最終話「悲歌」37
葉山由紀子を『光の路』へ呼んだヒカリである。最初に相談を受けたあかりも同席だ。
「あかり女史の鑑定も私の鑑定も、川原さんとの結婚は薄いと出ていました。それは由紀子さん、そもそもあなた自身も薄々は感じていたのでは?」
由紀子は肯定も否定もせず、ただ、なにか一点を見つめている。ヒカリにはわかる。由紀子は、気持ちの彼方にいる結婚を果たした由紀子を見つめているのだ。
「親御さんを見送ったらひとりきりの人生になる。その恐怖は本当でしょう。でも、まだそのときを肌で感じるようなリアリティはお持ちでない。ご両親はまだお元気に健在ですから。だから、あなたは想像の自分を追いかけているのです」
あかりもそうかと納得するのだ。
「環境に変化がないから、十代後半、二十代だったのが、そのままアラフィフに。肌感覚はずっと変わらずのままで……」
ヒカリの目は、あんたも他人事じゃないわよ、とこれは意地悪な色だ。結婚、結婚と騒ぎながら身の回りはなにも変わらないのは由紀子と同じとヒカリには映る。
「結婚して、頑張って子どももひとりは産んで、夫と子どものいる家庭を持っている自分を想像するんです。素敵な自分がそこにいるんです」
昨年の大晦日、ヒカリと話した工藤巡査と同じなのだ。結婚に憧れていたのではなく、結婚した自分を想像し憧れていた。
だから想像どおりの自分になれる相手でなければ、結婚など考えられなかった。結婚の継続に悩む姿の自分などあり得ない。結局こんな歳になってしまっていた。
四十八歳で子どもを望むのは、例はあるにしても万にひとつくらいの確率だ。それなのに、由紀子は頑張れば子どもを作れると思っている。
相手から選ばれるかどうかも含めて、現実を直視しない。憧れの姿ばかりをみている。
こんな女性は多いのだろう。両親もそんな娘の現実逃避がわかっていたのだ。だから、奇跡的にあらわれた、憧れの自分になれる機会をなんとしても叶えてあげたかったのだ。
謙次郎も謙次郎で、そんな由紀子を、単に自分に気がある女のひとり、と簡単に考えて利用してしまった。
ヒカリは自分の体験を重ねて、由紀子に諭す。
「相手が好きな人である必要はないし、憧れる自分である必要もない。結婚は、幸せを作ろうとする自分を保てるか、それだけなのです。それだけで、相手はかけがえのない存在に変わります。幸せは作るもの。自分はなにもしないで、相手から与えられる、そんなものではありません」
長い年月、素敵な自分を追いかけていた由紀子が簡単に納得できるとは思わない。だが、現実を肌で感じる。理屈ではなく感覚が、由紀子に今を見せる。
「これから私はどうしたら良いのでしょう?」
「おひとりで暮らしてみてください。もちろん、ご両親に目を配れるような距離を残してです。ひとりの時間を存分に使って考えてみるのです。そして憧れの自分という終点ではなく、結末のないストーリーに踏み出してくださいな。一歩先、結婚はあるかもしれないしないかもしれない。結婚にこだわらなくても、幸せを作っていく、それは自分からの行動ですから。良さそうな遺伝子を持っていそうな相手と子作りしてもいいかもしれません。可能性はゼロではないのですから」
子どもが作れなくても、その努力をした。それだけで、何もしないよりは悔いは小さくなる。
「私、まだ……男性の経験がないんです。処女なんです。どう行動したらいいのか……」
ヒカリは、それなら、と微笑む。その可能性もあると思っていたのだ。
「由紀子さん、何歳であっても、行動は同じなんですよ。十代、二十代なら処女の人もたくさんいます。その人たちはどうやって性行為で人生に潤いをもたらしたか。好きとも言えない男性とお見合い結婚をした女性は、どんな気持ちで性交渉に臨んだか。性行為のあとどんな幸せな気持ちになるのか、ワクワクしてみましょうよ」
由紀子の結婚運が薄いのは、若いころからずっとだったに違いない。環境を変える。由紀子自身が変わる。世間には結婚も出産も無理と思われても、運の向きは変わる。
街の不動産屋の主人はヒカリのことを覚えていた。
ヒカリも、あれにはびっくりしました、と潰れた家屋を回想する。
今野純穂が住まいしていた、築年不詳なほどの古い平屋建ての貸家。純穂が退去する直前、柱がみな折れてしまい、訪れたヒカリの胸の高さまで軒は下がっていた。
「住んでいた嬢ちゃんが引っ越し先にいてくれて本当に良かったもんだ」
ヒカリはその家の持ち主のことを聞きに、この不動産屋主人を訪れたことがある。今回の再訪は、個人経営としては大口の契約となるから、主人も喜んで物件を紹介してくれる。
