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最終話「悲歌」35

 セイント・セミコンダクター社の対外課。輸出品目データにクロージングロックがかけられた。

 ヒカリの依頼に、駿河専務が動いたのだ。

 橋中円香はまだ対外課に置かれているが、当然解くことはできない。園田課長、千田課長代理もいない中、今データが必要なのは、ハウエル・エレクトロニクス社に陰で協力している人物。



 クロージングロックの仕組みはもうわかっているヒカリだ。このシステム、パスワード入力でロック解除されるのは従来のものと同じだが、入力前にカメラの顔認証システムを通過するプロセスがバックグラウンドで働いている。

 澄花の助言どおり、入力時にタスクマネージャーを開いてみると、カメラの起動が確認できたのだ。

 つまり、特定の人物以外はパスワードを解除できない仕組みなのである。

 しかし、顔認証システムというのは脆い。顔さえ合っていれば、本人がそこにいなくても認識させられるのだ。

 ヒカリは人事部から、対外課全員と重役全員、重役に深く関係する他部署の社員の履歴書を預かった。

 履歴書の顔写真をひとりひとりパソコン内蔵のカメラにかざして、認識される人物を特定しようとした。だが誰ひとり、顔認証を突破できない。ひとりひとりに、すべてのアルファベットと数字で一文字目を試したが、壮大な徒労だった。

 顔認証、そしてパスワード。これを解除できる人物は誰なのか。それを知っているのは開発者だろう。

 では開発者は何者か?


 ヒカリがこのタイミングでクロージングロックを依頼した理由。もちろん園田、千田という対外課の責任者がいないからだ。いまだ発動されたことのないクロージングロック。このふたりのどちらかが開発者から託されたパスワード生成者なら、顔認証もこのどちらかのはず。しかし、認証システムはふたりとも弾いた。のみならず、可能性がありうる全員がだめだった。


 百合は小林常務が怪しいとみた。確かにハウエル・エレクトロニクス社と陰でつながっているのは彼だろう。園田こと中村警視に指示を出していたに違いない。それはヒカリにも推測できる。

 だが、顔認証は彼でもなかった。それにクロージングロックのパスワード生成まで任せられるだろうか。前身企業から献身的に勤めてきた苦労人。だからこそ、社秘には関わらせない。ブルーカラー上がりを扱う鉄則だ。

 では誰が? 顔認証は誰のものが?

 ヒカリは再び澄花を頼った。

「私なら──」

 澄花が導き出したのは、ヒカリにとってまったく意外な人物だったのである。


「野村さん、小林常務です」

 円香は夜の対外課に潜んで、こっそりパソコンを開けにきた人物をメールで報告してくる。

「どうせ解除できません。次にくる人物こそ本命です。よろしく」

 ヒカリはそう返信する。

 そのヒカリは、次に対外課にあらわれるであろう人物を見張っている。その人物は新小岩駅近くのファストフード店で長居を決め込んでいる。連絡を待っているのだ。

 ──きっと動くはず。

 ヒカリの姿はコンサルタント野村ユカリのいでたちではない。紫色のカチューシャを頭につけ、いつもの十七歳のヒカリらしい服装と薄化粧だ。

 その人物は電話を受けると、え?と訝しい顔になり、携帯電話をしまうとそそくさと立ち上がる。


「きました。この人は──」

 円香がメールを文字打ちしきる前に、その人物の後ろから音もなく姿を見せたのはヒカリである。

「ご苦労さま。やっと動いてくれましたね」

 ヒカリの声に、あっと声を出すのは対外課にまだいた小林常務。そして、今入ってきた山本恵梨香なのである。

「あなた……まさか、野村さん?」

 勤務時のキャリアウーマンの印象とは似つかぬ、十代の少女そのもの。ファストフード店では近くにいても、恵梨香はまったくわからなかった。あのやり手風の眼鏡もない。隣のテーブルで澄まして烏龍茶をすすっていた少女が、野村ユカリだったとは。

