最終話「悲歌」40
翌日。
冷え込んだ朝方が嘘のように、穏やかに陽射しが降りそそいで、肌をあたたかく刺す。
今日からヒカリの捜査が本格的に始動する。
「見てもらいたいのはこれです」
ヒカリは押野勇気を『光の路』に案内し、ノートパソコンからフォルダを見せる。
セイント・セミコンダクター社のクロージングロックを解除して、はじめてあらわれたふたつのフォルダ。
圭吾はヒカリの出生名をパスワードに使っていた。この名を知っているのは、ヒカリ本人のほかは、圭吾と親占教会の者だけだ。
親占教会所属のうちは姓を用いない。ヒカリが『光の路』を興したときに、占術士名に、ヒカリとだけ記したのも、独立前の名残りだったのだ。だから親占教会時代の被験者たちは、ヒカリの出生名字までは知らない。圭吾が残したこれらデータは、自分に向けてのものだと確信している。
ひとつめの碧泉院流親占教会フォルダを開けると、公安所属の捜査官の一覧だ。
「これは……誰がなんの捜査を担当しているのかが一目でわかります」
「この中で、四人の人物にマーキングがあります。陰で総本山の捜査に加わったと疑われる人物ではないかと私は思っています」
「陰で……。八矢とは別に捜査をさせていた?」
「そこがはっきりわかりません。ですがこの名簿の作成日付、あるいは更新日かもしれませんが、令和元年二月一日です。圭吾くんがセイント・セミコンダクターに復帰した初日です」
碧泉院流親占教会と打ったフォルダに収められているのだ。マーキングされた捜査官たちが無関係なわけがない。
圭吾は、政財界の不正を暴くために新たに任務を受けた四人を特定して、記録していたのだとヒカリはみる。
「八矢はこのファイルをお嬢が見つけると期待して、このような手の込んだことをしたのか……」
「日付をみる限り、そうだと思います。圭吾くんは自分に危険が及ぶことを、復帰初日に察知していた……」
ヒカリは次に、警視庁と名がついたフォルダを開く。
「これは……」
再び勇気も驚くほかない。
警視庁が各省庁から依頼された、不祥事隠蔽のリストである。
総務部扱いのカズサビューティーグループも含まれている。
そして──。
碧泉院流親占教会。その名称もある。さらにクリックすると、政治家と財界人とのつながりが複数記されている。歴代経済産業大臣とセイント・セミコンダクター社の組み合わせも。
圭吾がつかんだ、不正な金の流れが、金額まで明記されている。これらはほんの一部だろうが、政治資金規正法違反の証拠として十分だ。
勇気はこれまで長い期間、歴代の捜査官がつかめなかった金の受け渡しの実態を、圭吾が押さえていた事実に、事務局長に疑われず取り入ってここまでのものを、と感心しながら、
「警視庁としては政財界の不透明な金の流れを隠蔽するつもりだった……。八矢もその意で動いた。しかし、神林元部長はそのつもりではなかったはず……」
自らが公安在籍中だったころに照らして疑問も持つ。
「この案件は、神林元部長よりも前の部長からのもの。摘発を目的にはじまった捜査なのは間違いありません。でも、どこかのタイミングで隠蔽にシフトした。富樫総務部長の意を汲んでのことだと思います。神林元部長は次期総監に富樫総務部長を推したかった。この内容が公表されたら、政界と財界とを取り持った富樫総務部長は終わります。つまり──」
「富樫総務部長を警視総監争いから脱落させたい人物は、このファイルが欲しい、ですね」
ヒカリは大きくうなずいている。
「なら、敵は今泉公安部長──」
そう推測するのは容易いが、ヒカリ自身も、構図が簡単すぎる気がしている。それにこれだけでは、ヒカリの両親殺害事件にはつながらない。もっと奥深いなにかがあるに違いない。
「今までの前提が間違っていた……。私たちは、圭吾くんがつかんだ、総本山を舞台にした政財界の不正の証拠を明るみにされるのを恐れた人物が、圭吾くんの命を奪ったのだと考えていました。でも本当は、不正を暴きたい者の手によって、証拠を持ちながら隠蔽を画策する圭吾くんを殺した、です。しかし、圭吾くんを殺してしまっては、不正の証拠が手に入らない。実際、敵は手に入れられず、今は私の手元にその証拠があります。それならなぜ、圭吾くんは殺されたのか」