鍵を借りたヒカリは、街から少し離れた静かな通りに面する建物で、呼び出したみんなを待つ。
「テナント兼住宅の物件は多くないから、希望を言えばきりがないでしょうけど、ここはネイルサロンにするには悪くないと思いますよ」
ヒカリに橋中円香と幸香、川原謙次郎、瑠璃と鋼音の五人で、十四坪というテナントスペースを見回し、明るく採光できる間取りから作業と歓談のポジショニングを考える。
「私と幸香、ネイリストふたりだから、こっちとこっちにそれぞれテーブルを。道具と器具は最初は共用でも、幸香が一人前になれば自分専用のを持つから、そのスペースもいるわね」
円香はその目に、もうイメージを映している。
「おふたりが並んでネイルを作られるんですね。想像するだけでウキウキしてきます」
瑠璃も、今日はデザインを落としてしまった自分の爪を見やって楽しげだ。
つづいて二階に上がり、三部屋の居住スペース。ここで三人が暮らす。円香と謙次郎は夫婦となるのだ。
「土地は賃借。建物は買い取りで七百万円。築十年経っていないからいい物件だと思うわ。まずネイルサロンのリフォームにざっと三百万円。備品と用品に二百万円。二階のリフォームに二百万円。新生活資金に二百万円。川原さんと円香さんたちに必要な家具はすでにそれぞれありますし、引っ越し費用のほかは、あと支出は多くないです。車も川原さんがすでにお持ちです。退職金も半分は残ります。運転費用には十分すぎるくらいでしょう」
ヒカリもこの皮算用は当てにできると感じている。円香の技術は多くの女性を虜にしているのだ。ここにも虜にされた女の子ふたりがいる。
「土地の賃料は決して安くはないですが、円香さんは多くの固定客をお持ちなのですから、ネイルサロンもすぐに軌道に乗りますよ。幸香さんの若い感覚でティーンの顧客を取り込んで、どんなお店にしていくか。瑠璃さんと鋼音もアイデア出しなさいね」
幸香はいつかはと思っていた夢が、突然に叶った喜びでいっぱいだ。しかも、母は再婚の幸せもたぐり寄せた。娘としても嬉しいし、勝手な兄もきっと家に顔を出すようになるだろう。
「瑠璃ちゃんと鋼音ちゃんのお母さん、よくこんな物件見つけてきたわね。しかもうちからそう遠くないし、引っ越しも楽だわ。間取りも広いし最高!」
フフン、と自慢気に鼻を鳴らす瑠璃と鋼音は、
「私たちのお母さんですよ。当然です!」
ふたりでヒカリの両肩にもたれて、仲良し母娘を気取るのだ。
ヒカリは契約の手続きに、謙次郎と連れ立って不動産屋へ足を向ける。登記上の主は謙次郎となるのだ。
車の助手席で、謙次郎から話しかけられる。
「私はいつかデータのことが露見するのではないかと、ずっと怯えていました。しかし、会社で今の地位でいるためには、仕方がなかった」
「警視庁からセイント・セミコンダクターを凋落させる手伝いを持ちかけれて、渡りに船と思われたでしょうが、そんなに甘くありません。警視庁も経済産業省からの依頼だったのです。露見のときは見捨てられると、冷静になって考えればわかるはずのことでした」
エムジー工業日本法人の佐藤、七海の父であるが、彼から不利益な扱いをされ、業績の低迷に視野を失くしていたのだろう。
「由紀子さんは直接データ窃盗に関与していないので、ハウエルには残れるでしょう。彼女のことは私にまかせてください。現実に目を向けて歩んでもらいますから」
もう由紀子とは話を終えている。彼女が自ら動くことができるのか、ヒカリはもう見守るだけである。
ヒカリはずっと気になっていたことを、謙次郎に投げてみる。
「あなたがずっと独身を通していたのは、結婚に負のイメージが強かったからなのでは? そしてそれは今でも……」
「世の中金がすべてではありませんし、私生活では金で買えないものもたくさんあることはわかっています。ですが女の立場になると、すべて金の世の中に見ることができてしまうのです。私は収入が恵まれており、経済的な不自由さはありません。それを当たり前にして、見栄と浪費で私の収入を食い潰しても、まだ愛情が足りないなどという浅薄な女がいかに多いか」
ヒカリはそんな女性被験者を数多く観てきたから、
「私も女性として、そこは否定しません。それを守られていることだと思う人は一定数います」
謙次郎が結婚にあえて距離を置くのは、高収入ゆえに寄ってくる女性も金目当ての類ばかりだったからと察する。