「駿河専務はクロージングロックをかけることはできますが、解除はできないのです。方法を知らないから。だから、私がロック実行をお願いしたとき、永久に解除できない事態を考え、一度は躊躇したのです。でも私は考えました。クロージングロックは社秘技術ですが、いつから導入されたのか──」

「あれは確か……」

 小林常務が記憶をたどったとき、恵梨香ももしかしての顔になる。

「それがわかったとき、私は顔認証の対象者とパスワードもわかりました。さあ、山本さん、あなたもやってみてください。そのためにここにきたのでしょう?」

 ヒカリの口元が不敵に笑う。澄花が導き出した顔認証の人物。それを裏づけるように、クロージングロック導入時期からヒカリも見つけ出したのだ。

「山本さん。年明け早々警察に任意出頭させられて、ずいぶん焦ったことでしょう。あのとき、私もあなただとは考えていませんでした。駿河専務に動いてもらう駒として、所轄に頼んだのですから。でも駒は駒でも、瓢箪から駒でした」

「あ、あなた、いつから……」

 ヒカリから怪しまれていたとわかり、恵梨香は横目から小林常務を睨みつける。

「違う、私ではない!」

「ええ。小林常務さんがリークしたのでは、辻褄が合わないでしょう? さあ、早く」

 もはやすべてが露見している。

 恵梨香はパソコンに向かって、ロック解除画面を立ち上げる。カメラに向かって、しっかり自分の顔を向けて。

「そんな……!」

 最初の一文字でロック画面は閉じられてしまう。話が違う!と取り乱している恵梨香だ。

 誰からのお話でしょうねえ、と落ち着き払ったヒカリの笑いが、恵梨香の浅慮を物語る。


 恵梨香だけではない。小林常務も想定外の現実にただ茫然となる。

「クロージングロックはここセイント・セミコンダクターで開発された技術ですが、今まで使われたことはなかったのです。このロックは防御の最後の砦となるから、開発者は本当に危険な状況でのみ使用する前提を立てていました。顔認証とパスワードを生成したのは誰だったのか。それは開発者です。この認証対象者とパスワードは一度設定すると変更できないものでした。変更を利用して悪意のある第三者のみが閲覧できる事態を避けるためです」

 ヒカリは駿河専務のみが知る、クロージングロックの厳密性をみなに聞かせる。

「開発者は駿河専務にも顔認証対象人物とパスワードをおしえていませんでした。でも山本さん、あなたは予測できていた。駿河専務の愛人である山本恵梨香さんご自分の顔とローマ字綴りだと。そう思えるように開発者はあなたと関わり、仕向けていたのです。開発者は山本さんがハウエル・エレクトロニクス側だと疑っていたから」

 ヒカリは突きつける。私があなたを疑った最初の人物ではありません。私は開発者の意図そして託された想いを読み取ったのですよ、と。

「山本さんは自分がロック解除対象と思い、クロージングロックが発動してもその手で解除できるとたかをくくった。だから発動してすぐの今夜、小林常務に山本さんの顔写真をかざさせて、山本さんの名前を打ち込ませてロックを解除しようとした。だが、最初のひと文字目でロック画面が落ちてしまいます。顔認証で弾かれたのです。顔認証システムの仕組みを知らないあたなは、小林常務からの電話で顔写真では認証されないと考え、顔の本人としてここへやってきた」

 そのあとが今ここでの顛末だ。ヒカリは恵梨香が社屋近くのファストフード店に入った時点で、自分の推理にもう確定の判を押していた。烏龍茶をすすりながら恵梨香の動揺を楽しんでいたのである。

「さて、先ほども言いましたが、駿河専務がクロージングロックの解除方法を知らされていません。では、あなたに自分がロック解除対象者と思わせたのは誰なのか、あなた以外の人にはそこが謎になります。でも私には謎ではなかった。そんなことできるのはひとりしかいません。開発者です」

