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最終話「悲歌」34

 ぐっすり寝ている鋼音のその枕元を、ヒカリと瑠璃は忍び足で通り過ぎ、階下の『光の路』まで降りていく。

 鑑定席と被験者席に座り、顔を合わせると、瑠璃はなお強い意志を表している。

「ヒカリさん、寝不足にさせてごめんなさい。でも、今夜こそどうしても聞いておきたいんてす」

「……」

 ヒカリは困ってしまう。瑠璃の聞きたいこと、いつかは尋ねられるとは思っていたが、今夜は心の準備ができていない。

 だが瑠璃の目は思いつめている。またの機会にね、とはぐらかしても聞き入れてくれないだろう。

「鋼音のことよね」

「はい」

 一緒に暮らしはじめてから、鋼音の友だちになろうと心を砕いてくれて、知能が遅れているように見えたときもピタリと寄り添ってくれた瑠璃だ。鋼音に回復の向きが顕著となった今は、互いに親友として頼りにし合っている。まるで双子のように仕草まで似てきて、気持ちが通じ合うふたりだ。

「鋼音は私の心を全部わかってくれてます。私の家族とも本当の家族みたいにしてくれる。でも、私は鋼音のことをなにも知りません。両親から何かの事情で離されて、ヒカリさんの先生に引き取られたことだけです。鋼音の本当のところをわかってあげられていないんです」

 かけがえのない親友だからそれがつらい、と瑠璃は涙ぐむ。

 前々からその気持ちはあったのだろう。だが、ヒカリが鋼音の謎を口にしなくなったから、聞くに聞けなかったという。

「でも、やっぱり知りたい。知らなきゃいけない、そう思ったんです。ヒカリさん、どんな話でも受け入れます。鋼音を守ります」

 痛いほどの瑠璃の気持ち、そうだろうとヒカリも思う。鋼音を守りたいのは、自分も同じ。だから、無理なことはできなかった。

 幼くして性の凌辱を受けたかもしれない鋼音。継父によって輪姦供出をさせられたのは任侠による調べから事実。その記憶を甦らせては、鋼音の精神を壊す可能性が高い。それがずっと怖かったヒカリだ。

「瑠璃さんの気持ちがわかっていながら、私はおしえることをためらっている。それは今も同じよ」

「それは、やっぱり性に関係することだから?」

 性行為の経験のない瑠璃の心にも、とてつもない衝撃となるだろう。いつかの澄花や美歌のように、冷静には受け取れまい。

 それでもヒカリは、ぎりぎりのところまでは、瑠璃に伝えなければならないと思う。

「瑠璃さんは、この次に好きな男の人ができたら、体のおつき合いもすると菜奈さんに言ったのよね」

「ママったら、そんな話をヒカリさんに……。はい、言いました。私もそういうことを考えていい歳だと思ってます」

 淀みなく口にする瑠璃は、ヒカリには大きく見えてくる。自分が十四歳のとき、鑑定に必要だから性行為のことはよく知っていたが、自分の経験とすることは意識の外だった。男の子に好意を持つことがなかったからだ。

「そうね。大人の感覚ではまだまだ子どもに見えるし、実際子どものところも多い。でも人間としての営みは、大人と同じか、同じものを欲していい歳でもあるわ。そして大人たちは見守るのが務め──ちょっと大袈裟だけどね」

「見守れないんですよね、心配ばかりして。ママもそうだし……ヒカリさんもですよ」

「痛いところを突くわねえ。そういうところが、十四歳の大人の部分──」

 そう苦笑してヒカリは、今度は思いもよらない言葉で会話の角度を変えてくる。

「赤とんぼの歌をしってるかしら?」

「夕焼け小焼けの赤とんぼ、ですね?」

「歌詞のあとのほうの節に、こういうのがあるわ。ねえやは十五で嫁にいき、お里の便りも絶え果てた」

 以前にあかりも驚いたヒカリの澄んだ歌声。瑠璃もいつもの鼻歌でない、歌唱としての歌声をヒカリから聴いたのははじめてだ。

「昔は十五歳で結婚するのは普通だったんですよね」

「この十五歳というのは、数え年なのよ。だから概ねは十四歳。瑠璃さんや鋼音の年齢なの。この歳でお嫁にいって、子どもを産むのよ」

「お嫁さんになるのはまあイメージできます。でも、子どもを産んでお母さんになるのもこの歳っていうのは、ピンときません」

「そうね。数え十五になったら結婚するものとおしえられ、周りがそうだったら、そう意識して育つわよね。唱歌の赤とんぼはそういう時代背景よ」

 ヒカリは、時代は違っても人間は同じ、と説く。昔が早熟だったわけではない。

「子どもを設けているんだから、もちろん性行為がある。瑠璃さんも鋼音もその時代のその境遇だったら、今の年齢で人としての営み、性行為をしている。ねえ。瑠璃さん。もし、相手が好きな男の人だったり、結婚した相手だったら、今、その気持ちになるかしら」