お嬢、と勇気の目はヒカリを見据える。捜査の焦点が定まった。
「それこそ、この件の核心でしょう。八矢の件も、実行役を捕まえること、そこからです。きっと解決できます」
その実行役を操っているのが菅原事務局長だとすると、当然今泉公安部長側の人物ということになるが、不正が表沙汰になれば親占教会は世間の非難を浴びる。これまでの支持者はみな離れていくだろう。寄付もついえて運営など成り立たない。官僚の立場から転じてまで就いた自分の職場を崩壊させるようなことをするのはなぜだろう。
自分に利するはずの富樫総務部長ではなく、一見敵の今泉公安部長につく。事務局長には百害あって一利なしのはずだ。見えない動機がある。
「そこがこの件の最大のポイントなんだわ」
ヒカリは、まずは彩子の家で話したように、事務局長周辺から、危ない仕事に手を染めるような輩を見つけ出すのを先決とする。
ヒカリから託された塚原は、まずは事務局長古巣の厚生労働省へ出向いてみるのだ。
ヒカリは私室にあかりと鋼音を集めて、相談をする。親占教会に出入りできるふたりには、占術士たちに一昨年の秋から去年の二月までの、外部の人間の出入りを尋ねてもらうことにする。
政財界以外の見かけない人物が教会内にいたのは何月ごろなのかだ。多数の人間が出入りするところではない。一年前のことでも、外部の人間がきたときは、かなり目立つし、覚えているはずだ。
その時期を特定できたら、塚原に事務方に接触してもらい、何者だったかを調べてもらう。来訪者は記録をとっているはずだ。
とはいえ、あかりと鋼音のコンビでは一抹の不安も拭えない。聴取と同じと疑われないように聞き出せるだろうか。
ヒカリは美歌にも捜査状況を話し、協力を仰ぐことにする。
家庭に入り、直接動くことはできないが、警視庁の内情に通じている美歌の存在はやはり貴重な戦力だ。ヒカリの頭脳役として期待できる。
そして工藤巡査。異母兄の富樫総務部長を警視総監の座に就けたい彼女は、その意味ではヒカリの味方として動いてくれる。
陣容は揃った。
そしてヒカリはもうひとり、駒がいることを思い出す。
所轄捜査一課の島田巡査長。警視庁本間刑事部長の指示で異動してきたという彼は、実のところ富樫総務部長が刑事部長に頼んで送った要員なのは明らかだ。
まだなにも指示を受けておらず、本人は自分の希望で強行犯を扱う課にきたと思っているが、富樫総務部長の意は親占教会を通した政財界の汚職の隠蔽。
富樫総務部長は当初、ヒカリが不正な金の流れを表にしてしまうと考えて、その動向を探り、露見の恐れがあれば阻止するために、ヒカリと縁深い捜査一課に送ったのだろう。
だが、ヒカリも今は、圭吾の意志を継ぐつもりだ。それが両親と圭吾の殺害事件を解決することに直接つながる。ならば、島田巡査長はこちら側の人間である。
これとは別に、ヒカリにはひとつ、頭を悩ませることがある。鋼音の過去だ。
鋼音の記憶の封印は、本能によるものではない──それが紆余曲折を経て導いたヒカリの見立てである。
瑠璃の話によると、ヒカリが入院中にも頭痛を起こしていたらしい。知能の回復で解けはじめていても、封印はかろうじて生きていたことになる。
だがヒカリが退院したあと、鋼音は一度も頭痛を起こしていない。知能がほぼ回復しただけでなく、占術士としての高い能力の片鱗すら見せている。
封印を剥がし、鋼音の記憶を完全に回復させるなにかがあった。学校での窃盗もそのときに思い出したはずだ。
いったい、いつ……。
──金谷さんにひとりで会いにいったあの日だわ。
金谷憲斗からは、格別心配するべき様子ではなかったと聞いている。
鋼音は耐えたのだ。あふれるように復活した記憶の大波を浴びながら、平然を装った。ヒカリはそう確信している。
「鋼音──」
ヒカリはまだあどけない鋼音の笑顔を思い浮かべる。
「あんたに、本当は何が起こったのか、まだわからない。でも、あんたが守ろうとしていたもの、私も守るわ」
だが鋼音のことは、ヒカリひとりでは守りきれない。ヒカリ自身もわかっている。
瑠璃。
鋼音にとって、その存在の大きさはいかほどか、わかりすぎているほどのヒカリだ。
