最終話「悲歌」33
翌朝にヒカリがセイント・セミコンダクター社に出勤してみると、対外課がざわざわしている。
円香も出勤している。ヒカリが、なにか起こりましたか?と尋ねてみると、園田課長と千田課長代理がふたりとも出勤してこないという。
「携帯に電話しても、ふたりとも電源が入っていないんだそうです」
対外課でヒカリと話したことがある若い社員が、嫌な予感がするといった顔つきで、ヒカリにそう話しかけてくる。
「あなた、心当たりがあるのかしら?」
「昨日、園田課長に電話があったんですよ。それから課長は顔を真っ青にして……」
昨日であれば、その電話はヒカリの策とは関係がない。相手は、ハウエル・エレクトロニクス社の川原謙次郎だろう。円香が裏切ったとわかり、事態の露見をおそれて顔色を変えたのだ。
それもヒカリは想定のうちだ。だから策を講じた。
黒潮組の会田組長に、園田課長と千田課長代理の身柄を押さえて欲しいと頼んだのである。昨日の夕方から夜にかけて、新小岩駅そばでふたりともそれぞれ拉致されたのである。円香を通常どおり出勤させたのも、彼女にはなにも起こらないからだ。
円香がクロージングロックをかけられていると嘘を伝えたことで、経済産業省と警視庁が、円香の裏切りを大きく見ることもあり得る。だが園田と千田の両名が行方不明となれば、そちらのほうが大ごとと円香のことは後回しになる。
せっかく捕らえたのだから、直接尋問したいところだが、どちらかが公安の捜査官なら、コンサルタント野村ユカリの正体はバレてしまう。誰かほかのものに尋問させたいが、誰が良かろう。
押野勇気は元公安捜査官なのだから、尋問はお手のものだ。しかし、今後の総本山での捜査を考えるとその存在をまだ知られたくない。
採用以来ずっと交番勤務の塚原望では、まだ取り調べの手腕を持っていないだろう。
うってつけの人物がいた。
葛飾区内の雑居ビルの一室。園田課長が椅子に座らせられたまま縛られ、猿ぐつわをかませられている。その部屋に入ってきたのは、警視庁総務部所属で所轄渉外でもある工藤巡査なのである。
「あなたは……」
驚いた表情のまま、工藤巡査が近寄って呼びかける。
「園田課長、いえ、中村警視。ここであなたとお会いするとは思いもしませんでした」
バックヤードでは、カメラ画像に映るその様子をヒカリがじっと凝視している。
カズサビューティーグループ新宿クリニックで収賄を犯した警視庁総務部の中村警視。その後始末をしたのが、圭吾であり、工藤巡査だ。
直属配下である中村警視の不祥事が表沙汰になると、次期警視総監を狙う富樫総務部長にとっては痛手となる。椅子を争う敵から中村警視を隠すため、当時は必要もなかったセイント・セミコンダクター社への潜入の任をあたらせていたのだ。
「それが結果として、公安からの潜入捜査官の疑いを逸らす役に立ったのですね」
圭吾の後任としてきたなら、公安部の捜査官と誰もが思う。それも圭吾が休職したタイミングでの潜入と考える。図らずしてその裏をかいたことになったのだ。
中村警視はセイント・セミコンダクター社を台湾企業侵食から救済するときも、その任の声がかからなかった。もっとも疑われない立場にいるにもかかわらずだ。一社員として会社業務を果たすだけだった。
警視庁内で、収賄を犯した禊が済んだと認められなかったためだが、中村警視の能力では遂行できないという、今泉公安部長の判断があったのである。神林派の圭吾を用いたのも、失敗したくないからなのだ。
セイント・セミコンダクター社を経済産業省支援から切り捨てる方針に変わったとき、中村警視ははじめて捜査官として復帰を許されたのだ。
ハウエル・エレクトロニクスに買収されて川原謙次郎と組んだように見せかけられたのは、謙次郎が園田課長の正体を知らされていなかったからだ。中村警視も総務部の捜査官なのだから、買収を持ちかけられるように仕向ける才覚はもっている。
猿ぐつわを外された中村警視は、工藤巡査の尋問に落ちていく。
別の部屋には千田課長代理が、同じように縛られている。潜入捜査官が園田の方とわかったから、こちらはヒカリ自らが尋問する。
隣室には駿河専務を呼んでいる。スマートホンの画面に送られてくる映像と音声は、駿河専務のすぐそばだ。
「輸出品目のデータがライバルであるハウエル・エレクトロニクス社に漏れていることに気づいていましたね。主導者に心当たりがあったのでしょう?」
「……」
「橋中さんがデータを見ていたことに気づいて、あなたも不審を持ってそのデータを閲覧した。あなたなら、中国では禁輸になっている品目が含まれていることがわかったでしょう」
「……」
千田は黙秘を貫くらしい。
それならばとヒカリは、ずばりとひと刺しでかたをつける気になる。
「八矢さんにではなく、ある人物にその事実を突きつけた。経産省や公正取引委員会に通報しない代わりに、何を求めましたか?」
「……」