 隠れていた円香もいつの間にか姿を見せて、ヒカリの淀みない読みに聞き入っている。

「八矢さんが持ち込んだクロージングロック、駿河専務も開発者が誰なのか八矢さんから聞かされていなかった。完全過去形です。もう開発者はいません──」

 ヒカリは放っていた強い目力を、少し遠い目に変える。

 澄花が推測した顔認証対象者とパスワードは開発者、考えてもみればほかにいない。クロージングロックは圭吾がセイント・セミコンダクター社にきてすぐ、導入されたのだ。

「クロージングロックを開発したのは八矢圭吾さん本人。私が今、八矢さんの意志を継いで、ロックを解除してみせましょう」

 ヒカリはパソコンのカメラに一通の履歴書をかざす。八矢圭吾の履歴書である。潜入捜査官としてきたのだから経歴は偽りだが、顔写真は本人だ。

 そしてHの文字を打つ。画面は落ちない。顔認証を突破したのだ。

 次にIの文字。そして、ウインドウには、HIKARIと入力される。

 まだ解除には至らない。つづきがあるのだ。

 ヒカリはさらにHを入れる。スッとロック画面は閉じられた。

 ──HACHIYAではない。

 これはヒカリも意外であった。このパスワードは圭吾からのなにかのメッセージの意味も含んでいるとみて、自分の名を入れてみたのだ。HIKARIまでは合っている。

 ──そうか!

 ヒカリは目の色を変えて、キーボードをたたく。

 ”HIKARIFUJINO”

 今はもう破棄された、ヒカリの出生名。

 ロック画面は解除された。あらわれたエクスプローラーは、輸出品目の一覧と数量調整の月毎の履歴フォルダ。

 そして、これまで表示されることのなかった、碧泉院流親占教会と警視庁、ひとつずつのフォルダ。このクロージングロックを経て、はじめてあらわれる隠しファイルが格納されている──。



 セイント・セミコンダクター社の輸出データが盗まれ、ハウエル・エレクトロニクス社に渡り、同社は受注獲得競争で不正に優位を得ようとした。

 そのデータはエムジー工業を経由し台湾企業へ。台湾企業は品目データを活用しセイント・セミコンダクター社の資本を侵食し、役員を送るまでに力を大きくする。そして、台湾役員はセイント・セミコンダクター社の開発技術を台湾企業に漏洩させる。最終目的は乗っ取り。

 それら壮大な計画は、ひとりの少女によって瓦解させられた。

 少女は成人を装い、素性も偽りのもの。そして一連のできごとは、すべて表沙汰にはしないで幕引きにする。

 事実も真実も、すべて葬る。ヒカリの捜査はこれで終わりではない。明るみにすることで受ける介在は、ヒカリの悲願には邪魔なだけだ。

 そして、過ちを犯したすべての人々には、赦しという救済を与え、これからは救済を与える立場として心を入れ替えていく。



 あかり懇意のスナックを情報収集の場として使うのも、これで最後となろう。ヒカリは駿河専務を伴って、そのドアをくぐる。

 店の奥、仕切りの向こうの一台のテーブル。座っているのは百合である。ホステス役も今夜まで。駿河専務から圭吾のことを聞き出すヒカリのサポートとしてここにいる。

 そしてもうひとり。占術士として一歩を踏み出した鋼音を呼んでいたヒカリだ。


「ハウエル・エレクトロニクスに制裁を与えたい気持ちは山々だが、わが社もいくつか法に触れる行いもありましたから……」

 経済犯罪の刑罰は相当に重い。それも今回は法人ではなく個人が背負うであろう。本来、川原謙次郎は懲役を免れたとしても、罰金額は自己破産となる大きさだ。円香にも相応の罰がくだる。それをないことにするのだ。

「公正取引という点でも、エムジー工業日本法人の佐藤さんとはグレーな関係にあったでしょう。さらにはエムジー工業が中国本土と汚職の関係にあったとなると、それをネタに還流させていたことも明るみになってしまいます。みんなが痛みを分かち合うより、これを教訓に健全な運営を目指すほうが建設的です」

