最終話「悲歌」43
翌日午前十時。
時間ぴったりに任侠を訪れたヒカリと鋼音である。
鋼音はまだヒカリの身長に届かないが、お下がりで譲られたヒカリの洋服を着て、まずまず似合っている。
そして、ヒカリが愛用していた薄桃色のカチューシャは、今は鋼音の頭にある。
ヒカリはもうひとつの、紫色のカチューシャに付け替えて、今はこちらが馴染んでいるほどだ。
元締めは、自分が贈ったカチューシャがふたりの髪を飾っているのに、目を細めている。
料亭『水月鏡』で鋼音がねだったヒカリ愛用のカチューシャ。末の孫娘のような鋼音だから、贈り主の元締めも快く許可した。
「ふたりは、立ち姿の雰囲気がなんとなく似ているのう」
ヒカリは入院中に、あかりと並んだ鋼音を見て、自分がそこに立っているかのような錯覚を見たことを思い出す。
それは──。
あかりの相棒が、先の長くない自分から鋼音に替わることを意味しているのでは?
そんなことまで考えてしまい、あかりに笑われたことまで思い出すのだ。
元締めに頼みたいことはふたつ。ひとつはもちろん、いざというときの鋼音の保護だ。もうひとつは、行方がわからなくなった鋼音の義父と母親の居所を探してもらうこと。
「私、親から離れて生きていくって、伝えたいんです」
ヒカリのもとですっかり占術士の風格まで付きつつある鋼音だが、その心は、工務の仕事をしていく未来の自分に向いている。
ヒカリもあかりも、保育や高齢者福祉の仕事も考える価値があるわよ、と乗せてくるし、瑠璃は、痩身施術を勉強して私と一緒にカズサビューティーでやろうよ、と腕を引いてくる。
占術士ももちろん選択肢だし、ヒカリは本当のところ、それを望んでいるとわかっている。
なにを選ぶにしろ、自分の道。親から離れた自分の未来だとわかるから、鋼音はヒカリというあたたかい巣から巣立ちたいのだ。
そんな鋼音の決意に、同席している門脇卓は慌てている。夫婦でひとつの希望を話し合ったところなのだ。
「実は、うちの奥が、叶うなら鋼音ちゃんを養女にもらいたい、と言い出しているんですよ」
そう思いがけないことをみなに言ってくるのだ。
ヒカリは驚きながらも、門脇とその女房が、鋼音にひとかたならぬ入れ込みを見せていたことに気づいている。門脇の女房が、可哀想な育ちをしてきた鋼音の境遇を知り泣いていたことは聞いていたし、夫婦ともに強い憐れみをかけているのを感じている。
「鋼音はそう遠くないうちに独り立ちさせるのですよ。子どもを育てる喜びを得たいなら、もっと小さい子を、理想をいえば零歳の赤ちゃんが良いのでは?」
門脇夫婦の気持ちはわかるが、養女となると今だけの話ではない。十年あるいは五年もしないうちに嫁に出すことも考えなければならない。
それに親族でもない十四歳の子を養子にとるなど、男の子なら後継ぎ目当ての事例はあるが、女の子では家庭裁判所も色良い判断はしないだろう。なにかやましい目的があるのではと勘ぐってくる。
「鋼音ちゃんの可哀想な育ちを知れば、そう難しくはないと考えたのですが」
門脇夫妻は、家庭裁判所が鋼音の両親をいわゆる毒親として接見禁止にまでしているのだから、あたたかい家庭に迎えいれるに前向きになると見たのだ。戸籍では任侠という立場は考慮されないこともわかっている。
「鋼音の両親がしてきたこと、事実としては門脇さんがお調べいただいたとおりなんですが、中には鋼音のためを思ってのこともあって、一概にひどい親とも言えなくなっているのですよ」
「どういうことですか?」
ヒカリは、衆議院選挙の出馬話に騙されたことからの経緯と、離れることで鋼音を守ろうとしたとみられる話をすと、門脇もさすがに言葉が出ないでいる。
元締めの思案の顔を見ると、門脇夫妻からは相談を受けていたようだ。だが、ヒカリの困り顔は、あからさまに嫌だとは言えないからで、鋼音を手放したくない思いからだと元締めにはわかる。