「でも、お金より愛情が完全に勝る女性もたくさんいますよ。私の口から、昔は、なんて言うのは口はばったいですが、食べるのがやっとの貧乏な男性を選ぶ女性のほうが多かったではありませんか。自分を愛して選んでくれるなら、低収入でもかまわない。低収入の男性を支えることに母性本能と生きがいを感じていくという」
「もはやドラマの世界でしょう。世の女たちは、まず収入はいくらで、住まいはどうで、家事の分担は、子育ての負担は、とステイタスと手間の軽減を先に考える」
「まあ、なにを幸せと考えるか、幸せと満足の違いをわかっているのか、そこが噛み合わない男女が一緒にいれば大変です。小諸典子さんは完全にあなたのいう口ですし、円香さんもそちらの部類です。でも、あなたは円香さんとだけは体の関係を持たれた。私はその気持ちの本当のところを知りたく思います」
「正直、円香から迫られて、一番重要な潜入をさせているので、仕方なくという流れでした。ですが……」
「やっぱりそこから情が生まれてきた。お互い相手に喜んでもらうため、というのが性行為の本質ですからね。それがなかった由紀子さん、典子さんはどうやっても仕事の部下にしかなり得なかったわけです。そして、仕方なしであっても円香さんと縁を結んだ。その縁が情になり家族という絆を築くきっかけになった。これが世の中です」
「あなたには感謝しています。円香のことも、ことを地下で収めてくれたことも。本来なら懲役で刑務所に入るか罰金で破産するかでした。懲戒解雇では退職金ももらえない。これから退職金の半分を円香のために使うことになりますが、今の私には有意義な使い方です」
「こういうのを、結果往来というのだと思います。何人かの人が幸せに向かえる結末なのですから」
「しかし、あなたはそれで良いのですか? セイント・セミコンダクターにとってはライバルを潰すチャンスをフイにしたのですよ」
「社業で競えばいいだけの話です。エムジー工業は公正さを欠く取り引きをつづけるでしょうが、それもビジネス社会の常。そこを罠や貶めではなく、知恵と工夫で乗り越えるのが本当なのですから」
ヒカリはコンサルタントを装ってみて、コンサルタントらしい思考が身についたようだ。
「そのとおりでした。円香をセイント・セミコンダクターに送り込むなど、すべきではなかった……」
ヒカリは、それも終わったことです、と、ここでやっと本当の気持ちで笑みを見せる。
「同じ秘密を同じお墓までもっていく。夫婦の形として、こんな同志の形も悪くないでしょう?」
「小諸典子さんとおつき合いしているように見せかけたのは、円香さんとの関係のカモフラージュで合ってますね?」
「彼女が気の多い性格なのはみなが承知です。円香との関係に気づかれないようにするにはもってこいで、私のほうから食事や映画などに誘いました」
「そのとき、由紀子さんへのように、気を持たせるようなことをおっしゃったのでしょう。彼女は相思相愛と勘違いしています。息子さんにも、そのように話していますから。面倒ですが、これも私のほうで処理します」
「いや、典子には、私のほうからはっきり、交際は見せかけだったと伝えます。けじめをつけなければ」
妻子ある男ばかりに魅力を感じて恋愛を重ねてきた典子が、独身の謙次郎に想いを寄せる。謙次郎の経済的ステイタスに惹かれたところはあれども、これまでの恋とは違う気持ちのはずだ。たとえ謝罪でも会わせるのは危険とヒカリは考える。
謙次郎がハウエル・エレクトロニクス社を退職したのだから、もう顔を合わせずに済むのだし、別の方向から手をかけるほうが良い。
「その男気だけで十分です。あなたが話せば、余計な未練を生むか、恨みを受けるかしてしまいます。私に考えがありますので」
謙次郎は、典子に期待を持たせすぎたと、今さらに後悔するのだが、
「うちの娘は子どもに見えて、実は頼りになるんですよ」
含みのある微笑みを返すヒカリなのである。
典子の息子が、警察から呼び出しを受けたのはその翌日。
被害届を出されたら、少なくとも書類送検になると聞かされて、慌ててやってきたのである。
所轄で対応したのは、元旦に署まで連行した吉川巡査部長。そこに少年課の浜田巡査部長も。息子が未成年時に補導したことが何度かあったという。
「お前なあ、ガキのころとちっとも変わっていない」
浜田巡査部長が、息子がまだ未成年のときと同じ話しかけかたをすると、かげでクスクス笑う声がする。
「ここは笑うこところではないでしょう」
「だって、本当に少年課の刑事みたいなんですもの」
そう言ってさらにクスクス笑い、姿を見せるヒカリである。
「本当にって、正真正銘少年課刑事なんですがね」