「なります」

「じゃ、相手が好きな人なんかでなく、好きになろうと思う人でもなく、全然知らない人なら?」

「え?」

 瑠璃は思ってもいなかったことをヒカリの口から聞く。

「それって、エンコーとかですか?」

「援助交際も、目的はともかく、本人の積極的意思での性行為よね。そうではなくよ」

 バン!と鑑定席を瑠璃の両手がたたく。その両腕は、ブルブル震えている。

「う、嘘ですよね……」

 意味がわかってしまった瑠璃だ。ヒカリはすぐさま、落ち着いて私の話を聞いて、とテーブルの上で瑠璃の両手をとり、自分の手と重ねる。

「鋼音は記憶を封印されているの。そして作り変えられている。鋼音が話したことも、私が先生から聞いたことも、おそらく事実ではないと思う。これは性のことだけでなく、両親のこと、学校のことも」

 事実はヒカリがいくつか情報を集めている。しかし、それはあくまで、ただの事実なのだ。

 瑠璃も一所懸命こらえて、落ち着け私、冷静になるんだ、と自身を叱る。

「あの、澄花さんから聞いたことがありますけど、心が耐えきれない強い衝撃にあうと、本能が記憶に蓋をして、辻褄が合うような作り話として記憶されるという……」

 澄花が姉の春佳の死に様の衝撃から、記憶の封印と改竄を受けたことを知っている瑠璃なのだ。鋼音も澄花と同じなのか。

「そうよ。私もまだ鋼音の本当がわからない。事実はわかっても、真実がわからない。だから話せないのよ。でも──」

「でも?」

「学校に関しては、記憶を巻き戻すわ。あの子は、学校に通えるようになったほうが、人生に広がりをもたらすもの」

 そう言いながら、ヒカリの表情が険しい。

「部分だけを都合よく巻き戻せるんですか?」

 不安いっぱいの顔で瑠璃は聞いてくる。

 やっぱりそこに気づくのね、と瑠璃の明察に感心しながら、ヒカリの眉間が帯びる険しさが増していく。

「理論上はできないのよ。思い出させたい時期を絞っての巻き戻しはできるけど、できごとを限ることはできない。その時期のものはすべて巻き戻るわ」

「じゃあ……」

 だがヒカリはもう決心している。

「だけど、やるわ。やってみせる。理論と私の鋼音への気持ち、どっちが勝つか、勝負してみる」

 両の拳をギュッと握る。理論派のヒカリが理論に挑む。

 もし、失敗すれば、性のこともみな甦って、鋼音の精神が耐えきれない衝撃に襲われる。そのとき、鋼音が壊れてしまわないよう、自分を犠牲にして鋼音を受け止める人が必要だ。もちろん、それはヒカリにほかならない。

「鋼音が通った学校に連れて行くわ。理論上できないことでも、記憶通りの場所でなら可能性はある。瑠璃さん、きてくれるわね、鋼音のために」


 瑠璃は思う。ヒカリが赤とんぼの喩えを持ち出したのは、自分にも言葉掛けしているのでは、と。

「私、小二の弟と年長組の妹がいるじゃないですか。私が今結婚したら、ねえやは十五で嫁にいき、なんですね」

 赤とんぼの詞がずばりとはまった気がする瑠璃だ。そこをヒカリは穏やかに訂正する。

「ねえやというのはお姉ちゃんのことではなくて、子守をする奉公人の女の子のことだそうよ。お里の便りは、その子に充てた家族からの手紙のこと。ねえやがいなくなったから、その実家から手紙がこなくなって寂しいって解釈よ」

 鋼音のお里、すなわち家族。家庭裁判所によって鋼音はお里から引き離された。接見禁止ゆえに、両親はまったく連絡してこない。それはわかるが、わざわざ八王子を訪れた百合と美歌には、あの子はいないものと思っている、と吐き捨てたという。

「お里の便り……絶え果てた……」

 ヒカリは瞬間、閃くのだ。赤とんぼの歌詞、ここに鋼音の家族の真実が隠されているのでは?