「門脇よ。お前たち夫婦が鋼音ちゃんがかわいいと見ているのはわかっておる。だがその理由で養女に取れるなら、わしはヒカリさんをとうに養女にしておるわ」
当惑している鋼音に、ヒカリはその気持ちを慮ってみる。自分のことを思ってくれる大人の存在は、やはり嬉しいのだ。だが、その気持ちに応えてあげることはできない。
「私はヒカリさんのところに居たいです──」
鋼音の気持ちを確かめた門脇は、もう潔い。奥にはどうにか言いかせます、と深く頭を下げるのだ。
「門脇さんご夫妻は、ただ、鋼音を幸せにしてあげたいだけなのよ。わかってあげて」
ヒカリは鋼音の頭を、カチューシャの上から何度もなでて、人の厚意に応えられない負い目をいたわるのだ。
元締めはヒカリの頼みならなんでも受け取ってくれる。だが、それがすべてヒカリのためになるわけではない。ヒカリは自らを危険にさらすことに躊躇がない思い切りを持っている。東原公園。瑠璃を救った地下駐車場。
そして今度はとんでもないファイルを所持している。こんな孫娘はまったく心臓に悪い。
「鋼音ちゃんのことはもちろん引き受ける。ここにいる限り、何者にも手は出させん。じゃがな、お前さんだ。相手は旦那を殺した奴と同じかもしれんのだろう」
「ええ。人を殺せるような人間が、そこら辺に何人もいるわけがありません。それができる人間がいるなら、いざというときのために飼っておくのが常套です。主人を殺した犯人は匿われていて、再び殺人が必要なときに駆り出される。今回がそのときかと思います」
ヒカリは圭吾の殺され方を思い返すだけでつらい。
鉄球のようなもので頭部を砕いた、拷問と同じ、非道な殺害方法。
ときが経った今、
──なぜこんな方法を?
ヒカリの脳裏に焼きつけられた圭吾の無惨な死顔には、そんな疑問がまとわりついている。
葬儀を執り行ってくれた師の麗華、捜査を担当した所轄捜査一課の面々だけが、圭吾の最期の姿を知っている。圭吾の母彩子も、思惑があり火葬も葬儀にも参列しなかったから、その死に方までは見ていないし、ヒカリも痛ましすぎて話せなかったのだ。
殺害のされ方を人に話したのは、ヒカリは今ここがはじめてだった。
「ご遺体を、ヒカリさんは確認されたのですか……」
門脇がこれ以上ない痛みという顔で、言葉を絞り出す。
ヒカリは黙ってうなずくと、やはり涙が一筋落ちずにはいられなくなる。
じっと目を閉じているヒカリ。その耳に、
「──元締め」
門脇の声が入ってくる。
ヒカリが元締めの顔を眺めると、ふうむ、となにか思い詰めた様子だ。
「どうされたのですか?」
「いやな、古い話を思い出しての」
元締めは普段から刻んでいる眉間の皺を、一層深くしてヒカリに聞かせる。
「公安の昔話じゃよ。若いころ、公安の拷問を聞いたことがあってな」
腕組みをしていたのを解いて、両手を膝のうえに置き直す元締めだ。
「わしがまだ二十代、三十代のころじゃ。つまり昭和四十年代から五十年代はじめ、公安では裏切り者に対して拷問をおこなっていた。腸引き、鉄球などじゃな」
「鉄球!」
ヒカリはその言葉にすぐさま反応せずにいられない。思わず身を乗り出してしまう。
「腸引きは、腹を割いて、中の腸を少しずつ引き出すのだ。それだけでは死なんが、引き出し量が多くなれば死に至る。拷問を受けている本人は激痛を受けても意識ははっきりあるから、死が迫る恐怖を感じつづける」
「腸の引き出し……」
ヒカリは戦国時代や江戸時代の、武士の切腹のことを、時代劇好きのあかりからおしえられたことがある。
沙汰としての切腹は介錯人がつくから確実に死ねるが、自刃としての切腹はそれだけでは死にきれないことも多く、割いた腹から腸を自分の手で引っ張り出して死を確実にしたのだという。腸引きは死の手段。それを他人によっておこなわれる恐怖を利用したのだ。