だが鋼音の過去を受け止めるだけの人生経験があるわけでもなく、性経験もまったくない。よい意味でも、そうでない意味でも親友なのだ。
ますはここまでの事情を知るあかりだけを再度呼んで、心のうちを話してみる。鋼音は学校から帰宅した瑠璃と一緒に夕食の支度をさせている。
「鋼音はすべての記憶が戻っている?」
「ええ。でも、私にはまだ、話してくれない」
ひとり胸のうちに収めつづけている鋼音は、どういうつもりなのか。ヒカリの推測は行き着いている。
「ヒカリさ、輪姦てすごい恐怖だったはずよ。それを思い出して平然を繕うなんて、鋼音が実は強い精神の持ち主だったとしても、あたしには考えられないわ」
ヒカリは、ふと遠い目をみせてから、そう、考えられないのよ、と抑揚なく口にする。
「輪姦は鋼音自身の発案だった……。それしか考えられない」
「なんですって?」
これにはあかりも素っ頓狂な声になる。
「でも、それじゃ輪姦の恐怖で記憶が封印された、というのはおかしくなるじゃない」
「そもそも輪姦の恐怖が本能による記憶の封印と改竄をした、というのが事実ではなかった。でも封印と改竄は確実にあった。それが起こるできごとが別にあったということよ」
「だって、三回目のそれで、鋼音はおかしくなって、そのあと記憶が……えっ?」
ヒカリは、そうよ、と第三者の存在を示唆するのだ。
「新宿の設営を知った謎の人物が、三回目の日にその場に客として行って、方法はわからないけど、鋼音をいっとき痴呆にした。本能ではなく人為的なものと考えれば、とてつもなく強固なはずの封印が、ほんの一、二年で解けてしまう理由も納得できるわ」
「謎の人物……?」
ここで新たな登場人物は、あかりにも意外すぎる。
だが、その人物なしでヒカリの推測は成り立たない。
「その人物は、痴呆が精神的ショックになり、本能が働き記憶を封印し改竄することも知っていた。そうすれば、鋼音の性供出も終わると読んでいた」
「そんなことを知っている人って?」
「それを知っているのは上級占術士」
ここであかりもハッとする。
「……鋼音の実の父親!?」
まさかとは思う。だが鋼音を性供出から救い出そうと考える人物がほかにいるだろうか。
行方をくらました鋼音の両親。母親から、実の父親は何者なのか、それを聞き出さなければならない。
ヒカリはさらにつづける。
鋼音の月経が止まっている原因にも、思い当たったのだ。
「去年、圭吾くんが殺されたとき、三か月生理が止まったわ。圭吾くんの子どもを身籠ったって、ぬか喜びしたくらい」
「その話は前に聞いたけど」
「お母さんとお父さんが殺されたとき、小学校を卒業したばかりだったわ。もう二年近く月経は定期であって、そんな事件に見舞われても、止まりはしなかった。考えてみると、両親と圭吾くんのときとは、違いがあった」
「鋼音のケースとの共通してる点は?」
「精神的な負荷よ。圭吾くんのときは、私のせいで殺されたと思った。悲しみ以上に、自分をすごく責めた。呵責がそのまま負荷になったから、月経まで止まったんだわ。鋼音も、おそらく精神的な負荷があった。輪姦の恐怖ではなく、自分が悪いんだという自責の気持ちをとても大きく持っていたんだわ」
「じゃ、輪姦は鋼音の贖罪……?」
「鋼音はいまだ月経が戻らない。両親に対して、自分が悪いという呵責を持ちつづけているんだわ」
ヒカリは話しながら、筋道が見えた気がする。診察した婦人科医師のいうとおり、月経は再開する。
「鋼音の一家にあったこと。解決できれば、鋼音の呵責はなくなるわ、きっと。でも、それを聞き出そうにも、今どこにいるのやら……」
「引っ越した理由も、はっきりしないわよね。うまい話があったんじゃないかってヒカリは言ってたけど、あたしもそんな気がしてきたわ」
鋼音の両親は案外近いところにいるのではないか。そんな予感がしてくるヒカリなのだ。
「探し出すわ。どこにいようと、必ず。鋼音の人生を取り戻す」
そのとき、瑠璃が『光の路』に飛び込んでくる。
「ヒカリさん、大変! 大変です!!」
なのに、その顔は喜びに満ちている。
「鋼音に、鋼音に、生理きたんです!」




