最終話「悲歌」38
碧泉院流親占教会に出入りできるのはヒカリのほかは、所属占術士だったことがあるあかり、麗華の付き人をしていた鋼音のふたり。だがふたりとも事務方とはまったくかかわったことがない。
事務方のことを知っているのは、義母の彩子だけだが、彩子は親占教会には顔を出せる立場ではない。
ヒカリも事務方の顔も名前も知る必要のなかった上級の立場だったから、いよいよ親占教会にそれとない捜査を向けるのに、事務方に接触できる人物の協力は不可欠だ。
「そうなると、警視庁か厚生労働省の誰かってことになるわね」
あかりの言うとおり、通常事務に乗じるのがもっとも自然で疑われにくい。だがヒカリは、自分によく通じている人物こそ、事務方に近づけたいのだ。
「富樫総務部長に頼んで、塚原さんを特命にしてもらう手もあるわ」
「それはヒカリでなきゃ頼めない奥の手ね。圭吾さんとヒカリの両親の事件が解決すれば同時に政財界の不正も摘発できるから、塚原さんお手柄で大出世するかも」
「しないわよ。不正に進ませるつもりではなかったにしろ、邂逅を企図したのは富樫総務部長なんだから。世間に見えないように不正を始末するから、塚原さんの手柄はないわ」
「あ、そっか」
あかりは紅茶クッキーをひと口でほおばりながら、書類を眺めているヒカリのほうを見る。
「それなんの書類なの?」
あかりがのぞき込むと、それは各都道府県ごとに分かれた高校のデータだ。
ヒカリの手元にあるのは、澄花が作成した宮様杯全国大会の資料なのである。
「やはり鳥取や熊本、埼玉あたりはレベルが高いわね。石川や青森も今年のチームは過去最強かもしれないわ」
ザッとの流し読みだけで、力の優劣の序列をすぐに組み立ててしまう。
誠実学園高校は、下から三番目か四番目、それも最下位とはどんぐりの背比べの実力と、はっきり言い切る。
「なんだ。総本山のことじゃないんだ」
あまりに真剣に目を通していたので、てっきり親占教会の内部の情報でも手に入れたかと思ったあかりである。張りつめていた空気が緩んだように、ふたりの口もとがほころぶ。
「ひとつくらいは勝ってもらいたいわね」
遠くからでもきっと応援すると、星野桃と約束した。澄花の資料にいくつか書き込みをして、封筒にいれると、ついででいいから投函してきて、とあかりに手渡す。
「作戦を立てられた都道府県があったんだ。桃さん喜ぶわね」
「初戦、その県に当たってくれれば、いい線いく戦いができると思うけど、本戦はトーナメントではなく勝ち数で競うから、誠実学園高校はそれだけで不利なのよね。原田くん、田和くんでは全国レベルにはとても対応しきれない。唯一の実力者近藤くんと力を伸ばした青木くんが勝てるかどうかということころね」
それはそうと、とヒカリは話をかえていく。
「総本山に行く前に、あんたにつき合ってほしいところがあるのよ」
自分を伴うのだから、大事な用だろうと察しがつくあかりだ。
「どこ?」
「八王子よ。鋼音の両親。今度は私は聞き出す」
新たに判明した八年前の、鋼音一家の困窮。ヒカリの心に引っかかるのは、唱歌赤とんぼの歌詞。
──お里の便りも絶え果てた。
瑠璃との会話の中で、ふと思い当たった一節。
唱歌の歌詞は示唆や暗示に富むからね、とヒカリはお里を鋼音の両親に当てはめてみる。
家庭裁判所の命令で両親から引き離された鋼音。一般の感覚なら、子どもを性供出させた親と同居を継続させないからこの判断は当然だ。
だが、ヒカリは一抹の疑念が拭えない。
新宿の輪姦設営を隠しとおすなら、両親と鋼音は離れていたほうがいい。意図して、絶え果てた、にする。家庭裁判所の表面しか見ない判断を利用して。
「鋼音は、両親から離されることがあらかじめわかっていた。家庭裁判所の命令よりもはるか以前に、言い含められていたか、自分で判断したか」
鋼音は輪姦の恐怖から、本能による記憶の封印と改竄を受けた。ヒカリは状況の組み合わせからそう考えた。姉の死に様を目の当たりにした澄花の事例を見ても、とてつもない精神的衝撃ならあり得ることだ。
そして本能の力によって、精神は鋼音が幸せを感じていた幼いころの記憶をベースにしたものに変えられた。
そこなのだ。
その幼いころとはいつのことなのか。
これまでの話から、就学前と考えるのが自然だった。入学まもなくから、職員室に隠れて教員たちの金品を盗ませられたのだから、その時点で幸せな幼少期は終わっていたと見たからだ。
ヒカリの元にきたころの鋼音は確かに幼かった。だが、継父にも実母にも可愛がられていたという就学前がベースなら、あの姿はむしろ賢すぎた。
──私はそこを見落としていた。
鋼音の過去がわかってきたころには、幼さはかなり減じられていたのだ。カズサビューティー新宿クリニックでの社会体験。一週目と二週目では別人のように知能が見違えた。
