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最終話「悲歌」42

 『光の路』はもはやヒカリたちの作戦会議室さながらに、押野勇気や塚原望が連日打ち合わせにやってくる。

 大きな寒波が関東地方を包んでいるここ数日だ。氷点下の空気に触れただけで、高熱を発したかのような悪寒に襲われるヒカリだが、そんな様子をすぐに瑠璃と鋼音が察してしまう。平気を装っても無駄だから、娘のいうことはぜんぶ聞いておくことにする。

 三階の私室から『光の路』へ降りるにも、鋼音から、これでもかという厚着をさせられるヒカリなのである。


「お嬢さま。事務局長の周辺を洗っても、なかなかあやしい輩が浮かびません」

 塚原は旧厚生省の厚生労働省、警察庁、旧総務庁の総務省と回ってみた。だが菅原事務局長の仕事ぶりは、裏の世界とつながるようなものもなく、固いものだったという。

 塚原は、ヒカリの期待に応えたい思いが空振りとなり、しょんぼりな顔だ。

「私は警察庁時代の可能性が高いと思っていましたが、違いましたか」

 警察庁なら暴力団との陰のつながりも、その気になれば作り上げられる。だが、事務局長は真面目一徹な官僚だったらしい。

 そうなると残りは旧大蔵省だった財務省になる。もしここも違うとなると、考えられるのは──。

「警視庁子飼いの活動員ね」

 職員ではないその面子など、ヒカリには調べるすべがない。だがここで行き詰まるわけにはいかない。

「あぶり出しの手を考えなくてはいけませんね」

 ふたりの意見は一致する。問題はその方法。警視庁の富樫総務部長付きの渉外役として、親占教会へ出入りし、事務局長と面会がかなう立場になった塚原だ。ヒカリは早速、こんな手はどうでしょう、と塚原に顔を寄せるのだ。



 塚原を送り出したあとにやってきた押野勇気は、圭吾が残したファイルにマーキングされていた四人の捜査官の身辺を洗っている。

 親占教会捜査に加わったなら、政財界のつながりのうち、不正な金の受け渡しを明るみに出すのがこの四人の目的だ。これを世間の目にさらすことができれば、今泉公安部長の名は飛躍的に高まるだろう。

 同時に次期警視総監を争う富樫総務部長は、政財界の邂逅を設けたから、不正が勝手にされていたにしても、昇格レースからは脱落する。

「今泉公安部長としては一石二鳥の事案です。ですが、八矢が残したファイルがお嬢の手に渡った。中村警視が甘すぎた面はあるにしても、部長にはシナリオ外のはずです」

「状況や背景を鑑みれば、今泉部長は敵に与しているように見えましたが、当初は圭吾くんが任務どおり不正の開示を目的に動いていたと思っていたので、関係が悪いといっても今泉部長が敵側そのものとは考えませんでした。ここにたどり着くまで長くかかったのは、まさにこの点にあります」

「八矢が、合法化や隠蔽に特化した捜査官だと気づくのに時間がかかったのですから、仕方ありません。表面上、今泉公安部長は八矢を頼らざるを得ないように見えたのですから」