「鉄球もじゃ。椅子に縛った人間に、振り子のように吊った鉄球を顔に近づける。顔スレスレに、鉄球は引き返していくが、顔に当たれば頭蓋骨は砕ける。恐怖を与えるわけじゃ。公安の人間は並の拷問では口を割らないからのう。腸引きも鉄球も、恐怖で吐かせる手段として用いられたというわけじゃ」
「それは本当のことなんですか?」
警察が拷問をおこなっていたなど、にわかには信じがたい。唖然とするヒカリに、元締めは、現実じゃよ、と静かに言う。公安任務には、裏切りの誘惑は付き物だった時代があったのだ。
「当時は割りに知られた話でな。小説や漫画にも題材に扱われておった。現代にはもうないじゃろうが、お前さんの旦那が受けたとみられるとなると、手にかけたのは古い公安を知っている人物ではないかの」
「古い公安……」
ヒカリは暗然とならずにはいられない。公安の昔の実態のことだけではない。
「圭吾くんは、鉄球の拷問を……」
死に様は、拷問のような、ではなかった。実際に拷問を受けたのだ。
「そして、最後まで耐えきって、殺された……!」
公安のことならば、元公安所属の勇気が耳にしたことがあるかもしれない。そう思い立ち、勇気を『光の路』に呼び出してみるが、彼もそんな話は聞いたことがないと、目を大きくしている。
だが、あり得るあり得ないだけで判断するような凡庸な男ではない。あり得るなら、符合する状況を照らすことを怠らない。
「今泉公安部長の父親も元公安です。元締めの話が事実なら、部長が拷問の話を知っていてもおかしくない……」
ヒカリは天井に目を向け、何度も呟いてみる。
「古い公安……。それを知っている、今の公安……」
ヒカリは今泉公安部長の立場になって考えを巡らせてみる。政財界の不正な金の受け渡しの証拠を手に入れるために、どんな手を打ってくるのか。
「私が総本山から独立したときの、命が狙われているという話は、圭吾くんとお義母さんによる作り話です。だから、圭吾くんはセイント・セミコンダクターに復帰したときは、私もそして自分も公安に狙われているとは考えていなかったのだと思います。でも出勤初日に、様子がおかしいことに気づいた。最悪の事態を予測して、クロージングロックを利用したファイルの仕込みまでした。そして圭吾くんは私たちの住まいがわからないように、行きも帰りも公安をまいていたと思います。でも出勤三日目に見つかってしまった。そこでつかまって拷問を受けた」
圭吾はそこで、今泉公安部長が、不正の証拠となるファイルを手に入れようと躍起になっていたと知ったのだ。表沙汰にされれば、富樫総務部長が引責を負う羽目にあうのは明白だ。
「八矢が証拠のことを吐かないから、敵はお嬢を人質にして言わせようとした。そのために、住まいを吐かせようとした」
「私がつかまったら、圭吾くんがしゃべっても黙りとおしても、私は用済みになります。私が消されてしまうから、圭吾くんは決して口を割らなかった」
拷問にも耐えた強靱な精神力。圭吾をなんとしても吐かせたいが、方法がない。
「としても、敵はなぜ殺してしまったのでしょう?」
「おそらくファイルの置き場もお嬢の居所も、吐かせるのは無理だと考えたのでしょう。監禁にも限度があります。長期戦を覚悟して、八矢の自白抜きで証拠を探すことにしたのでは?」
「私は圭吾くんが亡くなってすぐ、鑑定所を立ち上げました。しかし、今泉部長は一度も手を出してきませんでした」
「お嬢が自ら居場所を示したからです。ファイルを持っていたらそんな危険なことはしない。お嬢がファイルの存在すら知らないと、今泉部長は確信したのでしょう。ですが、今はお嬢の手元に渡ったことを知られています。お嬢は非常に危険な状況なのですよ」
そのとおりだ。ヒカリをとらえてしまえば、拷問までせずともファイルを強奪することは容易いだろう。明日にでも刺客は姿を現すかもしれない。