ヒカリも当初の印象が薄くなった上に、みんなが発達障害と見紛ったのだから、精神年齢の齟齬に気づけなかったのは無理もない。それでもヒカリは今さらに、推測の根幹が覆る気づきに唇を噛む。
「鋼音がきたばかりのころ、あんたも鋼音に会ってるわよね。知能の遅れや発達障害のことを抜きにして、健常で考えたら、何歳くらいの姿だったと思う?」
あかりもだいぶ印象の変わってしまった鋼音から、はじめのはじめを思い出すのは一苦労だ。ようやくひとつ、判断要素を思い出す。
「ヒカリの押し入れから、ワークプレス・エム・テイのアダルトビデオを見つけ出してたわよね。それをみんなで観ましょうとからかったら、トイレへ逃げていった。その反応からして、小学校の高学年かそれより少し前かなあ?」
ヒカリもうなずく。
「女の子で性行為のことがおおかたわかるのは、平均して小学四年か五年生くらい。言葉遣いの幼さは育ちによって幅があるけど、当時の鋼音の様子から、四年生から五年生で違和感はないわ。記憶の改竄のベースになったのは、就学前ではない。小学四年から五年生のころ。今までの話では、継父によって、性被害にあっていたとされていた時期……」
「それは鋼音の作り替えられた記憶の口からのことでしょ。今となっては、本当かどうかわからないわよね」
「そう。本当は、鋼音にとって幸せな時期だったはず。だからこそ、改竄に選ばれた。今から三、四年前。あるいはそれより少し前。鋼音の一家になにかがあった──なにかが……」
「八年前の生活の困窮、そこも謎よ」
親占教会から十分な生活費が支給されていたはずが、日々の食にも事欠いた八年前。そして、幸せな時期として鋼音の本能が選んだ三、四年前。
「あかり。なにかというのは、悪いことではなく、鋼音一家の生活が良くなったできごとだと思う。生活の困窮から抜け出せたんだわ」
「でもそれはいっときだった。生活は再び落ちていった。鋼音は性供出をさせられるまでに……」
ヒカリは朝の台小学校で施した、鋼音による窃盗事件の巻き戻しを振り返ってみる。
「鋼音が学校の職員室で先生たちの財布を物色していたのは八年前。そのときの記憶も封印されていたはずが、いつからか戻っていた。私の巻き戻しが不能になった時点で、鋼音は私に巻き戻しをはね返してきたわ。そして、当時鋼音自身もひもじい思いをしていただろうに、お父さんとお母さんにごはんを食べさせてあげたかった、と言っていた。記憶が戻っていたのは確か。でも、学校のことだけが戻っているというのは、都合が良すぎる」
「じゃ、鋼音の記憶の封印は本当は全部解けている?」
「まだわからない……。あの子の頭痛。なにかを思い出そうして、激しい頭痛に見舞われていた。最近その姿を見ていない。封印が解けたということなのか。でも封印の力は並大抵ではないはず」
頭痛は封印を受けた証拠。しかし封印が簡単に綻ぶとはおかしい。
もっと深く考えないといけない。
ヒカリは時系列を振り返ってみる。
ヒカリのもとで暮らす鋼音は、美歌や百合の指摘から、発達障害ではないかと疑われる。ヒカリもそのように受け取り、診断を受けるかを悩んだほどだったが、カズサビューティー新宿クリニックへの潜入を期に、鋼音の記憶の封印と改竄が緩みはじめる。封印によって低下していた知能が、徐々に回復を見せはじめると、幼さは影を潜め、発達障害の様相が見られなくなった。そして、記憶が呼び戻されるきっかけに触れそうになると、鋼音は激しい頭痛に襲われるようになる。
「あの時点で、封印はまだ生きていた。やはりそうでなければ頭痛は起きない。けれど、本能による封印ではなかった……」
やはり本能による記憶の封印がそんなに脆く崩れるとは思えないのだ。澄花は十二年間も保たれていたのだ。ヒカリが巻き戻さなければもっと長かったはず。だが、鋼音のは本能の強い防御ではなく、人為的に本能を刺激したに過ぎないものだったら。ヒカリの推測はそこに行き着く。
新宿の輪姦設営、そこでどんなことがあったのか。任侠の脅しにも鋼音の継父は事実しか話さなかった。
「これは、鋼音の両親も知らない真実があった、ということなのかも」
事実ではなく裏側の真実……。
もう鋼音には巻き戻しは効かない。鋼音本人からも真実は聞けない。たとえヒカリにでも話すまい。
「八王子では八年前のこと、四年ほど前のことを聞き出すわ。時系列に沿って解きほぐしていく──」
鋼音の占術修行は、昼も夜も関係なく、ヒカリはみっちりと手ほどきをしていく。
昨年に途中まで仕込んでいた四柱推命は、もうほとんどの読み方をマスターしてしまっている。ヒカリも小学五年生のときに四柱推命は二か月で覚えてしまったが、その後の鑑定事例との照らし合わせには独学になったため時間がかかった。そんなヒカリからのおしえだから、優れた教科書のようなものだ。鋼音はそこも順調にこなしていく。