「これはあなたの銀行口座のICキャッシュカードです。通帳と同じ内容をオンラインで見ることができます。ある人から、百万円の振り込みを受けていたのも、もちろん記録されています」
千田の顔色が一瞬で変わる。黒潮組に捕まって、所持品はすべて取り上げられたとはいえ、本人確認なしで口座の記録を見ることができるとは。目の前にいるのはただのコンサルタントではない。
千田は、警察にだけは通報しないでください、お願いです、とここは観念して酌量に徹してもらうしかない。
ヒカリはここで、きつい表情を解いて、微笑みを向けてみる。
「まあ、私も鬼ではありませんからねえ」
もとよりヒカリも、この件の重要人物ではないとわかった千田に暇を割くつもりなどない。
セイント・セミコンダクター社を取り巻いていた黒い霧。発生元がつまびらかになり、駿河専務も、
「園田くんが警視庁総務部の捜査官、千田くんが恐喝を仕掛けていたとは……」
と、台湾からの役員ではなく社内に獅子身中の虫がいたことに動揺を隠せない。
ヒカリは、まだもうひとりいます、と人差し指を立てている。
「誰が千田課長代理に百万円を振り込んだのか、です」
振込人名は偽名だったが、概ね予想がついているヒカリだ。ハウエル・エレクトロニクス社とつながっている人物が他にもいる。
「駿河専務。藪から蛇をつつき出す、いえ、たたき出しましょう。ハウエル・エレクトロニクスという蛇を」
「野村さん、いい案がありますか?」
「あります。私に任せてください」
ヒカリは圭吾の捜査官最後の仕事、セイント・セミコンダクター社の台湾企業支配から脱する策を完成させるつもりだ。
ヒカリは駿河専務に、輸出品目データのクロージングロックをかけるよう要請する。
「要請なのでもちろんロックはかけますが、これは社秘技術です。たとえ野村さんでも解除方法をおしえるわけにはいきません」
「もちろん承知しています。ハウエル・エレクトロニクス側の誰かがこれを解除にかかるはずです。そこを押さえることができれば、園田課長のバックにいる人物に行き着きます。ハウエルにしてみれば、社員の誰かが勝手に経済犯罪をおかしているのですから、そんなことで多額の罰金処分など受けたくはないはず。表に出ないよう、セイント・セミコンダクターからはそっと手を引きますし、ハウエルと組んでいる経済産業省も不祥事のとばっちりを避けるために、セイント・セミコンダクターの切り捨てをやめるでしょう」
「しかし、台湾資本がどうにかならないと、切り捨てをやめるまではいかないのでは?」
ヒカリは、八矢さんはとても優秀な人でした、と微笑みながら切り出す。
「現金以外の資本を確認してみてください。ひと月ごとに台湾資本は目減りしていますよ。あと一、二年もすれば現金も含めて純日本の資本に置き換わります。台湾からの役員を追い出せれば、技術漏洩もされなくなります。経済産業省は八矢さんのこの仕掛けに気づいていなかったのです。基盤の転売からはじまった台湾の乗っ取り計画ですが、もう引き潮です。遠からず、セイント・セミコンダクターを日本企業に戻して生かしたい派の勢力が大勢を占めますよ。それが経産省の誰も処分されない方向なのですから」
ヒカリと圭吾が肩を寄せ合う一枚。
深夜、私室でその写真を手に取り、ヒカリはふと思う。
そういえば、圭吾に一杯食わされた、という話は円香から出なかった。
だが、もう尋ねずともわかる。圭吾はエムジー工業の売り上げ金につけた技術漏洩対価を、数量水増しではなく単価に上乗せしたのだ。
技術漏洩の話など知らない円香だから、セイント・セミコンダクター社の販売価格を実際よりも高い金額と思い込んでしまった。
セイント・セミコンダクター社の電子帳簿上の価格より安価でエムジー工業へ提示した謙次郎だが、実際の単価よりは大幅に高額な提示になってしまったのである。
数量調整を任せられている立場なら、数量で水増しするのが断然楽なのに単価で調整した。円香がハウエル側の人間と見破ったのか、それとも潜入捜査官ならではの注意力なのか、いずれにしても圭吾の能力の高さを見た。
「圭吾くん。根っから捜査官なんだから──」
ヒカリは、彩子の家の仏間に飾られた圭吾の遺影を思い返す。警察官の制服を着た圭吾。
「ねえ、圭吾くん。警察、辞めてなかったんだよね」
ヒカリはそんな気がしている。圭吾が残した最後の仕事を、妻の自分がやり切った。気分がいい。
いや、仕上げがまだだ。中村警視の上で直接指示を出した人物。その者をセイント・セミコンダクター社から追い出す。
円香と謙次郎を結ばせ、葉山由紀子と小諸典子を失恋させる。円香と幸香のネイルサロンを設立する。
「なんだ。やることいっぱい残ってた」
自分に向けて苦笑いをするヒカリだ。
すると、リビングからのドアが静かに開いた。パジャマ姿で瑠璃が顔をのぞかせている。
「ヒカリさん……」
朝には学校だというのに、こんな夜遅くになんだろう。
「ヒカリさん、お話、いいですか?」
なにか強い気持ちを表にして、瑠璃はヒカリの目をまっすぐ見つめている。