「八矢の殺害について、拷問を証明する必要はありません。八矢の遺体の状況がすべてですから。だが、拷問するには器具が必要。そして、拷問部屋も。出入りした人間が実行犯ですから、部屋を見つけられれば、八矢を殺した連中は捕まえられます」
勇気は昔に公安が実際に拷問を与えた場所が、そのまま使われていると推理する。
だが、ヒカリは今狙われてもおかしくないのだ。早急な対応の必要に迫られている。
「逆もあります。まず実行犯を確保して、拷問をしたことを自白させるのです。器具も場所も明らかになります」
「しかし、どうやって……お嬢、まさか?」
敵の動きに乗ってみる、とヒカリはまたたく間に策を立てる。
勇気はヒカリの作戦が危険なものであると予測がついてしまうが、
「ええ。勇気さんの想像通りですよ。でも勝算はあります」
そもそも安全な道筋などあるわけがない。
ヒカリの双眸は強い光を帯びている。いよいよ、圭吾の無念を晴らすときがきたのだ。
翌日、お昼前にヒカリはあかりとともに街へ出て、ショッピングである。
「打ち合わせどおりにお願いね」
雑貨店で日用品を見て回り、喫茶店でお茶をして、女の子らしく若向けのブティックへ入る。
「つけてきてるわよ」
「うん、あたしも気づいた」
このブティックはあかりの御用達。店長や店員とも親しいのだ。この店にきたのは。もちろん作戦である。
二十分間、店内で時間を費やしてから、通らせてもらうわね。と店長に一声かける。
「地下の機械室の脇を通ると、裏口よ」
あかりの後ろをついていくと、ドアがある。このドアは従業員の通用口なのだ。出勤退勤とも、このドアを使っているのだという。
地下からの出口だが、その先には階段があり、上れば裏の私道だ。表からはなんの入口かはわからない。
店を抜け出し、遠回りをして、ブティックの道路向かいに移動してみると、つけてきた男たち四人が、全員ブティックへ入ろうとしている。ヒカリたちが出てこないので、おかしいと感じて様子を見にいったのだ。
男たちが店に入ったのを見届けると、あかりは路側帯に停めてあるオートバイを指さす。尾行のひとりが乗ってきたことは、ふたりとも感づいていた。ヒカリたちがタクシーを拾うことも想定してのことだろう。
「バイクは厄介だからね」
あかりは裁ちばさみで、タイヤをジョキンと切っておく。前輪の空気が抜けていく。
「ざまみろよ。これでバイクは使えないわね」
「チューブレスだったらどうする気だったのよ」
「そんときはこれ」
あかりはチェーンロックをハンドバッグから取り出す。チェーンカッターがあれば簡単に切断されてしまうが、それでも時間稼ぎにはなる。
「用意のいいことね」
ヒカリは苦笑して、あかりのいたずら顔を頼もしく見るのだ。
「このあとが本番だからね。手筈どおりよろしくね」
「大丈夫と思うけど、気をつけねて、ヒカリ」
敵はヒカリがひとりになるタイミングを狙うはずだ。だからあえて、あかりと別行動をとる。
ヒカリは人どおりの少ない道を選んで、歩き回る。
もちろん、ヒカリが事前に調べた、策に都合の良い道路だ。
果たして、民家の少ない路地にさしかかったとき、ヒカリを四人の男がサッと囲むのだ。
ヒカリは表情を固くしてで四人の男の顔をみる。
どの顔も見覚えがないが、公安の人間だろう。
「八矢ヒカリさん。我々ときてもらいます」
ひとりがそう言い、ふたりがヒカリの両脇を押さえたそのとき、四人が四人とも、ヒカリ以上に顔を固くこわばらせるのだ。
ヒカリを囲んだ四人を、さらに外側から、黒服の男たち二十人が囲んでいたのである。
「四人とも捕らえろ。抵抗するなら叩きのめせ」
門脇の号令に、四人はわずかに武術をみせただけで押さえつけられてしまう。そして、猿ぐつわを噛ませられると、後ろ手に縛られ、ワンボックスカーに押し込まれていく。
「うまくいったわね、ヒカリ」
門脇と並んでいるのはあかりだ。
ひとつうなずいて、ヒカリは携帯電話を取り出す。
「鋼音、出番よ。旧黒潮組事務所まできなさい」