 小林常務も千田課長代理も、一般の退職となる。千田課長代理へ振り込まれた百万円は、小林常務が会社の金から捻出したから、そっくり返還させてあとは構いなしにする。

「野村さん、あなたは変な正義感をかざさず、罪を憎んで人を憎まずの自律を崩さない。頭が下がります」

「それでもみんなが元のままということはありません。ハウエルに与した園田、いえ、中村警視は今度こそ警視庁を免職になるでしょう。千田課長代理も出来ごころとはいえ、恐喝は本来は刑事事件です。一般退職で済ませてもらうことに感謝して人生を送ってもらいたいものです。小林常務も──」

「小林常務がハウエルに内通していたとは、まったく思いもよらなかった。あんな勤勉で実直な男が……」

「前身の会社から常務で、セイント・セミコンダクターに改組しても常務のままで六年です。ブルーカラーゆえの行き詰まった自分に思うところがあったのでしょう」

 この店にはじめて連れてきた関係者が小林常務だった。その姿は普通の小心者であった。だから、人生で一回きりの賭けに出たのだ。一回きりの賭けなど勝てるわけがない。もしあかりがここにいたら、そう唾を飛ばしているだろう。

「駿河専務。なにより驚かれたのは山本さんのことではありませんか? 愛人にされていたのですから、信頼も大きかったと思います」

「お恥ずかしいが、癒やしでした。家族も癒やしですが、彼女は足りない水分を補うような存在だった……」

「年齢差もありますし、既婚者男性と若い独身女性ですから、一般には不潔な印象をもたれますが、互いに添い遂げるような年齢差でないからこそ、言いかえれば期間限定だからこそ、男性からすれば精いっぱい可愛がる、女性にすれば目いっぱい甘える、そんな関係にはまりやすいのだと思います」

 そんな事例は数多く鑑定で見てきたヒカリだ。その一件一件に、あたたかい気持ちが根底に流れているのも知っている。

「山本くんはなぜハウエルになびいたのですかねえ」

「お金なのか、ほかの理由なのかわかりません。ですが、山本さんは商品管理の部署で、駿河専務からは輸出に関する情報が得られるわけでもないのに、ハウエルについてからも、愛人でありつづけた。おふたりの関係が、居心地の良いものだったのでしょう」

 これには百合もうなずいている。昔に同じような経験があったのだろう。

 ヒカリは穏やかな顔でうなずき返し、目を細めている。


「八矢さんが、クロージングロックの顔認証とパスワードが山本さんだと本人に思わせた理由を考えていました。ロックを発動する権限を持っているのは駿河専務です。顔認証対象者とパスワードも駿河専務が行うと八矢さんは思わせて、山本さんは疑問を持たなかった。自分をロック解除に使ったのは、大事に思ってくれるからだと、八矢さんは、山本さんの駿河専務への気持ちに改めて向き合わせたかったのだと推測します。ハウエルについた山本さんを、セイント・セミコンダクター側に戻したかったのだと」

「八矢くんはいつから山本くんがハウエルについたと気づいたのか……」

「捜査官ならではの気づきがあったんでしょう。山本さんの事情を察したのかもしれませんね。きっと苦しい事情が……。それを解消してあげられるのは、駿河専務、あなただけかも……」

「八矢くんは、そういう機微に敏いところがあった。罪よりも人だった。野村さん、あなたのように」

 ヒカリは気づく。そうだ。私はいつの間にか、圭吾くんの想いを受け継いでいたんだ。

「想いを成就させるために人を生かす。罪を憎んで人を憎まずの原点です。八矢さんははじめから、セイント・セミコンダクターにはその気持ちを持ってやってきた。それは警視庁からの正式な潜入捜査官としてくる前に、駿河専務、あなたと知己を得ていたから。碧泉院流親占教会が八矢さんとの出会いですね」

 親占教会での圭吾の動きは、ヒカリの両親の事件の背景を知る情報となる。

 そして、圭吾が、なぜ、誰に殺害されたのか。それを知るために必要な、親占教会の人間、警視庁総務部と公安部、その人間関係の相関をつまびらかにできる。

 いよいよだ。

「……百合さん」

 ヒカリの手は、百合に優しく握られている。

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