ヒカリの笑いは、少年課刑事らしい姿を見たのははじめてだ、ということなのだ。吉川巡査部長も、そういえば今までまるで別の課の刑事にしか見えなかったですね、とニヤリと追い打ちをする。
そんな和やかな空気にしてから、
「小諸さんの息子さん。元旦以来ですね」
思い出させようと声をかけてみる。
「あ、あ、あんときの振袖おばさん!」
「おばさん……」
今度は浜田巡査部長が笑う番である。それもダハハハハと遠慮のない大声で。
近ごろおばさん呼ばわりされることが増えたのは、母親役が板についたからだと思うことにして、
「あいにくあなたよりも年下なのよ」
ちょいとつむじも曲げてみる。
他愛もない会話は置いておき、ヒカリは典子の息子の気持ちを聞き出そうとする。
「お母さんが好きな人、あなたは気に入らないのかしら」
「……」
無言はときに心の声を雄弁に伝える。今がそれだ。
「お母さんが幸せになるなら、本当は受け入れる。本心はそれね」
息子は下を向いてしまう。
「俺が嫌でも、母さんには母さんの人生があるのは、わかってるんだ……」
ヒカリは、この息子の心根は優しいものだと見抜いた。ヒカリも優しさをたたえた目で息子の気持ちにこたえてみる。
「あなたがその相手の男性から被害届を出されれば、という話は、あなたに会うために私が考えた芝居なの。川原さんはそうはしない。今日はあなたにお願いがあってね。それと、もし良ければなんだけど──」
典子の息子を連れて、ヒカリは約束していた喫茶店に入る。
「お待たせしたわね」
そこに待っていたのは瑠璃。そして伶奈という十九歳の女性。
瑠璃がリベンジポルノの被害にあった昨年、彼女も被害者のひとりだった。といっても、後に玲奈の性的同意は認定され、被害者からははずされたのだが、対価を求めたことで売春防止法には触れることとなり、送検は免れたがおとなしくしているさなかだ。
「瑠璃ちゃん、彼氏紹介してくれるって、この人?」
互いに複数回の補導歴があり、会話の中から、相手の気持ちも行動も、ああ、わかるわかるよ、と共感が生まれる。
ふたりを会わせるのは瑠璃の発案だ。頼みごとのお礼に異性を紹介するのはいいやり方ではないが、目の前のふたりは初対面から良い感じだ。
「お母さんに、あの男は絶対認めない、別れないなら親子の縁を切る、と迫って欲しいのよ。どちらにしろ未来のないふたりなのだから、このままをつづけても無駄な時間を費やすだけよ」
典子はひとり息子をそれは可愛がって育ててきた。父親知らずで生まれてきた子だから、母親の愛情だけはしっかりと注いできたのだ。息子も母親はかけがえのない、そしてたったひとりの家族。典子の身持ちの悪さを周りに貶されても、グレて警察の手をかけられてからも、母親だけは大切にしてきた。
そもそも謙次郎を気に入らなかった息子は、
「こんな可愛い子を紹介しての頼みなんて、あんたもずるいよなあ。この前は俺たちと話す前から警察呼んでいたんだろ? 時間稼ぎしてたなんて、計画的で腹が立つぜ」
という顔は嬉しさを隠せていない。伶奈を一目で気に入っているのだ。
可愛い息子が強硬に反対すれば、典子もあきらめもつくし、恨みつらみも、この息子が懐柔してくれるだろう。
伶奈は自分を可愛いとはっきり言ってもらえて、まんざらどころか、すっかり彼女になった心持ちらしい。
「ふたりがお似合いだって、私ピンときましたもの」
瑠璃は自信たっぷりの顔をしてみせるのだ。
澄花の現役時代の軌跡を紹介するコーナーのオンエア日が決まった。澄花の次々回の出演日である。
四分間の尺で、ナレーションの瑠璃の収録も次の土曜日と決まる。
その土曜日、滑舌のトレーニングはあまり進みはしなかったが、どうにか格好だけはつかせて、いざ収録に臨んでみると、思いのほかすらっと進む。瑠璃は本番に強いのである。
案ずるより産むが易し、という諺は私のためにある、と調子に乗ってしまい、ヒカリにたしなめられてしまうが、澄花からは、
「落ち着いたイントネーションで、まるで名選手の足跡みたいでした」
と褒められる。瑠璃は感情を込めて吹き込むか、淡々と朗読するか、使い分けができるようになっていたのだ。制作会社の女性ディレクターは、成長していた瑠璃の肩をポンとたたく。
「現場から離れて、一皮剥けたみたい。ヒカリさんが許せば、またお願いしたいわ」
「ごめんなさい。本当に、これが最後です」
穏やかな微笑みをたたえた顔の内側には、固めた意志が熱く流れている。瑠璃は将来に向けて、歩む方角を定めたのだ。