 うなずきながら話す勇気だが、ずっとその顔を曇らせている。

 圭吾は、ヒカリが狙われているという形を偽装したが、ファイルを持っている以上、本当に狙われかねない状況なのだ。

「向こうが動く前に、圭吾くんを殺した実行犯を捕まえます。私になにか仕掛けるなら、圭吾くんを手にかけたのと同じ人を使うと思いますから」

 強い手を打てる輩など限られている。先に押さえておくのが最善というヒカリの考えは、公安出身の勇気にもわかる。

「マーキングされた四人は、いずれも今泉公安部長が連れてきた捜査官ばかりです。ですが、親占教会に出入りしていたわけではない。どんなことをしていたのか……」

 四人も投入したのだから、今泉公安部長は不正の証拠をつかむのにかなり焦っていたとヒカリはみている。

「圭吾くんが死んで、もうすぐ一年がたつわ……」

 圭吾の命を奪っても、事態はなにも進展していない。今泉公安部長の焦りは、この一年で大きく増幅されているに違いない。

 次期警視総監になるためには、まず警視監に昇格しなければならない。そろそろ推薦される実績を作らなければ、部長職歴の長さからしても富樫総務部長に先んじられてしまう。

 といって、焦りから足を出すような単思考なはずもない。

「勇気さん。やはり先手必勝です。相手の出方を見てからでは後手を踏みます。向こうが動く前にこちらが動く。圭吾くんだったら、きっと陽動作戦に出る状況です。私も倣います」



 ヒカリが私室に戻ると、鋼音が四柱推命の復習をしている。タロットカードが出しっぱなしになっているので、こちらも修練していたらしい。

「熱心ねえ。今夜は工藤さんから勉強もおしえてもらうんでしょう?」

「はい。中学一年の英語がそろそろ終わります」

 そう言って、そらで構文を並べてみる。その発音がうまいのに、ヒカリは驚いてしまうのだ。

「あらあら、お手本どおりじゃない」

 ヒカリは相原咲とのビデオ通話や、レバノン大使館へ電話したときの自分の英語発音が、どれだけ拙いものだったかを思い知るのである。

「あんた、明日私と一緒に元締めのところにつき合ってちょうだい」

 返事も聞かずに、午前十時よ、と決めてしまう。

 ヒカリは自分に危険が及ぶ可能性も考えなければならない。鋼音も巻き添えがあり得る。避難させる先は、やはり任侠がもっとも安全。今のうちから頼んでおこうと思うのだ。


 瑠璃にも話しておかなければならない。

 ヒカリは夕食後のお茶のあと、鋼音には『光の路』で自習をさせる。まもなく工藤巡査が勉強をおしえに訪れてくる時間だから、体よく席を外させたのだ。

 ヒカリは瑠璃を前に座らせる。瑠璃さん、言いにくいんだけど、と口にする前に、瑠璃の方から、

「ヒカリさん、私、決めました」

 と大真面目な顔つきだ。

「なにを決めたのかしら?」

「興味本位とか、なんとなくでは性行為しない。本当に好きな人と、私のことを好きな人と、愛情いっぱいのをします」

 なんの話かと思えば、昨日のつづきのようなものなのだ。ヒカリは、これは話のつかみで、本当に話したいことはこのあとなのだろう、と想像がつく。

 おそらく鋼音のことだろうが、まずは瑠璃に合わせてみよう。

「夢があって結構だけれど、言うは易し、行うは難しよ」

 世の女性たちの現実を見れば、ヒカリのいうとおりだ。そして、性行為まで至れない女性も増えているのも、ヒカリの感じるところ。理想を追いかけすぎると、瑠璃もその組に入ってしまいそうな気がする。

「女の勘、て言葉があるけど、まだ相手のことが好きかどうか自分でもわからないのに、直感で今この人と、てこともあるし、私みたいに、この人を好きになるために、というのもあるからね」