「明日からはタロットも並行していくわ。あかりからある程度は仕込んでもらっているでしょ」
「ヒカリさん。私、釘と金づちを持ちたいです。ノコギリを引いてカンナをかけたいです。図面の引き方をおしえてもらいたいです」
年頃の鋼音は新光生活サービス社の金谷憲斗に淡い気持ちをいだくようになったらしい。
これが恋心に発展したら、性のことも求めたくなる年齢だ。鋼音の記憶封印がまだはっきりしない今は、色恋からは遠ざけるべきだろう。
それでもヒカリは、女性としての希求は守りたいと思う。
「もちろん、あんたのやりたいことはなんでもやらせてあげるわ。工務の仕事がしたいなら、身につかせてあげるし、四月からは学校にも通えるようにしてあげる。瑠璃さんと同じ中学よ」
黒潮組が四国の勢力から狙われたとき、ヒカリは事務所跡を学習塾に装い、鋼音を生徒役で駐在させた。教師役は美歌に頼んでいたが、新婚旅行と日程がぶつかり、その役は友人の警視庁所属工藤巡査に引き継がれた。
鋼音は小学校四年生までの学習過程を数日で覚えてしまった。工藤巡査は、たとえれば植物が水と養分を吸収してあっという間に大きく育つ姿を、鋼音に重ねて、定期的に鋼音に勉強をおしえに訪れてきてくれる。
鋼音はまもなく小学校の過程が終えられそうだという。四月までには、中学二年生の過程までいけそうだとも。鋼音は頭の良い子だと工藤巡査は楽しそうにいう。
「保育や介護の仕事をしたいなら、未来のために学校に通うことが必要だからね。でも、なにをするにも、占術は身につけておきなさい。あんたは──」
占術士の子どもなんだから。そう言ってしまうのにためらってしまうヒカリだ。
「あんたは、自分で未来を切り開くんだから」
百合からおしえてもらった道順通りに歩くと、かなり古びたアパートを見つける。ここが今の、鋼音の両親の住まいだ。
だが。二階の真ん中の部屋だと聞いているので、そこへ訪ねてみると、空き部屋なのである。
「いつ退去したのかしら」
両隣に尋ねると、つい先週だという。
賃貸を仲介する不動産屋に電話で問い合わせると、急な引っ越しをしたらしい。
「気になるわね。逃げるようにいなくなったように感じるわ」
ヒカリはまた両隣を尋ねてみる。
右の部屋の女性は三十代くらい、このアパートのように歳の割には肌のくたびれた、苦労を重ねていそうな主婦だ。
「こちらが引っ越す前に、役所や警察が訪ねてきたとかありましたか?」
「公的機関かはわかりませんが、頻繁に訪ねてきてましたよ。なかにはヤクザみたいな感じの人もいて、気味が悪かったです」
いなくなってくれてホッとした、という隣人はまだ小さい子どもがいるようだ。変な事件に巻き込まれないか心配していたらしい。
左の部屋は五十代の一人暮らしの女性だ。こちらの部屋が、鋼音の両親の部屋の茶の間と隣接している。
「話の内容までは聞こえませんけど、三十分、一時間といることもありましたよ。争うような大きな声がしたことはないし、友人知人という感じでしたが」
急な引っ越しは頻繁にきていたという来客が理由だろうと容易に予想できる。
わざわざ八王子までやってきて骨折り損となったが、鋼音の両親が姿を消したのは、なにかのトラブルを起こして逃げたわけではなさそうだ。
「ヤクザみたいな人というのが本当にその筋かはわからないけど、なにかのヤマに誘われたのかもしれないわ」
「ヒカリったら、刑事みたいな言い方して」
あかりのからかいも、空気を和らげるまでは至らない。ヒカリは鋼音の両親に会えなかったことが残念でならないのだ。今は推理を働かせるしかできない。
「引っ越しをしたということは、ここではない場所に住むことが必要になった。おそらく、すでにある程度進んだ計画に誘われたことになるわ」
両隣の話から、百合たちが訪ねたときには、もう怪しい連中の出入りはあったとわかる。
「百合さんと美歌さんが訪ねたとき、ふたりを部屋に入れなかった……。そう聞いたときは不自然には思わなかったけど、部屋に入れると具合の悪いことがあったのかもしれない」
ヒカリは不動産屋から、契約書類に記されている鋼音の継父の勤め先を聞いたが、とっくにそこは辞めており、おそらくその先も転々と職を変えていたような話だ。
百合と美歌がチラリと目にしたという作業着から、当時の働き口を突き止めることは可能かもしれないが、日雇いででもあればそれまでだ。
「生活に苦労していたみたいなのに、引っ越しもお金がかかる……。いい儲け話でもなければ急な退去はしないわよね。それにしても、どこへ……?」
ここで考えてもはじまらない。ヒカリたちは帰途の道を歩くが、それでも何度も古アパートを振り返ってしまうのだった。




