなたが今泉公安部長と共謀したことをすべてしゃべってもらいます」
言付けとは名ばかり。ほぼ、脅迫である。富樫総務部長も、今泉公安部長が焦りを見せていることに気づいていたのだ。逆手にとって、菅原事務局長の身動きを封じれば、今泉部長は逃げ道のない袋小路に自ら飛び込んでいく。
「証言しないのですか。なら、来訪者名簿を押収します。筆跡鑑定をすれば、来訪者が警視庁の何者が身分を隠してここにきたのか、はっきりします」
「押収など、どんな権限で!」
見せるだけならともかく、持っていかれて調べられると具合が悪い。
菅原事務局長は声を荒らげるが無駄だった。
工藤巡査は、捜査令状を広げて突きつける。富樫総務部長は抜け目なく令状も申請していたのである。
「……今ここで証言します。警視庁総務部は八矢圭吾くんの事件には、誰ひとりかかわっていません」
押収を免れるにはそれしかなかった。菅原事務局長の苦渋に満ちた声を、工藤巡査と塚原望はしっかりと記録するのだ。
お疲れさま、と互いをねぎらう喫茶店で、塚原は尋ねるのだ。
「工藤さん、これはどういうことですか?」
菅原事務局長に総務部が無関係であることを証言させる意味である。
「今泉公安部長は圭吾……ヒカリさんの旦那さんであり、あなたが尊敬する故八矢警部補の息子さん。その殺害犯を公安で挙げなければいけなくなったときのために、なんらかの策を立てていたのではないか。神林元公安部長の娘さんの美歌さんは、そう読んだのです。政財界の要人の邂逅を隠蔽したい富樫総務部長が、不正を暴こうとする八矢捜査官を殺害した、という筋書きに不自然がないよう体裁を整えるはず。そのためには、菅原事務局長との口裏合わせが必要です。実際、菅原事務局長は圭吾を捜査官とは見抜けずに、不正な金の受け渡しの手伝いを何回かさせていた。これは菅原事務局長の手落ちですけど、今泉部長は逆に利用して、圭吾が不正の証拠を得ていた証明に使った。富樫総務部長には圭吾を殺す十分な動機が存在すると表向きに言えるわけです」
「いわゆる保険ですね。自分も菅原事務局長に事情を聞いたときに、ギリギリの状況のはずなのに、この余裕は変だと感じました。保険があったからなんですね。来訪者名簿に偽名を書かせたのも、保険をそれらしくするための菅原事務局長の考え」
「そう。私が来訪者名簿を押収すると脅した理由はわかるかしら?」
「保険を生かすためには口裏と記録が合っていないといけないからですね。今泉公安部長は公安捜査官に偽名を使わせて圭吾さんの行方を捜しにきたから、一度は来訪者名簿を確認してその痕跡を消さないといけない。そうしなければ富樫総務部長に容疑をかぶせても自分も同様に疑われてしまうかもしれません。今泉部長と菅原事務局長は肝心なところで疎通ができていなかったんですね」
「あら、状況が読めたなんてたいしたものじゃないの。ヒカリさんが、八矢警部補仕込みで、見込みがある警官だと言ってたけど、本当のようね」
「お嬢さまがそんなことを……」
工藤巡査はフフフと笑う。お嬢さまという台詞が、工藤巡査には言い得て妙に聞こえたのだ。
「あなた、話には聞いていたけど、相当に八矢警部補を尊敬していたのね」
笑いは、工藤巡査らしからぬ爽やかな響きを帯びるのだ。
過去年下に恋した工藤巡査と、年上に惹かれる塚原であっても、このふたりが、遠くないうちに年の差夫婦になろうとは、今の時点では組ませた美歌もまったく想像が及ばない。
工藤巡査からの報告を受けたヒカリと美歌は、連れ立って警視庁に向かう。
ちょうどその時間に、公安部長室を密室にして、今泉公安部長は富樫総務部長を上座に招いて、八矢圭吾殺害の過程と背景を告白している。
もはや警視総監の座に固執している場合ではない。
「富樫部長ならわかるだろう。俺は次の総監は諦めて、富樫部長の支援にまわる。八矢ヒカリをどうにか押さえてくれないか。捜査官四人を闇に葬るとは、彼女を甘く見ていた。占術士として霞が関にも大物の支援者を多数持っているし、碧泉院流親占教会での汚職舞台の摘発は今後も一切おこなわない。富樫部長に助けてもらえなければ、もはや八矢ヒカリを亡き者にするほかないのだよ」
そのときである。公安部長室がノックされるのだ。
「誰だっ。いいというまで近づくなと命令しただろう!」
懇願の途中で腰を折られるなど、まったく腹立たしい。
たが、ドアの向こうからの声に、そんな怒りは冷水を浴びせられる。
「私だ。開けたまえ」
声の主は五味警視総監なのである。
状況などにかまわず、開けねばならない。そして、今泉公安部長は、ああっ、と大きな驚きに見舞われてしまう。
五味警視総監の後ろには、ヒカリが不敵な笑みをたたえて立っているのだ。
「面白いお話ですね。なんでも、私が亡き者にされるとか?」
紫色のカチューシャのすぐそばの髪を掻きながら、苦笑いまで見せるヒカリなのである。
「君、大変なことをしでかしてくれたな」
五味警視総監の表情は柔和で、声も穏やかだ。総監がすべてを知ったと悟らざるを得なくても、今泉公安部長はしらを切りとおさないと、この場を凌げる確率はゼロだ。