 チャンスは逃すな、だけではない。チャンスは作れ、というヒカリの助言なのだ。

「ヒカリさん、難しくしないでくださいよ」

 渋い顔の瑠璃に微笑みかけて、ヒカリは、瑠璃の話したいことを先読みしてみる。

「瑠璃さんは、鋼音が早い年齢から性行為の経験があったことに、割り切れない気持ちがあるんでしょう?」

 図星だったが、瑠璃の口調は落ち着いている。心は乱れていないようだ。

「正直、ショックです。経験のことだけじゃなくて、鋼音が性行為をまるで道具のような感覚でいたのが……」

「道具……というか、大事なものとして考えていなかった、そんなふうに見えたのかしら。それもわかるけど、違った角度からも見てみましょうか」

 ヒカリは古い風習を持ち出して、かつては性行為が愛情や性欲からは離れたものとして扱われたことを話すのだ。

「初夜権とか証姦とか、性行為を扱う地域風習がいくつもあるのよ。信仰や伝承由来だから、もちろんその地方としては大真面目なんだけど」

 前に私とあかりが関わったムカサリも、信仰からのものだったわ、と懐かしく思い出す。

「私、どれも聞いたことありません」

「初夜権というのは、祝言(しゅうげん)、つまり結婚式を挙げた夫婦の奥さんが、夫の前にほかの男の人と性行為をする風習があって、新婦と性行為する権利のことなのよ。たいていは村の有力者、あるいはくじ引きで権利者が決まるわ。新婦は処女であるべきという思想が根底なんだけど、まあ恋をして処女でない女の人も一定数いるわけよ。だから、処女かどうかを新郎にわからなくするために、先に処女を喪失させる風習が行われたのね」

「その風習、変すぎますよ! 処女でなくてもいいじゃないですか」

「ところが小さな地域社会だから、処女のはずがそうでなかった場合、家の中で男性の家族から一生差別を受けてしまうのよ。それを回避するためのものね。まあ、現代の感覚をあてはめて正悪を決めるものではないから」

「証姦ていうのは?」

「女の子がある年齢になったら、性行為をする風習よ。これは生まれてから数年間は男の子も女の子も同じに育てるけど、ある年齢からは女の子は女の子として育てる、その儀式ね。地域によってその年齢に幅があるけど、たいてい六歳から八歳よ。相手の男性は専門の姦通師だそうよ」

「その年齢でやっちゃう……鋼音の場合と同じくらいの歳で、それも儀式で!」

「そうよ。これは幼女姦通といって神様に女性として認めてもらうものなんだけど、それだけ女性は尊いものとしての神儀らしいのよ。場所も神殿でね。今の感覚ではさっぱり考えられないでしょ」

「めちゃくちゃです……。それっていつの時代の話なんですか?」

「昭和三十年代までつづいてきた地域があったそうよ。ムカサリは性行為ではなく冥婚だけど、今も受け継がれているしね。これらは宗教文化と同じだから、倫理や法律の支配を跳ねつける強さがあるのよ」

「ヒカリさん、その話、鋼音の場合と関係あるんですか?」

 ヒカリは首を振る。

「私がなんでこんな話をしたかというと、性行為は愛情表現や性欲とは関係ない見方もできることを知ってほしいからなの。神儀では玉ぐしのような捧げものとして扱われる。風習ではあるときは秩序、あるときは人の願いとして性行為を用いる。性は大事なものだけど、その守り方、用い方は個人に帰結しないものだという考え方も、否定するものではないのよね。鋼音も自分の性は自分だけのものではないと考えた」

「鋼音のお義父さんがいやらしい気持ちで鋼音としたわけじゃないのはわかってます。でも、鋼音を不安や恐怖から守るほかの方法はきっとあったと思うんです」

「それは、私が昨日言ったことと同じじゃないの。いくら義理でも、父と娘だもの──あっ」

 ヒカリは瑠璃の思いに気づいた。瑠璃は行為のことを言っているのではない。行為を経て、鋼音がどんな思考になったかを悲しんでいたのだ。

「瑠璃さんは、鋼音がこれからも性行為を愛情や性欲と切離して、自分だけのものでなく使うのでは、と思ったのね。確かに今の鋼音には性の羞恥とか尊厳がない。誰かを助けるためになら、ためらわず性を投げ出せる。それが心配なんでしょう?」

「あ、多分……。いえ、そうです!」

 瑠璃自身も、自分の思いがまとまっていなかったのだ。鋼音が機械のように自分の性を守らない気がして、心配な気持ち、可哀想な気持ちが、ない混ぜになっていた。ただただ、悲しかったのだ。

「さすがヒカリさんです。自分でも分からなかった私の言いたかったことを、ちゃんと言葉にしてくれました」

「瑠璃さんはリベンジポルノの件で、男性の性欲というのを知った。でも、男の人もね、好きな女性との性行為は、性欲だけで行うものではないのよ。むしろ性欲は補助的役割。好きな女性を喜ばせたい、その強い気持ちなの。鋼音もこれからきっと恋をするから、男性の性についても、きちんとしたところがわかるわ。愛情いっぱいの性とはどんなものか、それを受け止めればひとりの男性だけに捧げるようになるわよ。見守ってあげましょうよ」