 午後六時。区立朝の台小学校。

 放課後の一年一組の教室、校長の許可をもらい、ヒカリと鋼音、瑠璃がそこにいる。

 案内してくれた林路加教諭に、はじめますので、とヒカリが声をかけ、退室してもらう。

「そこの椅子に座りなさい」

 ヒカリは鋼音を一年生の小さく低い椅子に座らせる。ヒカリの気持ちは、巻き戻しの準備を整えている。

「あんたは三か月だけ、ここに通ったわ。机、椅子、黒板、時間割、ロッカー、フック、どれも本当は記憶にあるはず」

 私の目を見なさい、という声に、鋼音は操られるようにヒカリと目を合わせる。その瞬間、ヒカリの眼光が鎖縄のように鋼音を巻く。鋼音の周囲は瞬時に真っ暗になる。

「……!」

 私の声だけを聞きなさい。どこからかヒカリの凛とした声が響いてくる。

「職員室であんたはなにをしていたの?」

 鋼音の目に映るのは、小学一年生の鋼音。幼いその顔は焦りの色に染まっている。鋼音は水道で手を洗っている。財布についていた塗料が落ちないのだ。たくさん石けんを溶かしても、いくら強くこすっても、少しも落ちない。

「鋼音──」

 闇からのヒカリの呼びかけに、幼い鋼音が振り向く。

 すると、鋼音の両目から太縄のような眼光が放たれるのだ。

「え?」

 太縄はあっという間にヒカリの体に巻きつく。ヒカリの周囲が真っ暗になる。そしてヒカリの眼前には、ヒカリがいるのだ。

 小学四年生のヒカリ。ほうきを手にして、教室の床を掃いている。

 そして台拭きで机を拭く。一年生の机。ここは一年生の教室なのだ。ヒカリは四年生のとき、確かに一年生の教室の掃除をしていた。

「明日も楽しくあそんで、勉強するのよ」

 ヒカリは机に向かってそう言葉をかけている。

 机には記名がある。はがね、と。鋼音の名だ。ヒカリは鋼音の机を拭いている。

 ふーん、変わった名前ねえ、と微笑むヒカリ。


「鋼音!!」

 我にかえったのはヒカリのほうだった。

 巻き戻しをされたのはヒカリだったのである。

 目の前にいるのは、十四歳の鋼音だ。

「あんた……巻き戻しを返したの?」

 ゆっくりと、うなずく鋼音は、目が潤んでいる。

「学校のこと、すでに思い出していたのね。自分が何をしていたのか」

 鋼音は瞬きもせず、じっとヒカリの目を見ている。

「ヒカリさん。ごはんが食べたかったです。お父さんとお母さんに、ごはんを食べさせてあげたかったです」

「ごはん……」

 ヒカリの顔が衝撃を物語っている。

 想像もしていなかった。両親が親占教会に所属していながら、鋼音の一家はなにかの事情で生活は困窮をきわめていたのだ。

「鋼音、もういいのよ。もう、ひとりで抱えこまないで。あんたには私がいる。瑠璃さんがいる。あかりだって、澄花さんだって、美歌さんも、百合姉さんも」

 八年前、鋼音の一家になにがあったのか。麗華なら思い当たることがあるかもしれない。だが、今はそれはいい。巻き戻しを施すまでもなく、鋼音はすでに、学校に関わる封印が解けていた。そして、ヒカリに匹敵する眼光を放った。ヒカリに過去を映写してみせたのだ。それもヒカリの記憶から忘れ去られていた、鋼音の名を見た光景を。

 忘却された記憶をも甦らせる、封印解除を超えた、占術士としての高度な能力を発したのである。

「あんた、やっぱり占術士の娘なのよ」

 ヒカリは震えるような感動を覚えずはいられない。

「鋼音!」

 瑠璃がしっかりと、きつく、鋼音を抱きしめる。両目からあふれる涙は、本当の鋼音の姿にひとつ近づいた喜びだ。

「瑠璃……」

 鋼音自身はみんながなぜ泣いているのかわからない。でも、少し心が軽くなった、その思いは確かにする。

「麗華先生に、報告するわね。巻き戻しの高度技術者だと。免許を申請するわ」

 ヒカリもこらえきれなくなる。占術士にすることにこだわっていなかったのに、いや、ほかの仕事に就かせる気持ちが強かったはずなのに、この嬉し涙はなんだろう。ヒカリ自身にもわからない。

 今日このとき、占術少女鋼音は誕生した。

 刻々と発動を迎える運命の力。それがなお強い支配を帯びた瞬間だと、誰も知るよしもない──。

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