「総監。誤解があります。話を聞いてください。この八矢ヒカリは、わが公安捜査官四人を、残忍にも手にかけたのです」
ヒカリと五味警視総監は互いに顔を見合わせる。
今泉公安部長は、その様子に絶望をみる。
五味警視総監は碧泉院流親占教会の支持者なのだ。ヒカリとも親しい。ここには打ち合わせのうえでやってきたと考えるべきだ。
ならばこの場は、捜査官たちの殺害容疑をかけて凌ぐしかない。
「捜査官四人の所持品が吉良野川から発見されました。おそらく遺体を遺棄したものとみて、所轄も捜査をはじめています。私は八矢ヒカリを容疑者として告発を──」
「あら、公安捜査官の方たちが殺害されたなんて、私は初耳ですわ」
「所轄の刑事がここにきたのだ。はっきりと、川を捜索すると──」
ヒカリは、それ、いつの話です?と、とぼけ顔だ。これはもう、今泉公安部長をからかっているようにしか見えない。
「所轄の捜査は終了した。とんだ無駄骨でな」
五味警視総監の言葉のあと、どうぞ、というヒカリの声に応えて公安部長室へ足を踏み入れたのは、四人の捜査官たち。旧黒潮組事務所から、ここへきたのだ。それも、自分たちの意志で。
「なに……?」
捜査官たちはもちろん幽霊なわけがないと、今泉部長の目にもわかる。
鋼音の巻き戻しを受けた捜査官は、捕縛して椅子上で拷問を受けている圭吾との、最後のやり取りを回想する。
「お前が話さなければ、妻のヒカリを拉致するまでだ。妻を痛い目にあわせたくないだろう?」
言いたくない言葉だが、任務だから口にする。
だが、圭吾は力なくうなだれたまま、予告するのだ。
「ヒカリは一歩も外には出ない。そしてお前たちがあの家に侵入するのは無駄だ。無理に入れば、今度は出られなくなる。ほどなく、一般の住居侵入現行犯として、お前たちは警察官の立場を剥奪されてから逮捕される」
「なに……?」
「失敗したとき、今泉公安部長がお前たちを切り捨てるということだ。それをやりかねん人物だと、お前たちもわかっているはずだ」
横溝捜査官から今泉公安部長に与したことを諭されたとき、このやりとりが鮮明に思い出された。
四人は、今泉部長が犯した罪の証人として、ここにいるのだ。
四人の後ろには、今泉部長も記憶のある女性がいる。元公安部長神林の娘美歌ではないか。その手は一枚の紙を広げている。
「そして、この証言書です。親占教会の菅原事務局長によります。ここには、最終局面では、八矢圭吾さん殺害容疑を富樫総務部長になすりつける合意があったとされます」
「なんだと?」
富樫総務部長も、さすがにこの策略には気づいていなかったらしい。こんな非道な計画を持ちながら、保身に協力させようとしていたとは、怒りを通り越して唖然とするばかりだ。
見ると、通路には公安捜査官たち全員が並んでいる。内々に殺されたと伝えた四人が、生きてここにいる。今泉部長への不審は、みな確信に確信に変わっている。誰も今泉部長には従わない。
ことはヒカリの思惑どおりに運んでいる。
はめられた。今泉公安部長は、どうしてこんな単純な罠にかかってしまったのか、今更ながら自分の焦りを悔やむが遅すぎた。
「逮捕は数日待ってくれ。頼む」
今泉公安部長は、自身が逮捕される前に警察を辞した。公安部をはじめいくつもの部署で手柄を上げつづけて、名捜査官と称えられている父親の名節まで汚せなかったのだ。
急な人事はヒカリに味方する。横溝捜査官が部長に昇進したのである。課長を素通りしての飛び級の昇格は、今も警視庁に影響力を持つ、神林元公安部長の進言が大きかったという。
警視総監室で、急遽潜入から戻った横溝捜査官は、
「公安はどこまでもあなたの味方ですよ」
いつかのように、ヒカリと固く握手を交わす。
「八矢の仇をとりましたね。さすが、あなただけのことはある。おめでとうございます」
同席している富樫総務部長も、
「総務部も全力でヒカリさんを援助する」
ヒカリの両肩をがっしり支える。
「五味総監。次期警視総監には、富樫総務部長を推してくださるようお約束ください。まず近日中に警視監への昇格を諮問してください。それが今泉公安部長の罪を内々に処理して、単なる殺人罪とする私の条件です」
五味警視総監も、在任中の不祥事とならない計らいだから、当然首を縦に振る。
ヒカリははじめから、五味警視総監を富樫総務部長支援に回す算段だったのだ。
やはりこの少女は頼りになる。改めて、ヒカリの悲願の成就に、警視庁一丸となって力になってあげようと心に決める、富樫総務部長なのだ。
そのヒカリの悲願──ヒカリの母、睦美。父、信太郎、ふたりの殺害事件。小学校を卒業したばかりのヒカリが遺されてから、まもなく五年になろうとしている。
碧泉院流親占教会──。そこに闇が降りているのは間違いない。
ヒカリを慈しみ導いた大師葛原麗華からの独立を図っていた両親。
辣腕の捜査官八矢圭吾をして、真相にたどり着けなかった事件の背景。
──お母さん、お父さん。私が必ず、真実を見つけるからね。