「ヒカリさんと話せて良かったです。私も、鋼音を見守ります」

 同い年の瑠璃が見守る──ちょっとおかしくなりながらも、ヒカリはまた諭していく。

「これはね、瑠璃さん、あなたにもそのまま当てはまるわよ。さっき瑠璃さんは、興味本位やなんとなくでない愛情いっぱいの性行為をすると言ったわ。私は、言うのは簡単だけど、という返しをした。理想は理想、現実は現実。最高の形が頭ではわかっていても、まずは性行為をすることが第一になってしまうものよ。理想をはじめから求めてしまうと、育むという過程が抜けてしまいがちだからね。だから瑠璃さんも、ゴールを追いかけなくてもいいのよ。ゴールを目指していく姿を、私や菜奈さんが見守ってあげるんだから。鋼音もあなたを見守るのかもよ」

 瑠璃はあっとなる。自分で話しながら、自分にプレッシャーをかけていたことに気づくのだ。

「ヒカリさん、ありがとうございます。なんだか、肩の力が抜けました。まだ好きな人もできてないのに、私ったら。恥ずかしいから、もう話は終わりにします」

 そう席を立とうとする瑠璃は、今さっきまで穏やかだったヒカリの口元が、きつく引き締められているのに気づく。

「私の話はこれからなのよ。瑠璃さん──」


 ヒカリはきっぱりとした口調で、瑠璃に言い渡す。

「総本山の捜査をはじめたら、瑠璃さんは西成のお家に帰ってもらうわ」

 鋼音の避難先は任侠、瑠璃は家に返すことにヒカリは決めたのだ。

「そんな! ヒカリさん、まだ体が戻っていないのに」

 寒さに極端に弱くなったヒカリの体調は本当に心配だ。でもそれだけが理由ではない。ヒカリの元を離れたくない。鋼音ともっと一緒にいたい。

「体が良くなっていても、本心は、ずっと鋼音と、そして私といてもらいたいわ。でも、そうもいかなくなったの」

 警視庁の今泉公安部長がヒカリの手にあるファイルを狙っている。ヒカリの元に渡る瞬間を、セイント・セミコンダクター社の小林常務と山本恵梨香に目撃されている。このふたりは、今泉公安部長の協力者だったから、当然報告している。ファイルを力ずくで奪いにくるかもしれない。

「瑠璃さんは菜奈さんからの大事な預かり人よ。危険かもしれないところにいてもらうわけにはいかない。西成のお家に帰ってもらうのが一番安全なの」

「そんな……」

ヒカリが意地悪で言っているのではないのがわかるから、瑠璃には余計に鋭利な宣告に聞こえてしまう。

「瑠璃さんには、鋼音が通学するようになったら、たくさん助けてもらわなければならない。鋼音はここから越境させるから、なおのこと瑠璃さんの助けが必要なのよ。そのときになったら、また会えるから」

 理論派のヒカリだけに、しっかり者になった瑠璃なら諭せばわかってくれる、と思い込んでしまった。しばらくの辛抱だから、と理屈で理解させようとしたのは、大失敗だった。

 瑠璃はドバっと涙を流すと、リビングの床に大の字になり、

「嫌です! 鋼音やヒカリさんと離れるなんて。言うことを聞いておとなしくしてますから、ここに置いてください!」

 てこでも動かなくなってしまったのだ。

 ヒカリにはまさかの計算違いである。

「困ったわねえ。あなたがそんな聞き分けないことを言うなんて……」

性行為を伴う地域風習については、伝承をもとに創作を加えました。伝承そのままを書くか迷いましたが、そのままでは事象が露骨かもと考え、かなりマイルドにしてみましたので、ここでのものはフィクションに準じるものと解釈いただきたく思います。

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